二度目の初恋
単なる恋愛ものではなく、心に傷を抱えた主人公の葛藤を描きました。
誰しも、恋には苦い想い出の一つや二つあるのでは? いや、モテる方は別として(^-^;
ましてや不運に見舞われてしまい、その経験が強烈だったりすると、全く先に進めなかったり。。
でも、一方で、恋には運命としか思えないようなことも起きることがある。私も経験しています。
中学時代からずっと想っていた女子と予備校に行く電車のホームでバッタリ、とか。
自習するために行っていた公立図書館の近所のコンビニでまさにその女子とバッタリ。
そんな時、もしかしたら運命の神様は私たちの恋を応援してくれているのかもしれません。
辛いことも多い恋。でも縁結びの神様も確かにこの世にはいる。
そんな想いを込めて、皆様にこのお話を贈りたいと思います。クリスマス・イブの夜に。。
プロローグ
それは、これまで直人が見て来た女性の中で二番目に美しい女性の姿だった。
直人は大学に向かっていた。
一方通行の市道をただ漫然と歩いていただけだった。
桜の花びらが道を覆い、直人はなるべく花びらを踏まないようにしていた。
時折空を仰ぎ、空気を吸い込んだ。
汚れた空気でも良かった。
いや、その方が今の自分には合っている気がした。
何の気なしに直人は理容店のサインポールに目を移した。
その脇ではホースで道路に打ち水をしている白衣を着た人があった。
「おはようございます!!」
女性にしてはやや低いが澄んだ声が唐突に直人の体を突き抜けた。
直人がその声に目を向けると彼女は微笑みをさらに崩して彼を見た。
一瞬、自分とは思わずその視線を避けるつもりだった。
でも、彼女の瞳はキラキラ光りを乱反射していて余りに美しく、しかも彼女が頭を小さく下げて来たので、彼も釣られて顎を引いたのだ。
「いってらっしゃい!」
もう一度、彼女が声を掛けて来た。
それはやはり自分に対してのものだった。
笑みを絶やさない彼女に、直人はもう一度小さく顎を引いた。
笑みを作ろうとしたが、上手く出来なかった。
(1)大学にて
「やあ、君も同じ経済?」
入学式後、各学部のオリエンテーションをした帰りだった。
「え?」
と直人はその声の方に顔を向けた。
「オリエンテーションの時、経済のところにいたでしょ?」
浅木順一という彼は2浪で大学に入って来たとのことだった。
つまり、直人より歳は1ッコ上である。
大阪の枚方出身の自宅生らしい。
直人は兵庫県の伊丹市出身である。
「いやあ、だだっ広いねえ大学っつうところは・・・。
門から経済の1号館まで一駅分ぐらいあるもんなあ」
と彼はキョロキョロと校内を眺めている。
どうにも落ち着かない男だ。
「そうだね」
と直人は何も考えずに答える。
「ところでよお、内田君は昼飯どうすんの?
来る時に西門の外探索してたらさ、結構飲食店あったよ。
どうよ、これから」
そう言えばお腹が空いている気がした。
腕時計を見るともう午後の1時を回っている。
西門を出て信号を渡ると、そこから両横にお店が並んでいる。
少し歩いて左に入った所にもお店はあった。
その中で、一際洒落た店があり、次々と学生が入って行くのが見えた。
浅木と直人は店外のメニュー表を少し見て洋食店であることを確認し、中に入って行った。
2(浅木)
浅木はカレーピラフ。直人はカルボナーラを注文した。
「内田君はクラブは何にするか決めてるの?」
浅木がタバコに火を点けながら訊ねる。
「クラブ? いや、まったく・・・」
直人は興味がないと言った風にぶっきら棒に答える。
「俺はスキー部に入ろうかなって・・・」
「スキーが好きなの?」
と直人は訊いてみた。興味はないが・・・。
「実は、ここのスキー部は2つあってね」
「へえ・・スキー部が2つも?」
やや興味が湧く。
「うん。知らんかった?」
と浅木はタバコの煙を吐き出す。直人は黙って顎を引いた。
「実はな、ここのスキー部の中でも『フリーダム』っていう部の方には、」
「ハイ、お待たせえ~」
と浅木が体を乗り出して言い掛けたところに、注文したメニューが運ばれて来た。
