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江戸浪士隊血風録  作者: 川越トーマ
8/17

 西洋茶屋

 給金をもらった俺は、昼食を済ませてから一人で江戸の街に繰り出した。

 右近から手渡された給金は思いのほか多かった。

 寿司や鰻、牛鍋といった御馳走を一か月間食べ続けても十分おつりがくる金額だった。

 おまけに右近の家では、きちんと三食食事が出るので、お金は全く使う必要がまったくない。

 まるで夢のような暮らしだった。

『折角の江戸の街だ、何か珍しいものでも食べるか、それとも服でも誂えようか』

 服装は相変わらず灰色の麻の着物に、擦り切れた紺色の麻の袴だった。

 贅沢をしようとは思わなかったが、ボロではない清潔な服を新調するのも悪くない考えだと思った。

 そんなことを考えながら歩くと江戸の街は楽しく、以前とは違って輝いて見えた。

 機嫌よく街を歩いていると、見覚えのある街角に出くわした。

 野次馬がいなかったので、一瞬気づかなかったが、それは、俺が右近たちと出会うきっかけとなった場所だった。

 ここで、俺は異人たちと斬りあいになり銃で撃たれた。

 運が悪ければそのまま死んでいたかもしれなかった。

 道端には花が手向けられていた。

 年配の侍が銃で撃たれ死んだ場所だ。

 通行人は何事もなかったかのように行き交い、数日前に血なまぐさい事件が起こったとは思えなかった。

 俺は立ち止まると花が手向けられている場所に向かって手を合わせ、目を閉じた。

「あなたはあのときの……」

「ん?」

 俺は突然、背後から声をかけられた。

 振り向くと一人の若侍が立っていた。

 それはあの現場に居合わせた若侍だった。

 つややかな黒髪は短かったが、あまり男臭さは感じなかった。

 小柄で華奢な体型で紺色の詰襟の洋服を身に着けていた。

 なめらかな白い肌と黒目がちな大きな目が印象的だった。

「これは失礼しました。私は真田光と申します。光と書いてあきらと読みます。先日、異人が狼藉を働いていた現場で言葉をかけていただいた若輩者です」

 そう言うと若侍は軽く頭を下げた。

 俺の無遠慮な視線に気づいたのか彼は丁寧に自己紹介をした。

 女と言っても通用するような美男子だ。

 ひょっとして女なのかとも思ったが、女なら、こんな男のような格好はしないはずだ。

『ひょっとして女性ですか?』

 それに、もし男性に対して、こんな質問をしたら、大変な侮辱になる。

 間違っても武士に対してそんなことは言えなかった。

「ああ・・・自分は片桐隼人と申します」

 俺は混乱しながらも言葉を返した。

 光は、俺より年下のようにも思えたが、恐らく幾つも違わないだろう。

 それにしても彼は言葉遣いが丁寧で、育ちの良さが感じられた。

「ふがいないことに、あの時、私はただあなたの御活躍を見ているだけでした」

 そう言うと光は目を伏せた。

 まつ毛がやけに長い。

 周囲には多くの通行人がいるのに俺には彼しか見えなくなった。

「いや、面目ない。自分も結局、銃で撃たれて人に助けてもらいました」

「それも含めて自分はふがいないと思っています。私はあなたに加勢することもできず、後から現れた三人組が全ての始末をつけてしまいました」

「覚えてないんですが、やはりそうだったんですか」

 別に疑っていたわけではなかったが、鉄心の言ったことはやはり嘘ではなかったらしい。

「あなたは本当に素晴らしい勇気の持ち主だ。私は爺やあなたに止められたのを口実にしただけです。本当は異人が銃を構えるのを見て足がすくんだだけの臆病者です」

 若侍は随分と多弁だった。

 そして、姿形を裏切らず声も優しげだった。

「まあ、そう自分を責めることはないでしょう。自分も修行不足を痛感しました。あなたも若いんだから、今の自分が気に入らなければ、修行に励めばよいだけです。未来の自分はいくらでも変えられますから」

