黒飛蝶
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
ふむふむ。テントを張る時に使うペグは、真っすぐ打つのではなく、60度くらい寝かせてから打つ、ねえ。こちらの方が真っすぐに打つよりも、抜けづらいんかなあ。どうも頭の中だけだと実感が湧かなくて。
いやはや、文字通りの外泊となると、知らない知識がいっぱいだねえ。今から、ちょっと不安を覚え始めたよ。特にテントの扱いに関してはさ。
確かに雨風を防げるとは言っても、過信はできない代物だ。そのうえ、僕にとっては視界を遮られてしまうというのが、なかなか怖い。何かがこっそり近づいてきていたとしても、それに気づくのが遅れる可能性がある。
ふふ、ホラー作品の見すぎだろうかね。こんな感想を持ったりしちゃうのは。区切られた空間というのは、本当に色々なことを運んできてくれる。それを招き入れちゃった日なんかは……。
それをめぐる話も、最近ひとつ仕入れてきたんだよ。君もその手の話に興味があるって言ってたろ? 聞いてみないかい?
戦国が舞台の作品とかで、陣幕を張ったりするシーン、見たことあるかい? 家紋とかがでかでかとあしらってあって、いかにも「重要な空間ですよ」という演出が成されている。
戦国時代はアピールがとても大事だ。敵味方を問わずに周知をすることが、自身の評価や評判につながる。相手に場所がばれる、などの心配もされるが、それをめぐっての防諜の駆け引きも、また重要な要素さ。偽情報をあえて掴ませて帰らせたり、ね。
けれど、これらの陣はもともと、「結界」の要素が大きいらしいんだ。君もすでに知っているかと思うけど、昔から人は、様々な手段を用いて外部からの接触に注意を払ってきた。
火、音、囲い。それらを障壁として、自分たちを守って来たんだ。
ここまで神経質になれたのも、自分たちが自然を始めとする大いなる力の前には、どうしようもないという弱さを経験してきたからじゃないか、と僕は思う。
強者だとうぬぼれて闊歩した結果、思わぬものに足を取られて大けがを負った。それに対する策として、このような護身に対する技術や発想が生まれてきたんだろう。
そんな結界が、思わぬ効果を発揮したケースがこれだ。
日没。双方の軍が視界の悪さを理由に、いったん自陣へと引き返した。
兵力だけで見れば、一方の軍が3000程度に対し、もう一方の軍が20000を超えていたとか。寡兵の軍は、その一日を山上に陣取って粘ることによってどうにか乗り越えたものの、このままでは数にすりつぶされるのは、時間の問題といえた。
大将を含めた陣幕の中では、夜が更けても、未だに諸将が中央のかがり火を取り囲みながら、激論を交わしていた。
こちらは数で劣るのだから、死に物狂いで夜襲をかけて、敵の中枢のみを叩いて退くという意見。
兵たちはもう昼間の戦で疲労している。夜襲はせずに休息にあてた方がいいという意見。この二つに分かれていた。
どちらも寡兵が行うこと。糸を針穴に通すがごとき、細心の注意なくしてはあっという間に壊滅するだろう。援軍も期待はできない。
夜襲派としては、こうしている間にも機が失われ、休息派も休む時間が損なわれる。
双方とも、早く終わらせたいがゆえに、じょじょに言葉は辛辣に、感情的になって空回りをしていく。
一番の上座にいる大将は、彼らの意見にじっと耳を傾けていたが、ふと中央のかがり火に目をやった時、気づいたんだ。
火の粉が消えていく。
それだけなら別におかしいことではないのだけど、今までは周囲の熱気にあてられていたのか、空に上がらんばかりの勢いで、幕を越えていくほどに上っていった火の粉たち。それらが今や、一寸ほど浮き上がっただけで、ことごとく失せて行ってしまう。
激論を交わす諸将は、まだそれに気が付いていない様子だったが、彼らの話に耳だけ向けながらも、大将の目はぶれることなく、炎とその周りへ注がれ続けていた。
ややあって。炎の前を何かが横切った。それは黒い蝶の影で、赤々と燃え立つ炎のてっぺんを、あたかも花弁の開いた花へ行うように、つかず離れずで飛び回っている。
時折、炎にかぶるその姿をしばらく見せた後、蝶はいずこに飛んでいったが、残されたものに対して、大将は目を見開いた。
山のように燃え立っていた、炎の山ぎわの一部。そこだけが、黒に塗りつぶされて見えなくなっていた。
食いちぎられた葉のように、中途半端な虫食いをされた状態で、火は変わらず燃え続けている。その黒の部分は、一向に回復する兆しを見せない。
「誰か」と大将が声を出すと、とたんに諸将が静まり返る。この議論に終止符を打つ、鶴の一声を期待したまなざしを感じた。
