彼女がお茶を淹れる理由
出勤は11時。勤め先の古本屋を開けるのは12時である。
ここは昔ながらの古本屋で、好事家が集うところだ。
店の本棚は本で埋めつくされ、立てて入っている上にも横になった本たちが居場所を奪い合っている。
最近流行りの店内が明るく本が探しやすいチェーン店の古本屋とは違う匂いがたちこめ、静謐を保っている不思議な空間。
ろくに整理されていない書棚を整え、少しでも見やすくしているのは店員の女性だ。
清潔そうな白いシャツに紺色のロングスカート、烏の濡れ羽色と称してもいいほどの艶のある長い黒髪を後ろで一つにくくった姿はこの店に馴染んでいた。
このろくに客も訪れない古本屋は、あまりやる気のない店主と、本好きの店員であるこの女性とで成り立っている。
この店は店主の道楽であり、主に税金対策なので本が売れても売れなくてもあまり関係がない。たまに「買ってください」と持ち込まれる本も、高くはないがろくに中身も見ずに買い取ってしまう。それらを苦労して店だしするのが店員の役目だった。
店を開けて表の100円コーナーを確認すると、彼女は満足そうに店内に戻った。
店の奥の勘定台につき、最近はまっているファンタジー小説の文庫を置く。これは古本屋の商品ではなく、一本通りを隔てたところにある大型の本屋から買ってきたものだ。
勘定台の後ろの擦り硝子の戸の向こうからしゅんしゅんとお湯が沸くような音が聞こえてきた。店主がやっと起きだしてきたようである。
彼女は店の入口の向こうを窺い誰もこないことを確かめると硝子戸を開けた。
「おはようございます」
果たして、着流しに半纏を引っかけた店主がそこで大あくびをしていた。
「ああ……おはよう。お茶を淹れるよ」
「いいえ、私が淹れさせていただきます。茶葉はどれを?」
店主は逡巡もせず、畳に上がった彼女にお茶葉の入った袋を渡した。彼女は目を見張った。
「これは……」
「昨日藍屋さんが持ってきてくれたんだ。なんかいいお茶らしいよ」
のんびりと言う店主に彼女は嘆息した。
「玉露ではないですが高級茶じゃないですか。店長にあげるなんて猫に小判です」
「そうかなぁ」
お茶葉は煎茶だったが、新茶の希少種と呼ばれるものだった。
これは丁寧に淹れないともったいない。彼女はそう思った。
煎茶は元々沸騰したばかりのお湯で淹れてはいけない。だいたい80度ぐらいで淹れるのがならいである。玉露だと60度以下で淹れるものだ。
薬缶で沸かしたお湯を一度湯呑みに入れ、冷ます。口をつけて熱いと思わない温度になれば大丈夫だ。
緑茶は熱いお湯で淹れると茶葉がやけてしまうし、カフェインの抽出が増えて苦味が出やすくなる。
慎重に淹れ、茶葉の開きを確認してから彼女はお茶を淹れた。
鮮やかな緑色の茶が湯呑みの中を泳ぐ。彼女は思わず口元に笑みを浮かべた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
彼女の満足度とは裏腹に店主はろくに茶の色も確認せずぐびぐびと飲んだ。
「うまい」
「それはよかったです」
彼女もお茶に口をつけた。ふわっと上品な柔らかい味が口の中に広がる。
これだからお茶を淹れるのはやめられない。
「……芳君、うちにはこういうお茶がいっぱいあるんだ」
「そうですね」
これはいつものやりとりである。
「私はお金にも困ってないし、よくこういったお茶をもらうし」
「苦学生が聞いたら刺したくなりますね」
彼女は一度湯呑みを座卓に置いた。
「だから……もし君さえよければ一生お茶を淹れてくれないかな?」
店主の窺うような科白に彼女はふっと笑んだ。
「……30点です。また明日以降やり直してくださいね」
「ええええ」
店主の抗議の声を無視して彼女はおいしく淹れたお茶を飲み干し、ご丁寧にも硝子戸を閉めて店の勘定台に腰かける。
その口元にはしばらく笑みが浮かんだままだった。
終
おいしいお茶をいただきまして、浮かびました。
行間を読む話が好きです。