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明くる日、暮れる日

作者: 菜ノ 風木









まだ、四つの頃。


私は、夜の訪れが大層怖かった。


涙を拭う母の姿に、その隣には顔に一筋傷をおい、右目に包帯を覆いながらも、恨めしそうな目を私に向ける弟。


揺れる風に、振り向けば跡形もない家。木の葉が香れば、無様な人の有様が(まぶた)に浮かぶ。


親も兄弟も平気で裏切るこのご時世。私の家にとって必要なのは金だけ。


私は只の手段である。


黄昏が私の普通に、終わりを告げる。




「さようなら」




目を閉じればいつも、朝の日の出に焦がれた私だけがいる。








*********








さえずりが終わりを告げた。


昼はその光を閉じ、夜の訪れを告げる夕日が女を急かす。


黄昏時、それは準備の時。


街の女たちは夕餉のためにせっせと包丁を手に掲げ、鍋に、火に、黄昏の眩しさ其の物である。

だが、其れこそが女の楽しさや人生とは思わない。


私の夕焼けはいつだって雨だ。凛とは降らず、じめじめとした呪いの雨。傘さす者に現わるる笑う化け狐。


「夕さ江、紅はひきおえたかい?」


襖の向こうから、女の声が響いた。


「お邪魔するよ」


襖が大きな音を立てて開かれ、振動が廓中に声と共に響く。

女将が普通、支度中の遊女の所へは来ない。しかし、遅いと急かしに来るのだ。


要するに、私は他の子と比べて随分遅い方らしい。

自覚はないのは、確かだ。


「これは、また……」


紅を置き、鏡から顔を背け裾をひるがえしながら障子に手をかけた。


「女将さん。御用でありんすか?」


裾を広げ、背を向けた。


「まぁたあんたは……まだその名前が気に入らないのかい?」


此処に来てから多くの時が流れ今では、自分の部屋を貰えているが、気に入らない事も勿論ある。


「気に入りんせん……黄昏の名など曖昧で、一番嫌いな時間でありんすぇ」


あの頃に比べ、夜は怖くない。

けれど、夕暮れが嫌いなことに違いなかった。


「まぁ、準備しておくれ。あ、あと朝霧花魁がお呼びだよ」


女将さんはそれだけ言うと、仕事だ仕事、と言って出て言った。


廓は、女の戦さ場。

互いに、武器は違えど狙う獲物の理念に変わりはない。


「わかりんした」


私は此処でしか生きる道を知らない。


障子を閉じ、部屋を出た。


あちこちから笑い声が聞こえ、店々が本物の明かりを灯す。

廊下の奥先は位のようになっており、花魁の座に近づくほど部屋は広く豪華絢爛だ。


この店での一番奥が花魁。朝霧の部屋だ。


そして、私の姉さん。廓での師匠である。


部屋の前に着くと襖の前に正座をし、頭を下げる。


「姉さん。夕さ江でございんす」


廓では珍しく、姉さんは誰とも寝たことはないらしい。


元は武家の出で、お取り潰しのため廓に売られて来たと言う。


「夕さ江……こっちへ」


姉さんの此の声と手招きは、同じ女ですら惚れてしまうほど優雅だ。


「はい」


この世の存在とは思えず、話すだけで殿方は腹一杯になって帰って行く。


女将さん達もその事を承知しており、あえて初々しさを残すことに決定済みである。


「何か、御用でありんすか?」


姉さんの部屋の隅に座ると、紅を引きながら本を読んでいた姉さんがこちらに目を向けた。