 光はにっこりとほほ笑んだ。

「あなたに話しかけてよかった。剣の腕だけでなく、人柄も御立派です。私は書生(住み込みで家事を手伝いながら勉学にいそしむ者)のようなものですが、貴方は?」

 光はきらきらと輝く視線をまっすぐに俺に向けてきた。

 いわゆる尊敬のまなざしというものだと思われたが、どうも落ち着かない。

 いままでそんな目で見られたことは一度もなかったからだ。

 頭の中がくすぐったいような、こそばゆいような妙な感じだ。

「詳しいことは言えないのです。申し訳ありません。ただ、世のため、人のためになる人間になりたいと思って働いています」

 俺は阿片の密売人どもを成敗したことを思い出した。

 一瞬、鮮血に彩られた凄惨な現場がはっきりとした映像となって頭に浮かんだ。

「あ、あの、立ち話もなんですから、そこの西洋茶屋でお茶でも飲みませんか?」

 忌まわしい映像を少しはにかんだような様子の光の笑顔が打ち消した。

「ええ、いいですよ」

 俺は光に誘われるまま、のこのこと西洋茶屋とやらについて行った。

 よく目立つ赤レンガ造りの二階建ての建物だった。

 分厚い木の扉を開けると、白い襟付きシャツに黒いズボンといういでたちの若い男性店員が深々と頭を下げた。

「いらっしゃいませ」

 店内は値段の張りそうな西洋風の調度類で統一されていた。

 店員はみな入り口にいた若い男性店員同様、白い襟付きシャツに黒いズボンやスカートという洋装で、恐ろしく礼儀正しい。

 自分の育った田舎には、こんな洒落た店はなかった。

 俺は落ち着かない気分のまま窓際の二人掛けの丸テーブルに案内された。

 店内をキョロキョロと見まわしたが、壁には品書きは貼っていなかった。

 どんな値段で、どんな品物が提供されるのか皆目検討がつかない。

 店内には香ばしい不思議な匂いが充満していた。

「メニューをどうぞ」

 長い髪の女性店員が品書きを渡してくれた。

 驚いたことに飲み物一杯だけで、ざるそば並みの料金だった。

 おまけにどんな飲み物なのかもさっぱりわからない。

「では、コーヒーのモカをホットで。それからガトーショコラもお願いします」

 光はこうした店に来るのは初めてではないらしく、困惑する俺をしり目に品書きをちらりと見ただけで、たいして迷うそぶりも見せずあっさりと注文した。

 飲み物と茶菓子の組み合わせらしいが、定食屋で軽く食事ができる程度の値段になった。

「じゃあ、自分も同じもので。」

 女性店員を待たせるのも気が引けて、俺はよくわからないまま、光と同じものを注文した。

「白状しますと、自分はこういう店は初めてなんです。だから、実は自分が何を注文したのか、全くわかっていません」

 俺は、女性店員が丁寧にお辞儀をしてテーブルから下がると、にこやかな視線を向けてくる光に多少おどけた調子で話しかけた。

「ごめんなさい。配慮が足りませんでした。でも、とっても美味しいですよ……あっ、でも苦いのとか甘いのとかは苦手ですか?」

 光は一瞬、恥じ入るような様子を見せ、次に必死で考えるようなそぶりを見せ、最後に心配そうに話しかけてきた。

「えっ? 苦いんですか? 苦いのは飲み物の方ですか? 食べ物の方ですか?」

「両方とも苦いです。飲み物は砂糖を入れなければ苦いままですし、菓子の方は甘くて苦いです。」

「???」

 意味が分からなかった。

 わざわざ金を払って苦いものを食べたり飲んだりするなんて考えられなかった。

「注文、変更しますか?」

 光は心配そうな面持ちで俺の目を覗き込んだ。

「いえ、挑戦してみます。随分変わった体験ができそうです」

 俺はなんとなく釈然としないまま、きっぱりとそう言った。

 その表情がおかしかったらしく光は屈託なく笑った。