浅木はそのまま言葉を切った。
「おお、エエ匂いやなあ」
浅木がスプーンを取って何事もないように食べ始める。
直人は話の続きが少し気に掛かったが、彼に釣られるようにして自分もホークを取った。
そして、カルボナーラを口に運ぼうとすると、
「乱交倶楽部っていう組織が裏の部として存在する・・らしいんや!」
と言った。
「ぶっ――ら、らら乱交??」
口に運びかけたカルボナーラを吐き出し、直人は浅木の眼を直視した。
(何を言い出すんだ? この男は・・・)
直人は不可思議なモノを見るような眼で彼を見た。
「ま、ウワサ・・やけどな」
彼は口元をニヒルに歪め含みのある笑みを湛えた。
直人は一瞬、彼は同じ学生でもこうして一緒に食事をする相手ではない気がした。
「あっ、でも、乱交がしたいって訳やないで。俺は至ってノーマルやから。
ただ、ジャーナリスト志望としては、噂の真相を確かめたいと思ってな。
火のないところに煙は立たぬっていう言葉の検証も兼ねて」
表情を崩さず、ピラフを口に運びながら彼は言う。
「そ、そうか・・・」
直人は小さく息を吐いた。
「ところで、内田君はもう見た?」
ピラフを口に運びながら彼は訊ねた。
主語がないので何のことかさっぱり分からない。
3(偏見)
「見たって、何を?」と直人が当然の疑問を口にする。
「朝は正門側から来たんやろ?
この辺のお店のこと知らんっぽかったから・・・」
「あ、うん、確かに。だから何?」
まだ話が見えて来ない。
「地下鉄側から来たんやったら、あの散髪屋の女店主に声掛けられたかと思ってな」
直人はその時、あっ――と思った。
一気に朝のあの光景がフラッシュバックする。
浅木も知っているのだ、彼女のことを・・・。
「え? そ、そう、だったかな・・・」
咄嗟にとぼける。
目を瞑らなくても脳裏一杯に彼女の姿がハッキリと浮かんでいるぐらいなのだが。
「挨拶されへんかったか?おはようございます、って。
いってらっしゃい、とかなんとか。
ま、あれはかなりな女やね。
年齢は若そうに見えるけど二十代後半てとこかな」
「その女の人がどうかしたか?」
と直人は不快な感情と疑念を隠すように訊ねた。
「いや、どうもせんけどな。
内田君みたいな純情な男子がああいう好きモノに引っ掛からんように忠告しといたろうと思ただけ・・・。
ま、余計なお世話ではあるけど・・・」
そう言うと、残っていたエビを掻き込んでいる。
直人は彼の言葉によって、見る見る間に彼女のイメージが崩れるのを感じていた。
美しいと思っていたあの姿は、彼から見れば薄汚れた好きモノなのか、と少しがっかりした。
美しく見えたのは彼女の容姿であって心ではない。
浅木にはその心の部分が垣間見えたのかもしれない。
彼のジャーナリスト的直感として・・・。
食事を終えると、直人と浅木はお店の前で別れた。
彼は学校に用事があるようだった。
直人はそのまま下宿先のアパートに向かった。
ただ、正門の前の道からではなく、西門側を出た道から戻る。
あの理容店を避けるためだった。
心なしか晴れていた気持ちは、一気にくすんだ灰のようになっていた。
4(変身した浅木)
経済学部一号館の前には学生達が蟻のようにたかっている。
掲示板を見るためだ。
そこにはその日と直近の授業情報などが貼り出されている。
近付いて行くと、
「よお!」
と手を挙げる人影があった。浅木順一だ。
直人は小さく顎を引いて応じた。
ただ、この間会った時とイメージがすっかり変わっている。
あの日は確か・・・。
「おっ、分かったか? 散髪したんや。スッキリとな」
「あっ!」
そうかと思った。
あの時はロングヘアーだった。
と言うより、ぼうぼうに伸ばしていたと言った方が正確かもしれない。
今は、両サイドとバックがスッキリと刈り上げられ、トップはセンターが少し長めにシャギーが施されている。
いわゆる一昔前に流行ったベッカム風のスタイルだ。
出川っぽくもあるが・・・。
以前のもっさりとした雰囲気が一掃されている。
不意に、どこでカットしたのだろう? と気になる。
なぜそんなことが気になったのか?