この人がいなくなれば、この店の流行り具合は最早(もはや)、泡となるだろう。


「とある殿方が、夕さ江にお会いしとぅ御座います。と、言われてなぁ〜」


一つ笑って姉さんは言う。


この人の笑顔は笑顔ではない。只の愛想笑いだ。


「どなたでありんすか?」


姉さんも私も世間話は余り好きな方ではない。その事は良く知っていたが、客人ともなれば話は違う。


「さぁ…?で、ありんすから……」


姉さんは濁す様に、一つ笑った。


「姉さん?」


首を傾げた私と同じく、姉さんも首を少し傾げた。


「朝霧、夕さ江。時間だよ」


女将さんが襖を開けながら言った。

手にはもう、御膳を持っている。


「わかりんした」


姉さんが本を閉じながら、裾をひるがえした。


「はい」


立ち上がりながら短く返事を返した。


今日も、夜が灯る。赤提灯の下には宝石の世界。

それが、殿方の中にある廓の姿。


蝶光り、瞳に映るは、化け狐。


赤い部屋に金の糸、交える色は銀の色。川のように流れるは、純白の白。恋の色は桃色で、激しい廓の色は、赤の色。


遊郭に赴く殿方は、噂好きが多いのは言うまでもない。

そうやって品定めとしてやって来る。


今日もまた、赤提灯の道を二人の男が話をしながら歩いていた。


「なぁ、聞いたかい?あの噂」


背の高い男が一つ噂話を切り出した。


「へぇ〜、どんな噂だぃ?」


太った男がまた聞き返す。

彼もまた、噂好きである。


「俺が聞いた話によるとなぁ、廓に売られた姉貴を探してる金持ちがいるって話だ」


噂は毎週のように変わり、その度に彼等は目の色を変える。


「ほぉ〜、そりゃあ大層なもんだなぁ」


うんうん、と頷きながら女達への目線も忘れない。


「けどよ、こっからが噂の中身だ」


背の高い男が、ふと立ち止まった。


「と、言うと?」


「それが、その姉貴を殺したいらしいぜ……」


胸糞が悪そうに、背の高い男は言った。


「こ、殺っ?!そりゃあ、物騒な話だなぁ……」


切った張ったは庶民にとっては余り良い話ではない。だが巷に溢れる、馬鹿な噂は有り余るほどあり、もしやその一握りは……真実やもしれぬ。その事に、変わりはない。


「旦那、こちらへ」


襖の向こうで、女将さんの声がする。


「夕さ江」


襖がゆっくりと開いた。


今日も、夜が来た。私が嫌いだった夜が来た。


「ささ、お入りなんし」


私はそう言って笑い、手招きした。


女将さんは、きっちりと襖を閉めると何処かへ行ってしまった。


「お名前は?」


興味は無いものの商売上聞かなければならない。あいにく、女将さんの説明はなかったからだ。


襖の前で一つお辞儀をして、身なりの綺麗な旦那が私の前に座り、着物を手で払った。下ろし立ての着物なのか、シワ一つなく真新しい。


「角江屋の角江 左江助で御座います……」


遊郭で、しっかりと遊女に礼をする男が何処にいるのだろうか。


驚きを隠せず、開いた障子の外を見た。


「あの、生真面目で有名な若旦那が此処に来るなんて、不思議なことも、ねぇ」


ちらりと若旦那を見て、また赤提灯に目を添える。


「生真面目で、有名……?いつの時の話で?」


目をそらす腹いせか、笑う様に話し出す。


その目は噂とは真逆で、生真面目さは何処にも無く、ぎらりと光っている。鋭く、長い、私と同じ化け物の目。


「あ、あぁ、おゆるしなんし。あまり噂には……」


「興味がない、と?」


