009:初色は海の蒼さに溶けて
港町『メギザネ』は、この国の首都『イシ・ロンデ市』への直通航路を持つ交易都市だ。
ここから陸路を進んでも首都にたどり着くことはできる。しかし、その道のりは湾に沿って大きく迂回していく長距離ルートだ。早馬でも7日はかかるその道のりをわざわざ選ぶのは、よほどの物好きか、何らかの理由で船を使えない場合に限られると言っていい。
「う゛う゛っ。やっぱり、陸路にすればよかったよ……」
すでに陸を離れて半日。ミントはイシ・ロンデ行き高速船に小さな身体を揺さぶられ続けていた。
その『何らかの理由』に船酔いが含まれることはまれだろうが、当事者の苦しさは他人には伝わらないものだ。げろげろ。くっそ、ミントがここまで船に弱いとは予想外だった。
出航のわずか1時間後には、船の縁にもたれてお魚さんに餌をやり続ける羽目になっていたのである。
“昔”に読んだファンタジーマンガでやっていたのを思い出して、自身に『解毒』を試みてたが無駄だった。それはそうだ。だってこの酔いは薬や酒によるものではないのだから。
「次は、ぜったいにアーノルドに乗って旅をするんだ」
メギザネの厩舎に預けたばかりのナイトメアがもう恋しくなっているのは、心が弱りすぎているせいだろうか。
それにしても、ひいき目抜きにミントをかなりの美少女だと信じて疑わない俺だが「あぁ、き゛ほ゛ち゛わ゛る゛い」とつぶやきながら、少しでも揺れの少ない場所、風の気持ちいい場所を求めて、船のデッキを幽霊のようにふらふらとさまよっているその姿。これを目にしては、百年の恋も一瞬で冷めてしまいそうではある。
「お嬢ちゃん、撒き餌をいっぱいありがとな」
「うぁあ?」
そんな愛らしい幽鬼に、声をかける男がいた。
年の頃は20歳前後だろうか。短く整えた金髪と意志の強そうな碧眼に快活さが感じられて、なかなかに好感度の高い青年だ。
ていうかミント、短い返事すらもおぼつかないものになってるぞ、だいじょうぶか。
「おかげでよく釣れるよ、ほら」
彼の傍らにある水桶の中には、気分がよければさぞかし食欲がそそられそうな、生きのいい食用魚が数匹泳いでいた。
「釣り、してるんですか」
「ああ、他にやることもないしね」
やることのあるなしの問題ではない気がする。
ていうか、こんな高速船のデッキから魚釣りなどできるものなのか?
「釣れるさ。ボクは釣り師だからね」
「まあ、釣りしてますしね」
「Elderのね」
「へぇ、すごいんだ……って、『偉大なる釣り師』??」
嘘だろ。根も葉もないウワサには聞いたことがあるが、本当にいたのか。
実のところ、釣りスキルをGrand Master以上に上げる人はいない。なぜなら「そこまで上げても釣れるものがない」からだ。否。釣り上げられるものがない、と言い直そう。
なにが言いたいかわかるだろうか。要するに、Elderの釣り師が糸を垂らせばクジラだってヒットする。するが……いかに巨体怪力を誇るオーガでもクジラの一本釣りなど絶対に無理。人においては言うに及ばず。
人類にはあまりにも過ぎた技能――それが、Elder Fishermanなのである。
「ほえ~……あの、サインもらえますか?」
「いいとも。サイン入りブロマイドは298Gだよ」
高っ! てかブロマイドあるのかよ。
まあ、確かに希少な人物ではあるけども。
どうでもいい情報を付け加えておくと、普通の釣り人や漁師達が行う魚釣りと『スキルとしての釣り』はまったく違うものだ。犬や猫を飼っているからと言ってそれをテイマーとは呼ばないことと同じと考えればいい。
「うぷ」
「船ははじめてかい、お嬢ちゃん」