一時限目は一号館でマクロ経済学だ。
全経済学部生が同じ教室に向かう。
大教室に入り席に座るとどうしても気になったのが、刈り上げの男子が目に付いたということだった。
テレビタレントやお笑い芸人の中にも確かにそういう傾向は見て取れるが、まだ、若者の間では裾をシャギータッチに流すセミロングスタイルが主流の筈だ。
その中にあって、この光景は少し違和感を覚えた。
「お前も行ったのか? あそこの散髪屋さん」
「おお。あそこの従業員、可愛いやろ? 思わず入ってもうたで」
「お前はどっちが良い?」
「俺は若い方かな。 お前は?」
「俺はお姉さんの方やな。色々手ほどきしてくれそうやろ?」
前の席の学生が話している内容が嫌でも耳に入って来る。
彼らがどこの理容店の誰のことを話しているのか、直人にはすぐに分かった。
前の2人のヘアスタイルは多少の違いはあるが、その襟元やもみあげ、耳上部などの処理の仕方や刈り上げの面の取り方が共通している気がする。
ふと横を見ると、それと極めて類似した処理の仕方のヘアスタイルがある。
それは浅木だ。
彼もあの理容店にカットに行ったに違いない。
(俺にはあんなこと言っといて、自分はあの店に行ったのかよ)
彼にも前2人の声は聞こえている筈だ。
彼は素知らぬ顔をしているが、どこかとぼけた表情である。
直人は彼が自分を嵌めたのではないか? という疑念に捉われていた。
やはり、この男は一緒に行動を共にする相手ではない気がする・・・。
5(理髪店へGO)
授業後、トイレの鏡を覗き込むと髪が伸び放題だった。
1浪の間、散髪に行ったのは初夏と初冬の2度しかない。
散髪に行くのは何よりも面倒だった。
いつも、伸び過ぎてどうしようもなくなってから、予備校からの帰りに駅中の格安カットハウスでする。
鏡の中の自分を見ていると(もう限界だな)と思った。
「確か、コープの横にサインポールが回ってたっけな?」
と独り言ちる。
「おっ、内田君も散髪に行くの?
確かにそろそろ行き時かもね」
背後で唐突に声がする。浅木だ。
直人は「おう」と軽く愛想を言って手洗いを済ませ、ハンカチで手を拭いていた。
「あそこ、安かったで。総合調髪1500円なり~」
「へえ」
とキテレツ大百科のコロ助のモノマネのことには触れずにスルーしておく。
総合調髪というのは、理容店で使われるメニュー名だ。
カット・シェービング・シャンプーイングが総合調髪として理容の世界では一般的に使われているコースのようなものだ。
「浅木君はそのカット、そこでしたんか?」
この問いに対する彼の反応を直人は注視した。
「え? お、おうまあな」
そう答えた彼の眼が明らかに泳いでいるのを直人は見逃さなかった。
(分かり易い奴・・・)直人は思わず失笑した。
彼はそんなに悪い奴ではないのかもしれない。
直人がトイレを出ようとすると、「内田く~ん、そこの散髪屋さんに行くの? なあ・・・」
と問い掛ける浅木の声がトイレの壁に反響している。
直人はそれには答えずトイレを後にした。
最後の一般教養の化学を終えると、
「今日はスキー部の1回生の連中と飲みに行くんや」などと話している浅木とは工学部の校舎前で別れた。
直人は正門から地下鉄の駅方面に歩き出した。
サインポールが見える場所まで来ると、直人はその前辺りを行ったり来たりした。
青テントにはカタカナで『理容 テラカワ』というすり切れた文字がある。
店先は綺麗に掃除が行き届いている。
お店の佇まいはそれなりに年季が入っている気がした。
ガラスの向こうでは理容椅子の周囲を二人の人影が動いているのが見える。
椅子に座っているのは客だろう。
心臓が小さく鼓動を刻んでいる。
恐らく周囲からは不審者に見えるに違いない。
時々、自転車や人が通る時、直人はお店の手前を戻る振りをしてみる。
(もうこのまま帰ろうかな・・・)
何を気弱になっているのだろうか? ただ、散髪に来ただけじゃないか!