本性を暴き出そうか。


緊張した様に見えた姿は、今やにこにこと薄ら笑いを浮かべている。


「はいっ!」


こくりと小さく頷いて微笑んだ。


「いや、それは申し訳ない」


おや、思ったより萎縮型(いしゅくがた)らしい。


ふふふ、と笑いながら満月に目を向ける。


「構いんせんよ」


これはお嫁さんが大変だ。


風が吹き、障子が音を鳴らした。


「けど……」


私にだってわかる。


「ただ遊びに来んしたのではないのでありんすね?」


立ち上がり、手を(ひるがえ)しながら障子を閉めた。


「お察しがよろしいようで」


体は動かさず、ただ目だけが薄気味悪く笑っている。


「ふふふ、遊女にそんな堅苦しい言葉を使うお人はいんせんからねぇ」


お客の話は、廓では広まりやすい。だが、私は違う、と言う事を朝霧花魁から聞いたのだろう。


「それで、わっちに何の用でありんすか?」


朝霧花魁のお客は金持ちが多い物の、変わり者が多いのも確かだ。


「率直に申し上げます」


先程の体制とは打って変わり、短刀を膝の前に出し始める。


「人を探しているのです」


暗い面持ちで、言葉を摘む。


「人……?」


「そう、お人です」


頷きや相打ちは、最早無用だ。


「ほぉ……、どんな人かぇ?」


私は目を細め、妖しく笑う。


障子や襖は閉めてある筈なのに、肌寒さが側を通り抜けた。


「姫君様にて御座います」


若旦那は目を(つむ)る様に、闇夜を告げた。










*********










私は貧しい家に生まれた。


山々に囲まれ、村とも呼べないほどに薄暗く、木が剥がれ落ち、所々穴が空いた家に住んでいた。


周りに人はおらず、頼る人もいない。


母は病気がちで寝込むことが多く、私に向かって微笑む事は一度もなかった。


けれど、只の貧しい女。とは言い切れない魅力が母にはあった。


弟は、私との血の繋がりは感じられなかった。まだ彼が幼い頃は懐いてくれたが、身長が伸びる程に私を邪険に思い始めた。


母と弟は血の繋がりのある親子。母は弟だけには優しく、母親らしく微笑んだ。

いつも「可愛い子」と言っていた。


そんな仲睦まじい二人が私に向ける視線は『家族』と言うものには値せず、血の繋がりなど微塵も感じられないのが証拠だ。


私は望まれて生まれた筈がない。


それは息をするより遥かに、簡単に分かることだった。


「へぇ〜、そのお姫様(ひぃさま)?と、わっちに何の関わりが?」


ふわりと落ちてきた髪の毛をいじりながら言う。


勿論、若旦那に興味は無い。

今日は若旦那の話だけを聞いておわらそうだ。


「いえ、それは……」


変な人。


手を止めると、若旦那の顔が随分悪く見えた。


言葉を探している顔だ。


「罪を……」


「罪……?」


こう言う奴がまともな事を言った試しがない。


若旦那は姿勢を改め、着物を整え始める。

彼の後ろに見える襖が紅く燃えている様に見えた。


「罪を被って頂きたいのです」


そして、彼は一言そう残した。


「ど、どう言う事でありんすか?」


誰しもこんな馬鹿な事を言われるとは思わない。


明らかに同様の色を示すしか、方法がない。


「姫君様はもう、誰か分かっています。ですから、貴方がその方を殺した事にして欲しいのです」


「わ、わっちは廓からは出れ……」


呟くと共に、若旦那は首を振り始めた。


まさか、廓の中に……?


