戊辰戦争から十年後 武蔵国(むさしのくに)の北のはずれ
「坊主は隠れてな」
西の空は赤い光に照らされ地上には徐々に闇が広がっていた。
乾燥した肌寒い風が小さな集落を貫く通りを吹き抜け、細かい土ぼこりを巻き上げていた。
三十代くらいの侍が夕焼雲を背に優しい目で俺を見下ろしていた。
浅黒く眉毛が太くジャガイモみたいな顔で、総髪(頭頂部を剃らず伸ばした髪を後ろで束ねただけの髪型)だった。
腰には刃渡り二尺五寸(約七五センチ)ほどの地味な拵えの刀を下げており、薄汚れた水色の袴をはいていた。
「……」
当時、俺は十歳になるかならないかの小作農の小倅で、粗末な麻の着物を身に着け草鞋を履いていた。
そして、恐怖と不安で若い侍に縋りつきたい気持ちを必死で抑えていた。
「野郎、自分の立場が分かってるのか!」
恐ろしい声が響いた。
少し離れた四辻(十字路)の向こうには地回りのやくざ連中が一家総出で待ち構えていた。
人数にして二十人ほどはいただろう。
全員、手に抜き身の刀を握り、こちらに向かって恐ろしい視線を送っていた。
「ふざけやがって、さっさとこっちに来い!」
中央の太った男が低い声を響かせた。
ほとんどの人間が薄手の、それでいて毒々しい派手な色合いの着流し姿だったが、この男だけは黒い背広に赤い襟付きシャツ、白い襟巻という洋装で、金ぴかの大きな指輪をはめ太い葉巻を咥えていた。
「まあ、そう急くな」
ジャガイモみたいな顔の侍は俺に背を向けると四辻に向かって歩みを進めた。
やくざ連中の顔に緊張が走った。
俺の後ろの方には腰の引けた十数人の村人がいたが、その連中も息をのんでいた。
「じゃあな」
四辻の中央に辿り着いた侍は、そう言うと誰もいない四辻の右の通りに向かって駆けだした。
そのまま進めば村を出ていく街道だった。
「えっ?」
俺はあっけにとられた。
てっきりやくざ連中と戦ってくれるものと思っていたからだ。
たとえ敵わないにしてもいきなり逃げるなんて思っていなかった。
そして、それはやくざ連中も同様だった。
「ふざけやがって!」
「逃げんな、こら!」
「ぶっ殺せ!」
やくざたちは慌てて侍を追いかけた。
足の速さに差があるため、二十人ほどのやくざたちは結果として細長い行列になった。
『逃げるんなら、もっと速く走らないと追いつかれちゃう!』
やくざ連中が遠ざかっていくと、俺は四辻の中央近くに駆け寄って侍の後姿を見守った。
侍を追う先頭のやくざが侍に追いつきそうになっていた。
俺は両手を握りしめ固唾を呑んだ。
「待ちやがれ、この野郎!」
侍は振り返り急に足を止めた。
『捕まっちゃう!』
侍は今度はこちらに向かって逃げていた時よりも素早い動きで戻ってきた。
やくざたちの間を水が流れるように動いていた。
「うお!」
いつの間にか侍の手には白刃が握られており、夕闇の中、黒ずんだ血しぶきが上がった。
「馬鹿、止まるな。」
「何してやがる!」
やくざたちは大混乱に陥った。
足を止め侍に斬りかかろうとしたが、無秩序に行動していたため、お互いが邪魔になった。
それに比べ侍の方は、何の躊躇もなく、思う存分刀を振るっていた。
「う、腕が!」
「助けてくれ!」
ある者は脇腹を切り裂かれ、ある者は刀を握った腕ごと斬り飛ばされ、ある者は慌てた味方に切り裂かれた。
二十人ほどいたやくざたちは、次々に地面の上に転がり、立っているのは、あっという間に十人ほどに減っていた。
『すげえ』
俺は血生臭い光景を見ながら興奮していた。
村人たちを恐怖と暴力で支配していた連中が、あっけなく倒されていくのを見るのは痛快だった。
「馬鹿野郎! 三人一組になって取り囲め!」
やくざの親分と思しき男の怒声が響き、手下たちは体勢を立て直そうとした。
「てめえらは俺を守るんだよ!」
親分と思しき男は身近な手下を二名ほど自分の周りに引き寄せると、残った六名を三人ずつ二組にして侍にけしかけた。
「やっぱ二十人はきついわ!」
侍はそう言いながらも返り血を浴びた顔に凄絶な笑みを浮かべた。
普段見せてくれる優しい笑顔ではなかった。
俺は地獄の鬼を見たような気がした。
そして、それはやくざたちも同じだったらしい。
ざわめきながら後ずさっていた。
「馬鹿野郎! ビビるんじゃねえ!」
親分が後ろの方で怒鳴っていた。
「次に死にたい奴は誰だ?」
侍がゆっくりと歩みを進めた。
彼に近い三人組のうち、二人が突然逃げ出した。
「なにしてやが……」
残った一人は最後までセリフを言うことができなかった。
電光のような突きが喉元を抉ったからだ。
「あと六人」
「一斉にかかるぞ、いいか!」
三人が侍を取り囲む位置に移動した。
「いくぞ、おらぁ!」
声を上げて合図した男は下から脇腹を切り上げられ、次の男は突きかかろうとした腕を切り落とされ、最後の男は刀を振り上げた姿勢のまま、胴体を両断された。
「お前ら何とかしろ!」
「お、親分!」
親分が自分の周りにいた部下のひとりを無理やり侍にけしかけた。
部下の顔は恐怖に引きつり、戦意を失っているのが明らかだった。
捨て鉢に侍に斬りかかったその男は、あっさりと袈裟懸けに切り捨てられた。
「ひい!」
侍は鬼の形相で親分に迫った。
親分は最後に残った手下を盾にしようとしたが、手下ごと腹部を刀で貫かれた。
「い、痛え……」
親分は値の張りそうな洋服をどす黒い血で染めながら地面の上でのたうちまわった。
盾にされた方は急所を貫かれたらしく、白目をむいたままピクリとも動かなかった。
「ふう」
四辻には、まだ息のあるやくざたちの呻き声であふれていた。
侍は、血で汚れた自分の刀を絶命しているやくざの着物の裾で拭い、鞘に納めた。
そして、目を見開いて立っていた俺にゆっくりと近づいてきた。
「隠れてなかったんか」
俺は黙ってうなづいた。
「あんまり子供の見るもんじゃないんだがな」
「ありがとう、おじさん」
口の中はからからに乾き、俺の声は緊張でかすれていた。
侍は俺の頭をなでようとして、自分の血まみれの手に気づき、小さな溜息をついた。
「風呂にはいりてえな」
侍はぼんやりとつぶやいた。
すでにだいぶ暗くなってきていたので、細かい表情は見えなかったが、少なくとも嬉しそうには見えなかった。
しかし、子供の俺にとって、侍はとてつもなく恰好良く見えた。
そして、自分も大きくなったら、この侍のような正義の味方になろうと強く心に誓った。