そう自分に言い聞かせる。
「まだ入らんのか? 坊やが入らんのならわしが入るが」
ハッとして後ろを見ると、やや小柄な初老の男性が直人を見上げて立っていた。
6(散髪屋にて)
「あ・・いえ、いやあ、あの・・・」
アタフタして頭を掻いたりお尻を掻いて直人が言葉に詰まっていると、初老の男性はにっこり笑って、
「わしに付いて来なさい」
とお店に入って行った。
直人は呆気に取られながら、条件反射のように初老の男性の後ろを追った。
緊張に身を固くしてドアを押し開き、お店に入ると
「いらっしゃいませー!」
という女性2人の声が店内に響いた。
1人は先日声を掛けて来た女性で、満面に笑みを湛えて直人を振り返った。
もう1人は、彼女よりもやや年上らしき上品な女性である。
それぞれに年配の男性客を相手に施術を施していた。
「おお、入って来たか。まあ、ここに座りなさい」
3人掛けのレトロな風合いの茶の長椅子に先ほどの老人が座って手招きした。
直人は小さく礼をして促されるままに座った。
椅子に座ると、店内がパノラマ状に見渡せた。
2人の自分より年上らしき女性の施術者は、理容店としてはやや異質だった。
駅中の格安店でも男性技術者の比率が遥かに高いからだ。
2人共七分袖の白衣を着て下はパンツ姿だった。
2人の内、年上の方の女性は30前後だろうか。
もしかしたらもう少し若いかもしれない。
ショートボブにしており、やや勝気そうな顔によく似合っていた。
先日声を掛けて来たもう1人の女性は、改めて見ると抜けるような白さの肌で、笑顔を絶やさない愛らしい小じんまりとした顔立ちだった。
髪はアップにしていて項が白衣の襟から見え隠れしており、盗み見るのも憚られるほど美しく眩しかった。
7(散髪屋にて)
「坊やは新入生かい? 大都生の」
とぼーっと彼女に見とれている直人に、先ほどの男性が訊ねた。
直人は我に返り、「は、はい」と男性の方を振り返って答える。
大都生とは大阪都立大学の学生を略して言う言葉である。
「そうかい。通りで見かけない顔じゃと思った。
まだまだ垢の付いてない綺麗な眼じゃな」
と独り言のように言うと、にっこりと先ほどと同じように笑った。
それ以外にも学部は何だとか、どこの出身であるとか、この辺の安いスーパーの話など二人は一しきり話をした。
一旦話が途切れ、内心ほっとしていたのも束の間、再び彼の口が開いた。
「ところで、坊やも彼女狙いかね?」
「はっ?」
一瞬何のことか分からずに男性の顔を見る。
すると彼の視線は若い方の女性に向けられていた。
「ここへは大都生から果ては一つも二つも向こうの駅から若いもんが彼女狙いで来るんじゃよ。
彼女の事情を知らんもんじゃから、ただ押しの一手で来るもんも多いがね。
かと思えばストーカーじみたことをするもんも多くてな、時代なのかもしれんが当然そんな奴は論外じゃな。
ま、あの愛らしさじゃ。あの手この手でモノにしたい気持ちも、思い詰めては何も動けんという気持ちも同じ男としては分からんではないがな・・・」
老人はお店に置かれている本棚の一隅からタバコを取った。
前に置かれたテーブルからライターを取り火を点けようとしていた。
すると、彼女が
「ゲンさん、タバコは駄目よ。
お医者様から注意されたんでしょう?」
と振り返って艶のある声で言った。
声には張りがあるのに耳に触らない心地良さがある。スッと心まで届いて来るようだ。
「おっと、これはいかん。つい手が伸びてしもうたわい。ハッハ」
「もう・・・」
彼女が眉毛をへの字にして泣き笑いの困った表情をしている。
「サエのお蔭でわしも長生き出来る可能性が残されておるわい」
「私の見てない所でも気を付けてよね。自分一人の体じゃないんだから」
「泣けることを言ってくれるじゃないか。ハッハッハ」
老人はさも愉快そうに笑っている。
「坊や。名前は何と言う?」