「貴方に殺した事にして欲しい御方は……」


逃げたい、逃げたい、逃げたい。そう思っているのに、私の手は震えもしなかった。


「朝霧花魁です」


「え……?」


まさにその言葉は闇夜を告げる声だった。


「勿論、貴方は廓にはいられないでしょう。その為の資金や罪を被って頂く為のお金も支払います」


旦那は、置いていた短刀を手に持ち始める。


「な、何故わっちに……」


じりり、と後ろに背を反らす。私の全てを恐怖が、体を動かしていた。


「貴女が一番、朝霧花魁と仲が良い。そんな貴女が、花魁の座欲しさに朝霧花魁を殺した、となれば誰しもが納得する話となります」


何の意も認めない、そんな目を彼もまた持っている。男はいつも女に、そんな目を向けるのだ。


「わっちは……わっちは……!!」


言葉が詰まる。喉が震え、唾が口の中に広がり開いた口が塞がらない。


「これは、貴方にしか出来ない!!」


もはや、亡者を見るような若旦那しか目に入らなかった。







あぁ……この目は、あの弟によく似ている。













*********












必死で走っていた。


襖が倒れる程大きな音で部屋を出、足を滑らしながら店中を走り回る。後ろから追って来る様子はなかったが、恐怖が足を進めていた。

ただひたすら逃げたかった。


他の女や男達にぶつかりながらも、必死に走っていく。


「夕さ江っ?!」


もう一人ぶつかったのは、女将さんだった。


「許してくだしゃんせ!!」


謝りながら、も足を止めることはない。


「ごめんなんし」


こんなに走ったのはいつ振りだろうか。


階段を登り、また大きく手を振る。

走りながら見えるのは、客引きする遊女や客の要望に応える遊女、茶屋に呼ばれ、道中を繰り広げる花魁。


「はぁ、はぁ……、はぁ……」


息切れが続き、頭がふらりとする。隣の柱に足を止め、手を当てた。


「此処は……」


廓中が見渡せた。


赤提灯に下駄の音、男を呼ぶ女の声、風が吹けばちりんと風鈴の音。そして、思わせげに恋を歌い踊り、盃が重なる。



上に見えるは、大きな満月。


足を止めれば、皆笑っている。


「はぁ、はぁ……」


この世界を呪いながら、笑っている。


「ひっ……く…」


泣き乱れるままに、柱にもたれかかった。


今まで、さっきまで、私も同じ筈だったのに。


苦しかった。悔しかった。


「うぅ……」


柱に思い切り、爪の跡が残る。着物には破いた線。


「あぁ……ああぁ………」


(もだ)えながら、此処で懸命に生きている彼女達を見るのが息苦しく思えた。


「喉が、乾いたかぇ……?」


恐怖心の次は息苦しさ。息苦しさの次は……


「姉さん……」


後ろを向くと、其処には姉さん。朝霧花魁がいた。


恐怖で走り回っていたせいか、此処がどこかを忘れていた。


長い廊下に人気(ひとけ)の少なさ。豪華な作りにより一層、紅の色が強くより艶やかさが増すこの空間。廓中一のこの店が誇る豪華絢爛さ、その頂点に居座るは、花魁。


「此処からは、廓が良く見えんすね」


一歩ずつ近寄って、私の前で笑った。


姉さんの部屋を出ると其処には大絵の様に廓中が一望できる。

此処がその場所。


かなり珍しい作りだが、姉さんは気に入っており、客も滅多に見れない花魁を拝めると評判だ。


「はい」


けれど、その顔は薄ら笑い。目に一切の光は無い。


「姉さん、すみんせん。すぐに行きんすから……」


涙を裾で拭い、気力が抜けた足に力を入れる。


きっと、姉さんは違う。あの若旦那が言っているだけ。


「夕さ江」


一歩、一歩下がる足が震えた。下を向け無ければ、足が動いているのかすらわからない。


「聞きんしたかぇ?」


下がる中、姉さんが私に言う。


「若旦那の話」


全てが固まった。


あぁ、これは若旦那の思い付きじゃない。ずっとずっと、前から考えられていた事。


「ね、姉さん……」


涙が止まらなかった。

震える声と震える足。寒さの震えであればどれ程良かったものか。


「夕さ江……やってくれんすね?」


限界に達する恐怖だった。


「姉さん、姉さん……」


私は泣崩れ、あらゆる物が濡れていた。

涙に、雨に、(みにく)い情に。


これが、化け物が殺される瞬間。


「夕さ江……」


姉さんもしゃがんで、私の肩に手を当てた。


あの頃と同じ様に暖かい。

涙を拭う手を姉さんの顔に当てた。


「わっちは姉さんの言い付けは何時如何(いついか)なる時も守ってきたぇ」


まだ此処に来た頃、私は廓から逃げ出そうとした。けれど、見つかってしまい罰を受ける事になった。


当時の女将さんは強気な人で、遊女嫌い。遊女の隙を見つけては、馬鹿にしたり叩き上げたりと酷いお人だった。