「ぷぐっ、ミントです。はじめて、じゃないとは思うんですけど、げぇっ」
「そうか、ボクはフィリップ。そこのマストにもたれて少し待っていたまえ。船員に酔い止めをもらってきてあげよう」
「あ゛、あ゛り゛がとうござい゛まず」
そうか、客船なら薬の用意があるかもしれないな。あまりの吐き気に頭が回らなくなっていた。ここはぜひ彼の厚意に甘えさせてもらおう。はぁ。
それにしてもいい天気だ。手ひさしで空を見上げると、かもめが輪を描いて飛んでいるのが見える。船酔いがなければさぞかしいい陽気に感じられるのだろう。もったいない。
「もらってきたけど起きれるかい?」
「は、はい。ありがとうございます、いま起きます」
くらっ。
一瞬で襲いかかってきためまいと吐き気に、起こしかけていた背中をマストにしたたかぶつけてしまう。
「痛っ。うう」
踏んだり蹴ったりだ。
「無理しないで。ほら」
え。
マストに預けている背中に右手を通して肩を抱えてきたフィリップさんは、そのまま優しく抱きかかえるような形で膝の上にわたしを乗せて、にっこりと微笑んだ。
いや、まって、なんでわたし抱かれてるの。顔近いし。
よくわからない思いが心の奥底から滝登りをしてくるのが感じられる。
全身が熱い。特に顔が。
これいま、ぜったいゆでだこ状態だよ。賭けてもいい。
「あの、あのあの」
舌が思うように動かない。むしろ思うことが思うようにいかない。
ほら、なに言ってんのかわかんない。
ますます顔が近くなる。っていうか、フィリップさんけっこうカッコいい?
まってまってまって。なんでなにどうなってるのこれ。
「はい、コップを持って」
「え」
気付くと、水の入った両コップを両手の平で挟むように支えている自分がいた。
「水を少し含んだら上を向いて口を大きく開けて」
あ。あ~~ん
「じゃあ、粉薬を少しずつ入れていくから」
「あい……」
「よし、いまだ。ゴックン。コップに残った水もぜんぶ飲んで」
「んくっんくっ……はぁ」
「はい、よくできました」
言って、わたしの頭を撫でてから抱え上げて再びマストの前に戻す。
…………子供か!!
いま、わたし、子供扱いされたんだ!?
粉薬くらい一人で飲めるよ! ふざけんな!
いろんな意味で顔を真っ赤にしているわたしは、抑えきれない様々な感情を爆発させたくて、この扱いに関してフィリップさんに一言ぜったい文句を言ってやろうと……え。
おぉああおぃいいぃおおおお!!
おい俺! しっかり俺! なにをポーっとしてたんだ??
やばい。ハンパなくやばい。
戦いじゃないのにミントに意識を持って行かれてた。
戦闘時にミントの意識が俺を上回る理由は、この世界で生まれ育ったミントと違って“現代人”の俺には『殺し合い』という極限状態に耐えられないからだと、このあいだ仮説を立てたが、それに追加する必要があるようだ。
俺にもミントにも共通して『フィリップへの耐性』はない。
が。
男である俺と、女の子であるミントにおけるそれは、似ているようでまったく違うのだ。
俺にとって男同士は“苦痛で嫌なもの”だから耐性がないのだが、ミントにとっては“慣れていないし恥ずかしい”という意味で耐性がないのだ。
平たく言えば、俺には無理だがミントはそうでもない。
意識の担当がミントになるのは自然な成り行きだろう。
うん、理由はよくわかったんだけどな??
やばいなこれ、対抗策が思いつかない。
へたしたら我に返ったときには男の腕枕の中とかそういう流れも……いやあああああ!!
ダメですそういうのお父さんは許さないから。
ミントには早すぎるから。ぜったいにそういう展開は阻止するから!