大将は中央のかがり火を指さして、続ける。
「あの火。どこかに移し、とどめておけ。今夜はどうも、嫌な気が漂っておる」
命を受け、大将のすぐ脇に控えていた将が、予備の松明を手に取る。首を傾げながら、彼らも順番にかがり火へと目をやった。しばらくして、ひとり、またひとりと、肌に黒い切れ込みを入れられながらゆらめく炎の存在に、ざわつき出す。
念のため、四本の松明に炎が移され、それぞれの方位の中心に位置する将へと配られた。
ほどなく、炎にかぶさるように、大将が目にした黒い蝶を、今度は一同も目にすることになる。その異常さも、瞬く間に発揮された。
どの方位から見ても、炎に重なるその姿が見える黒き蝶。その身が火を横切って、再び闇へと消える時、重なった部分が闇へと溶ける。
絵に描いてある炎を、墨で塗りつぶしていくようなその光景は、少なからぬどよめきをもたらした。それが二度、三度と繰り返されるうち、とうとう炎はその輪郭を失い、肉をこそぎ落とされる。
炎は消えた。薪木も、煙のひとすじすらも残さず、その姿は見えなくなったんだ。
「なんと面妖な……敵のはかりごとか!」
一番若い将が、陣幕の端をめくり上げようとする。とっさに周囲は制止をしたが、血気猛る若き将の動きの方が、わずかばかり速かった。
さっと彼が幕を巡り上げたとたん、そのすき間から、先ほどの黒い蝶が二羽。すっと入り込んできたんだ。
黒い蝶の影が、若い将と重なる。その影が離れたとたん、重なっていた将の右手首から先が、すっかり消え失せた。
どよめく一同。更に将自身も自分の手が消えたことを認識できたらしく、なくなった自分の手から先を見て、驚きに顔をゆがめている。だが、その後にあがったうめき声は、そう長くは続かない。
書の上を乱雑に走る筆先のように、二羽の蝶は次々と将の前を横切った。まず口があごごと消され、目、鼻、口、耳、足……次々と塗りつぶされて、誰の目にも映らなくなっていく。
カシャンと音が響く。それは主と支えを失った刀と直垂が、地面に落ちる音。将の姿はもはやすっかりなくなっていた。
おののく声が漏れる中、大将は、自らがかぶっていた兜を脱ぎ、先ほどつけたたいまつの近くにいる者には、その明かりを。他の者には自分と同じようにして、兜を脱いで構えるように指示を出す。
蝶は火、薪、将の身体こそ消したが、かがり火の燭台や、刀や直垂を消すことはできていない。奴は鉄で囲えば、身動きが取れなくなるかも知れないと判断したんだ。
「気を凝らせ。あの蝶が横切ったならば、それを捉えて、かぶせて封ずる。多少の『消え』は覚悟せよ。矢弾を受けたと、そう思え」
言うや大将は、そばの火元に近づいていく。自分の身以外で、奴らが通ったのを確認できるのは、この明かり。わずかな軌跡でも追うのならば、この光源こそが手掛かりとなる。
諸将もそれに倣う。各々も、虫になったかのごとく、火元へと集まり、時を待つ。
一刻後。陣幕の東の隅にひとつ、北の隅にふたつ、諸将の兜が山のように重ねられていた。
その下にかの蝶を捕らえたのだが、数名の肩と手足が、蝶の判が押されたかのように、黒く塗りつぶされていた。
痛みはあるが、出血がない。陥没とも違い、その部分だけが存在しなくなっていたんだ。
その様は奇妙という他ない。何せひじを丸々失っているにも関わらず、前腕は問題なく動くんだ。見えない糸が引いてあるかのように、宙にぶら下がり、力も入れることができる。
その場を見た者でなければ、到底、信じられる光景ではない。消えた部位を持つ将たちは、無用の混乱を抑えるため、患部にサラシを巻き続けることを余儀なくされた。
当然、会議はうやむやになり、一同は眠れない夜を過ごすことになる。
翌朝。
長い枝で兜をひっくり返したところ、どちらの兜の下にも、あの黒い蝶の姿はなかった。
若き将が陣幕をめくったのが原因だと、声をあげる者もいたが、それに対して周囲は冷たい視線を送るばかり。
確かに、幕をめくったことで新しく二羽が内側に入ってきたものの、もう、責めを負うべき本人は、消えてなくなってしまっているのだから。
何より、大将を始め、一同は陣幕がめくられる前から、あの蝶を目にしている。陣幕があったから助かったのか。それとも関係がなかったのかは、結論は出しがたかった。
その後の処理に追われている間、幕内にひとりの武者が入ってくる。相手方からの停戦の申し出だった。
慌ただしく手続きが済み、圧倒的優位に立っているはずの敵方は、およそ半日後には陣を引き払ってた。その後、相手方の一部の重臣たちに関する動きについては、耳に入ることがなくなってしまったという。
あの黒き蝶は、向こうの陣内にも現れたのではないか。そんな噂が諸将の間で、しばらくささやかれたとか。