そんな時、罰を受ける私を姉さんが庇いお咎めを代わりに受けてくれたのだ。


お陰で私は怪我をせずに済んだが、姉さんの腕に傷を付けた事は、今でも後悔している。


もう、仕方がない事なのかもしれない。けれどあの時の恩返しになるなら、これもまた良いのかもしれない。


「だから、で、ありんすから……わっちの願いを一つ聞いてくんなまし……!!」


例え、私が死ぬ事になっても。


姉さんの顔を見る勇気は無く、泣きながら、口が思うままに話していた。


本当はやりたくないと、やってはいけないと、自分では分かっていてもきっと、断る事が出来ないと知っている。


あの若旦那も其れを見兼ねての事なのだろう。


「夕さ江」


生きるか死ぬか、この世界ではどちらかしか存在しない。

それが、早いか遅いかの違いだけ。


「どうかわっちに、お(しま)いに、一つ名を付けてくんなまし」


冥土の土産になると良い。


堕ちる場所は、地獄だけだから。


「わかりんした」


姉さんの鈴の音が耳に入る。凛と鳴る風鈴の様な、綺麗な音だった。


「ありがとうございんす」


そして、姉さんは静かな声で言った。







「やりなんし」







立ち上がる、美しき花魁を見ながら言った。


「はい、わかりんした」


涙を止め、ぬぐい一つ私は飛び切りの笑顔で笑った。






始まりの時には、いつも何かが終わりを告げる。






「丑の刻の終わりに、夕さ江殿は花魁の部屋へ」


「えっ……?」


先程から監視して居たのだろう。後ろからゆっくりと若旦那はやってきた。


これ以上前に廊下は繋がっておらず、どん詰まり状態。

そして、密会や暗殺の話なら此処の方が聞かれにくい。そうそう花魁の部屋に来る者などいないから、此処で話すのを良しとしたらしい。


「よろしいですね?」


走る中、色々考えた。


色褪(いろあ)せるこの時を他の人にやって良いのかと、そして何をすべきか。

こんな退屈な籠の生活を続けるか、彼等に利用されてやるか。


一世一大事の今、考えることなど決まっている。


「やりんすよ。わっちが……ね?」


誰かさんの恋路や名誉の為に、死んでも良いのかもしれない。


「それはそれは、嬉しゅうございます……」


若旦那の顔はやはり、笑顔とは呼べる代物では無い様だ。







「わっちの一世一代の出番でありんすぇ!」











*********










丑の刻___


月明かりが頼りのこの時間。最早、遊郭を歩き回る男もいない。


「失礼致しんす……」


持って来た荷物を置いき、一礼して襖に手を掛けた。

荷物が重かったせいか、手が暫く震えた。


「夕さ江か」


目の前には、灯りもつけずに開いた障子から見える月明かりだけで、手を動かす朝霧花魁がいた。


此方に一切(いっさい)目も向けず、風呂敷を広げたまま本を読んでいる。


昨夜のうちに渡しておいた、庶民の着物はもう着てくれていたらしい。

逃げるなら貧乏くさい物も必要だと、若旦那に頼んだのだ。


「はい」


頷きながら部屋に入り襖を閉じる。月明かりを頼りに、花魁の後ろに座った。


「整いんしたかぇ?」


呆れ目に呟くと、直ぐに返事が返ってきた。


「えぇ」


準備が出来たようには思えないが、この人には余り逆らう事は出来ない。いや、不可能だ。


ため息混じりに、今持って来た荷物に手を掛けた。


夢が現実になる瞬間。努力が役に立つ瞬間。やっと此の荷を開けられる日を望んだ事か。


誰にでも秘密はある。

花魁にあったように、私にもだ。


その秘密の一つ。其れが此の荷に、詰まっている。


「あの夕さ江が髪を結えるとは……不思議な話があった物でありんすね」


花魁は読んでいた手を止め、机に置いた。


私の秘密。それは、髪結いが出来る事。


髪洗い日がある毎に、決まったように髪結いが来る。廓専属の髪結いだ。

その髪結いの一人に、白髪の老人がいた。年は米寿。その業界では(いささ)か、有名らしい。


膝立ちしながら、花魁の髪に手を当てた。


「ふふ、とある髪結いに教えて貰いんしたんでありんす」


髪をほどき、(かんざし)を取る。艶やかに流れる黒髪が、さらりと揺れた。


(くし)を流し、(まと)めて行く。髪結いは初めてだが、迷いはなかった。


「そう……」


月明かりを背に、鏡が花魁の顔を写す。あの薄ら笑いは何処へやら、今はしっかりと笑っていた。


「あの後ね、一杯考えた」


花魁言葉は消え、普通の女の子らしい言葉遣いに変わっていった。

二人きりの時は、何時も砕けた言葉遣いが決まりだ。


「何をですか?」


私も此の時を思いながら、少し笑っている。


花魁が話す間も、一つ一つ、付けていた黄金色(こがねいろ)の髪飾りを取っていった。