突然、老人は直人に向き直って訊ねた。
直人は彼女をサエと呼び捨てにした老人を、彼女からゲンさんと呼ばれた老人を、違ったものを見るような目で眺めた。
8(彼女の過去)
「直人です。内田直人」
と直人は急いで答えた。心なしか背筋はピンと伸びている。
「そうか。直人か。良い名前じゃな。
わしは高島元一じゃ。よろしくな。
もう引退したが、わしも理容師やったんじゃよ。
脳梗塞で右手が言うことを利かんようになってな。
昔はこれでもブロースで日本一になったこともある。
ブロースとは角刈りのことじゃが、坊やは知らんじゃろな。
ま、今で言うならスポーツ刈りみたいなもんじゃ。
現役の頃はよく涼に手ほどきしてやったりもしたな」
老人は遠い所を見るように視線を宙に這わせている。
涼という名前が直人の意識に浮遊していた。
その名の持ち主の説明を求めて直人は次の言葉を待った。
「冴のな、傷はまだ癒えておらん。
傷口は今にも血が噴き出しそうじゃ。
そんな女に体当たりしたとて、モノに出来る筈はないんじゃよ。
彼女の傷は亡き夫の存在の強さそのものじゃ。
深い傷はそうそう回復出来るものではない。時に誰かの助けは必要じゃ。
溜まった膿を出し、何十針も縫い合わせなきゃいかん。
しかし、男はその女の美しさに目が眩み、本質が見えない。
ただ甘い言葉と餌で釣り、肉体を征服することで精神をものにしようとしてしまう。
それは今の冴にとっては傷口に塩を塗り込むようなもんじゃ。
冴にはもっと必要な物がある。
それが分からん限り、あの娘が心を開くことも、本当の意味で癒されることもないじゃろう」
それらの言葉には、老人が見詰める一点から彼にしか分からない記憶の糸がスルスルと紡ぎ出されているかのような錯覚を直人は覚えた。
涼という名と冴。そして、彼女の心に疼き続けているという深い傷。
これらのキーワードから導き出されるものは、大まかには推測出来る気がする。
あの天使のように美しい笑顔の下には直人の知らない彼女の姿が潜んでいる。
もしかしたら、その深い傷を強い止血効果を持つ天使の笑顔によって抑え覆っているのかもしれない。
「直人。もし君が本気で冴に惹かれているのなら、彼女の表面ではなくその心に目を向けなさい。
彼女の素肌や容姿や笑顔の美しさではなく、彼女の記憶を焦らず坊やの方に手繰り寄せるのじゃ。
そうすれば、少しずつ彼女の心が見えて来る。大切なのは」
「元さん。どうぞ!」
そこへサエの声が彼の声を遮った。
でも、直人には分かる。大切なのはきっと・・・。
「いや、先にこの坊やをしてやってくれ。
彼の方が先に店先におったから。
さ、坊や、君が先だ。焦らずにな」
高島元一はそう言うと、ポンと直人の肩を叩いた。
大切なのはきっと・・・彼女の記憶を共有することなのだ。
9(冴と元さん)
彼女は名前を寺川冴と言った。
散髪中に鏡に映る後ろの壁の賞状にそうあった。
そこには『メンズミディアム部門 大阪理容大会二位 寺川 冴』とあり、そのことに触れると、彼女は照れたように、
「少しコンテストを頑張っていた時期があったんですよ。技術向上のためです。
お蔭様で最低限度お客様に恥ずかしくない程度の実力は付けられたと思います。
それもこれも元さんに勧められたことがキッカケだったんですけどね」
と言った。
直人は彼女と高島元一の関係が気になって仕方がなかった。
込み入ったことを聞くのはいささか気が引けたが、
「彼女の記憶を焦らずに坊やの方に手繰り寄せるのじゃ・・・」
と言った彼の言葉を思い出し、訊ねた。
「あの、その~、元さんとはどういうご関係で?・・・」
直人は自分でも変に緊張していることに気付いていた。
喉元が締め付けられるようだ。
「あ~あ・・元さんも元理容師だったんですよ。
理容協会の同じ組で、夫の代から色々と助けてくれてたんです。
私がお店をやり始めてからも、色々とアドバイスをくれて何かと力になってくれて。
