序章 禍因
そこは薄暗い闇に浸されていた。
幽かな光が、それ自体では何も照らし出せないような頼りない光のみがその空間にはあった。
その弱々しい光は、二次元的に存在し、一部は闇に喰われたように欠けていた。
「おのれぇ…ぇ…ザムラぁぁ……」
掠れきり、くぐもった感のある声。怨嗟に満ちた響きが歪な人型の闇から滲みでた。
青白い弱光を放つタイル仕様の床面。
その上を這う短身小太りの人型。
その男はしきりに『ザムラ』という単語を吐き出しながら、その身を這いずっていた。そして男の身体がなぞった後の床は、その弱々しい光が遮られるように絶えている。
――血であった。
男は大量の血液を床に塗り付けながら這っていたのだ。
妄執に憑かれた右目。
本来在ったであろう左目は、無い。
眼球の代わりに、泡立つ程の血が眼窩に溢れている。
どれほどそんな凄惨な行軍続けたのだろうか。男の片手が、壁に触れた。
同時に、ギュウンという音とともに壁が消える。
「誰だっ!」
消えた壁の向こうから、誰何の声が放たれた。どこか怯えたような声。
「ザムラぁぁ」
這う男の姿を視認した声の主は、小さな安堵の息をつき、それから嘲笑するように口を開いた。
「やれやれ、それだけの深手を負って、延命処置もせずに私を追ってきたのですか?愚かなことを。こうやって追い付いたところで何も出来ないでしょうに。死ぬ前に恨み言でも言いたかったんですか?」
横長の長方形をした光壁。大型の映写機の画面を背にした『ザムラ』を、残った右目に憎悪と怨嗟を込め影の男は睨み付ける。末代までの怨みを訴えるかのような、眼。
声にこそならなかったが、ザムラの喉が怯んだように息を呑んだ。
だが、その後の男の様子が一向に変わらないことに気づき、彼は安堵を取り戻した。
「死んだ、か」
ザムラは光壁に浮かび上がる無数の数式を振り返った。
手元のコンソールを操作し、次々とデータを読み出す。
「ふん。やはりな」
一通りのデータに目を通し、ザムラは侮蔑とともに納得した。
「何が『気長に待ってろ』だ。これなら、あとは私のデータを合わせるだけで、すぐにテストに、移行出来るではないか」
思った通り、自分も涸れに寝首をかかれる恐れはあったのだ。
その不安ゆえに、先に手を打ったわけだが、正解だったようだ。
「もっとも、殺してまでとは思ってなかったのですがねぇ。貴方がデータのロック解除に『網膜パターン』なんて、前時代的、いや旧文明的なものを使わなければ、そんな惨めな有り様にはならなかったんですよ」
あまりに旧すぎて、網膜を読み取る装置が手に入らなかったため、彼のみが所有していた『遺物』装置を使わざるを得なかった。
「ふむ…しかし、このサンプルリストは…。随分と理解に苦しむ『趣味』ですなぁ」
遺物に興味を持っているとは知っていたが、大事な『研究』のサンプルにまで盛り込むとは些か度を過ぎている。
「現地の民族語りまで調べますか、普通?時間の無駄でしょうに」
露骨に、待たされた時間を憤った台詞。
「まぁ、良いでしょう。ここに至っては故人の遺志を尊重するとしましょう」
どの口からそんな言葉が出るのか。随分と殊勝なことを口にしながら、ザムラはデータの読み出しを終了する。画面の消失と切り替わるように、部屋全体の光度が増した。
ゆっくりと出口に歩き出すザムラ。一瞬だけ骸となった男に視線を投げる。
「ねぇ、兄さん」
屍と同じ顔で、ザムラは言った。