「綺麗……」


髪の結い方を普通の女の子らしく変えただけで、花魁の妖美さは消えていた。

もう、美しき花魁では無いのだと実感させられる。


「ふふ、そう言うことを言うのは夕さ江くらいね」


砕けた笑顔が、黄金色に写る。


「みんな言ってますよ」


鏡をちらりと見ながら、整える。話しながらも、手を止めるつもりは無い。


私はこの人をあの若旦那に送り届ける必要があるからだ。内心は焦っているが、微笑みは絶やすつもりは無い。


「いいえ、貴方だけ」


朝霧花魁は一つ。ぼそりと呟いた。

そんな彼女の白粉(おしろい)を落とした顔は、私とは場違いのお姫様。


私はこの人に出逢う為に此処に来たのかも知れない。


「ありがとう……」


本物の素顔に、一筋の涙が月光に輝いていた。雫がするりと落ちていく。


「一つ、聞いても?」


首を傾げた私と同じように、花魁も首を傾げた。


「何?」


此の美しき人に、紅や白粉、飾りなどは必要無いのだろう。


「遊郭に来る前の名を……」


私の声を制止するかの様に、私の手を握りながら花魁は言った。


「あさがお」


消え入る声が耳に響き、私を握る手は震えていた。


朝顔(あさがお)よ。長いから、お朝ってお父様に呼ばれてたわ」


ぽたぽたと雫の音が、部屋に響いた。


「朝霧よりも似合う」


髪結いの手を止め、震える手をそっと握り返した。


「ありがとう」


振り向いて、私の耳元で(ささや)いた。


「そんな貴方にも、これを上げるわ」


読み途中であった本を、彼女は私に差し出した。


「物……がたり?」


詰まる声を見届けて、彼女は後ろに向き直る。私の手を強くと握りながら。


「あげる。今まで頑張ってきたご褒美に」


そう言って、笑った。


私は余り本を読んだことがない。字は何とか読めるが、本を手にする事、そして此れが物語と言うのなら初めてだ。


「ありがとうございます……」


結い終わる前に、そっと一輪の簪を指した。


私が内緒で、此の日が来る前に買っておいたのだ。


勿論、花魁が身に付ける物とは事足りないが、普通を生きる者なら丁度良いと思う物を選んだつもりだ。


丸い玉に、薄桃と薄紫、そして朝の青空の色が混じっている。そこから、枝垂れ桜の様に飴色の飾りが垂れていた。


「ふふ、これからが楽しみですね」


どうか、お幸せに……


ゆっくりと、櫛を置いた。


「流石、夕さ江だね」


結い終わり、煌びやかな髪飾りを風呂敷にまとめる。念のため、逃げたと分からない様に燃やすのだ。


「時間です行きましょう」


朝顔の手を取り、朝霧花魁の部屋を出た。









*********








鳥のさえずりが朝を告げ、陽の光が屋根瓦に艶めきを与え始める。


「きゃぁぁぁーーー!!!」


廓に女郎の声が響き渡り、お膳が辺りに散らばっていた。


「あぁ、あぁ、いやっ……!!」


その声が響く度に、女郎達が次々に集まる。


「どうしたんだい?!」


階段を駆け上がってきた女将さんが、未だに叫び声を上げる女郎に聞いた。


「あ、あ、朝霧花魁、が……」


開け放たれた襖に、陽の光が瞬いた。女郎が指差す先には、妖しき色のみ。


豪華絢爛な色とりどりの部屋は、赤一色に染められていた。


「これは……血?」


部屋中の色に皆、頭が付いて行かず、女将さんの言葉を聞くしか出来無い様だ。


「女将さん!!!」


下足番の男が、階段を凄まじい音で駆け上がって来た。


「今度は何だい!!」


眩い光が、廓中を包み込んでいく。


「はぁ、はぁ……」


戸惑いの中から、息すらも喉をつかえた。


「ゆ、夕さ江が……夕さ江がいません!!!」


走っていた為か、崩れながら床に倒れた。

廓中を探し、様々な所を見たが何処にもいなかったらしい。


「夕さ江が?」


陽の光に照らされる廊下があらゆる物を照らす。


「あぁ……」


手を震わせながら、女将はしゃがんだ。


異常な程の震え方だった。


「探しな!!!!いいから早く!!!」


手を広げ、恐るる声を上げながら袖を揺らした。


その後、夕さ江の私物から花魁を憎んでいた、と証拠が上がり、朝霧花魁を殺したのは夕さ江だと言う噂が広まった。


けれど、誰も夕さ江の居所は分からない。それが現場だった。









*********








「とうとう、廓から出る日が来ようとは……」


あの後、朝霧花魁を連れて廓を出て若旦那に手渡した。


坂が続く山道をゆっくりと歩んで行く。


勿論、殺したと言う証拠を残す為に、若旦那に手配して貰った獣の血を花魁の部屋に撒き散らし、私の私物の中に日記なるものを置き最後の一文に朝霧が憎いと、付け足しておいた。