俺が思い悩んでいたのはごく短い間だったはずだが、その間にはミントの真っ赤になった顔がとつぜん蒼白になったりして、はたから見るとさぞかしおもしろい光景が広がっていたのだろう。
だがフィリップはそんな気持ちはおくびにも出さない。
「落ち着いたみたいだね、だいぶ顔色がよくなってきたよ」
「そ、そうですね、助かりましたありがとうございます」
それはともかく、確かに彼には世話になった。礼を言わねばなるまい。
実際、吐き気の方はだいぶよくなった。
そんなときのことだ。
「あ。フィリップさん、引いてますよ、あの竿」
「ん? おや」
彼の3本の置き竿のうち、一番左が激しくしなるくらいに引いている。素人目にも大物がかかったことがわかるというものだ。
「ん。んんんっ」
手慣れた調子で竿を操るフィリップ。
「がんばれ、フィリップさん! もうちょっと!」
なぜか無性に応援したくなってくるのが不思議だ。いや、理由はわかるけどわかりたくない。
「これは、ふむ、まずいかな」
「え?」
ぐらっ。船が傾ぐ。
「おい、船の下になにかいるぞ!」
「なにかって――あああ?」
非常事態に殺気立つ船員さんたちが、なにかに気付いて大声を上げた。
「シーサーペントだ!」
「なんでこんな。この近海にはいなかったはずだぞ」
「なんとかしろ、舵を壊されるぞ」
「なんとかってどうするんだよ!」
この近海にはいないはず、か。
犯人わかっちゃったんですけど。
「フィリップさん!」
「うん、ボクだよ。こんな大物は久しぶりだなぁ」
「のんきなこと言ってないでなんとかして。『偉大なる釣り師』でしょ」
GMを越えた釣り師にとって、それが水中にいる相手であるならば、魚だろうが哺乳類だろうが、はたまた怪物であろうが区別はない。
「メダカに逢うてはメダカを釣り、怪に逢うては怪を釣り、然る後、初めて極意を得ん」
これは、以前に縁があって立ち寄った『釣り師ギルド』で見た掛け軸の文言だ。迷惑極まりない。
とは言っても、シーサーペントのような巨大怪獣を釣り上げることなど物理的に不可能だ。釣り上げられない獲物がかかる可能性を考慮すれば、他の手立てを用意しておかなければならない。
「Elderだけどさ、ただの釣り師だからね」
「いや、まって? 海洋生物用の攻撃呪文あるよね?」
「ただの釣り師だからねえ」
まってぇぇぇ!
GM級の釣り師はみんな攻撃魔法が使えるでしょ? 主に水の中の敵に特化した呪文をいくつも備えてるもんでしょ?だからこそ、こんなものを客船のデッキで釣ってたんでしょ?
「ボク、勉強は嫌いでさ。魔法とかよくわかんないしね」
ああああああ! 残念イケメンでした~~!!
さよなら、わたしの初恋!
いやちょっとドキドキしただけだけどさ、もうこれ黒歴史だよ。
ぐらっ。さらに揺れが激しくなってくる。
残念ながらわたしはシーサーペントに有効な呪文を持っていない。『Energy Strike』のような魔力そのものをぶつける呪文なら相手を問わずに効果はあるだろうけど、大型船をひっくり返そうとする巨体を倒すとなれば、いったい何発撃ち込めばいいのやら、見当もつかないよ。
ぐらっ。みしっ。
「ひっ。なに、いやな音したよ?」
「したねえ」
「なに他人事みたいに言ってるんですかぁ!」
Guoowwwoooo!!
わたしたちがコントに興じている間にも、まさかこんなところでフィリップがえへらえへらしているとは夢にも思わない船員さんたちは、対処に追われて右往左往している。
「帆を畳め、バランスが崩れる」
「舵が全く効かないぞ」
「客を船室に誘導しろ」
「船長、船長どこです!?」
大混乱だ。
どうするのどうするの、これ。
あ、そうだ、釣り師の魔法以外でなんとかできそうなのと言えば……
「お客さまの中に吟遊詩人はいらっしゃいませんか~~?」
情けない声でわたしは助けを求めていた。
そうだ、バードの使う『平穏』なら、シーサーペントもおとなしくなるかも。お願い助けて、こんなところで死にたくない。
そのときだ。
「♪~~~」
聞こえてきたのはリュートの音。
まさか! いたのバード! ホントに!? これで助かった?
「オ~~~ホッホッホッホ!!」
げ。
リュートの美しい調べを追うように響き渡ったその声は、平和を歌う麗しい歌声などでは断じてなかった。
逆。癇にさわる甲高い頭の悪そうな高笑い。
一瞬でミントから我に返った。俺はこいつを知っている。
「だぁからテイマーは無能だっていつも言ってるんですのよ?」
「あんた……」
「だって、動物がいなければな~んにもできないんですもの。オーッホッホッホ」
「岡崎 静里奈!!」
そう。俺はコイツを知っている。
何度も『Climax Online』で衝突したことのある嫌なヤツだ。