 笑顔が清々しかった。

「そう言えば、お怪我は大丈夫ですか?」

「えっ?」

 一瞬俺は何のことかわからなかった。

「あの時、頭を銃で撃たれたようにお見受けしましたが」

「ああ、大丈夫です。かすめただけだったようで頭の骨に異常はありませんでした」

「それはよかったです」

 光は本当に安心したような表情をした。

 随分心優しい男だ。

 そんな会話を交わしていると先程の髪の長い給仕が、お盆に飲み物と茶菓子を二人分乗せて戻ってきた。

「失礼いたします」

 出てきたのは、店に漂う匂いと同じ匂いの黒に近い焦げ茶色の不思議な飲み物と、同じような色の茶菓子だった。

「美味しそう」

 給仕が一礼して下がっていくと光はにっこりとほほ笑んだ。

 そして飲み物の器の取っ手を持って音もなく一口すすると、三又に分かれた小さな金属製の道具を使って黒っぽい茶菓子を一口食べた。

 美味しそうな笑顔が広がった。

「……」

 俺も恐る恐る一口食べてみた。

 今まで食べたことのない不思議な味だった。

 苦くて甘くてコクがあって、そして微かに柑橘類の皮が隠し味に使われていた。

 嫌ではない、いや、むしろ……

「とても美味しいです。気に入りました」

「それはよかったです」

 光がにっこりと微笑んだ。

 どうもおいしく感じるのは、目の前で微笑んでいる光の存在も大きいのではと思った。


 他愛のない会話を交わしていると、あっという間に時間が過ぎて、夕闇が迫っていた。

「ところで、あの……隼人さんのお住まいは?」

「上司の家に居候しているんですが、仕事の都合で居場所は秘密にしろと言われています」

 本当だった。

 唯一の肉親である兄にも住所は教えるなと言われていた。

 光は残念そうな、悲しそうな表情をした。

 そして、何か言おうとしたが口をつぐんだ。

「そうですか……」

 俺たち二人を沈黙が包み込んだ。

「こちらでお誘いしていながら申し訳ありません。そろそろ帰らないと……勘定を置いていきます」

 光はそう言いながら上着のポケットから財布を取り出し銀貨を三枚ほど置いていこうとした。

「いや、だめだ。多すぎる」

 銀貨三枚だと、ほとんど二人分の金額になった。

「いえ、私がお誘いしたのですから」

「書生なんでしょう? 自分が払いますよ。給金ももらったばかりだし」

 そういって、俺は無理やり光の手のひらに銀貨を返した。

 光の掌には剣術の修行でできたらしいマメがあったが、色は白く、指は細く、そして掌は暖かかった。

「だめです」

 光はかたくなだった。

「では、割り勘にしましょう」

「はい」

 なぜか光はうつむいた。頬が赤いような気がした。

「どうしました」

「いえ、立派な掌ですね」

 俺は光の手を握ったままなのに気づいた。

「これは失礼」

 俺は慌ててマメだらけ、傷だらけの手を光から離した。

「また、お会いできるでしょうか?」

 光はそう言いながら上目遣いに俺の眼を見た。

 俺は急に心臓の鼓動が早くなったような気がした。

 そして、光の柔らかそうな唇に視線が吸い寄せられている自分に気づいた。

『おい、相手は男だぞ。しっかりしろ!』

 俺は心の中で自分を叱った。

 光はじっと俺の目を見つめて俺の返事を待っていた。

 俺は軽く深呼吸すると笑顔を作ってはっきりとした口調で答えた。

「会えますよ、きっと。この場所で」

 不安そうにしていた光の顔に安堵の笑顔が広がった。

「はい」

 飛び切りの笑顔を向けてきた光に、俺は心臓をわしづかみにされたような気がして息苦しかった。

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