「さて、何処に行こうか……」


この日より、晴れて私は殺人者扱いになる筈だが、廓から出て田舎にいる為、そう気付かれることは無いだろう。


恐怖であったあの体験も、今となっては面白いものだ。


「はっくしゅん!!」


あぁ、日が暮れるようだ。


足を止め、陽から背を向けるのをやめた。


日が陰り、夕焼けの、黄昏の時を告げる。


紅景色に、揺れる花桃の香風。木々が揺れ、草木が踊り宙を舞う。赤陽が照り付け、頰を染めた。


「あっ……!」


夕日に気を取られたせいか、持っていた風呂敷が落ち、中身が散らばった。


「あぁ、もぅ」


しゃがみこんで、荷を寄せる。持っているものは少ないが、大切なものばかりだ。


朝顔姫の扇子に、報酬の銭と着物、そして……


「物語……?」


あの時は暗くて見えなかったのか、表紙の裏には『作者、朝顔』と書かれてあった。


夕日が手元を照らし、光の粒が目に映る。


「これは、何?」


紙が一枚、無造作に入っていた。その隣には、綺麗な押し花の付箋がある。


風が揺れ、木の葉が踊り花弁が舞う。


紙には一つ、言葉が書いてあった。


夕暮(あかね)……」


それはまさに黄昏の名、そして朝霧が夕さ江に与えた名であった。


「あの時、話したの……まだ覚えて……」


涙が込み上げ、雫がぽたりと頰を伝った。


私の身に不幸が起こる時、その時は何時如何なる時も、黄昏時であった。その事を以前話したのだ。


彼等のあの目は二度と忘れられない。けれど、一番忘れたい記憶の一つ。


「ごめんなさい……」


母は私に言った。


何故「お前が生きているの?」と。田舎に登る道、夕陽を背に手を繋ぎながら泣いていた。


私の心はいつだって雨。その雫が止まる事は無かった。


「ぐすっ……うぅ……」


それが私の生涯そのものだと自負している。


「あぁ……」


嬉しいのか、悲しいのかもう分からない。


ただ、込み上げてくるものが一杯で止まらない。


落とした荷を風呂敷に包み、震えながらも立とうとした。出ないと、もう二度と立てない気がしたからだ。


後ろで、じゃりっと歩く音がする。人に見られる前に行かないと。








こんな顔は、誰にも見られてはいけな……い。









その瞬間、誰かに手を引かれ、視界がうごめいた。

陽の光が猛烈に、瞼を遮る。


「見つけた。姉さん」


手を引いたのは、一人の男。顔に一筋の傷があった。


「あっ……!」


口が開き、声がぽたりと漏れる。


ころん、とまた荷物が落ち。宙を舞った。


その背には、あの時とは違う黄昏があり、あの日を蘇らせる。


けれど一つ違う事は、あの日の目とは全く違う、生きた瞳であると言う事。


この男は紛れもない、私の弟だった。


「貴方の名を、教えて下さい」


静かな声音が、闇夜を思い出させる。


「私の名は……」


掴まれた手が、私を離さない。


弟が何時も右目に覆っている包帯を、するりと取った。


「な、何を……!!」


「やっぱり」


弟には幾つか、秘密がある。


彼が五つの時、さらわれて顔に傷を作った事。


そして……右目には、綺麗な黄昏色の瞳を持っている事。


「私の名は、夕暮(あかね)


この色が、私の世界の色なのかもしれない。


「ふふっ……」


もう、私の心に雨は降っていない。そして、私はもう化け物なんかじゃない。



黄昏は時を告げる。



あの日とは違う綺麗な時を。






「貴方の瞳の色と同じ名前よ」






私は一つ、彼に笑ってみせた。


黄昏と同じように。









最後まで読んで下さりありがとうございます。


今回は黄昏時コンテストの為に、前々から書きたかった【花魁物語】を書きました。


焦っていたので色々と不安ですが、作品の妖しさに酔いしれて下されば嬉しいです。


誤字脱字や間違っていた点、改善点などがありましたら教えて頂けると幸いです。


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[良い点]  遊廓に漂う妖艶さ、そして夜の灯りまでも目に浮かびました。ただただ男女の戯れではなく、裏世界で生きる遊女同士のやり取りを描いていらっしゃったので、ストーリーに深みが出ています。  作者…
2018/04/01 21:42 退会済み
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