今があるのは元さんのお蔭でもあるんです。
この仕事は地味だけど、技術は学校を出て国家試験に合格しても全く通用しませんからね。
1年や2年でお客様に満足して貰える技術を身に付けることはどんな天才でも無理だと思います。
私も最初の頃は、余りに難しくて何度も投げ出したくなりましたから。
一人で写真や本なんかを見て頑張っても到底無理で、1カ月一人で努力するよりも一度講師の先生に見て貰う方が早いということはザラです。
コツみたいなものは、私達の世界では宝物なんです。
本当に大事な部分というのはそうそう身に付くものではありません。
実際にその技術を見て例え説明して貰っても、自分でやってみると全く出来ないことが殆どです。
ウイッグから始めて先生に手ほどきを受け、実践を少しずつ積みながらそこでも先生のアドバイスを受ける。
そういうことをひたすら繰り返すんです。
コツの部分はその繰り返しの中で少しずつ見えて来ることもあれば、ある日突然出来ることもあります。
本当に技術は奥が深いんです。
その難しさが魅力でもあるんですけどね」
冴はこと散髪の技術のこととなると嬉嬉として話した。
目はイキイキとして黒目に宝石が幾重にも折り重なっているようである。
「つまり、元さんは旦那さんとあなたにとっての先生みたなものだと?」
直人は彼女を何と呼べば良いのか分からずに、あなたと慣れない呼び方をした。
「そうですね。先生みたいではなくて恩師だと思います。
もっと言えば家族に近い存在かもしれません。
夫が亡くなってからも何かと力になってくれて、もし元さんがいなかったら、とてもじゃないけどお客様に提供出来る技術なんて一生身に付かなかったと思いますからね。すごく感謝してます」
(やっぱり旦那さんは亡くなったのか。それでその後を冴さんが継いでるということなんだ・・・)
10(秘密)
話の間、直人のヘアースタイルは少しずつ出来上がって行った。
それはそれまで他の店で受けて来た施術とは随分違う気がした。
これまでの技術者はこちらの要望を告げると最初から大胆にバッサリカットするのが通例だった。
しかし、彼女のカットはダッカールで髪を細分化し、一枚一枚薄皮を剥がして行くように作られて行った。
それはまるで一本の木から仏像が作られる彫刻のようにさえ感じられた。
直人のぼさぼさの髪は、三十分後には一つの芸術作品に仕上がっていた。
それは浅木順一のヘアスタイルとは随分違うモノになっていたが、細かな質感は共通している気がした。
間違いなく、彼のヘアスタイルはここでカットされたものだ。
カット後は顔剃りとアロママッサージ&パックがサービスで付いていた。
そのどれもが、丁寧でこれまで直人が感じたことのないゆったりとした心地良さをもたらした。
シャンプーイングは最近は仰向けになるバックシャンプーが主流だと思われるが、ここでは前洗いだった。
一旦、座ったままでスタンドシャンプーをし、一通り施術すると前洗い洗面に頭を突っ込み、シャンプー剤を流す。
さらにもう一度シャンプーイングし、その時に頭掻きのようなもので頭皮を刺激する。
それからリンス。
その後、フェイスクリームで顔の乾燥を防ぎ、ヘアトニックで頭皮の状態を整える。
とにかく、冴がする施術は微に入り細を穿つものだった。
お店を出る頃には、直人の心までが一皮剥けた気がした。
直人がお店を出る時、鏡越しで元一老人がウインクして来た。
それはどういう意味だろう? もしかしたら、冴とのファーストコンタクトに成功したことに対するOKサイン程度の意味だろうか?
直人自身、そのことに悪い気はしなかった。
後ろ髪を引かれる思いで、直人はお店を後にした。
彼女の顔や声、話の細部に至るまでが体中にインプリントされたように充満していた。
その日の夕方、伊丹市の自宅からメールがあった。
『一週間後の16日。追悼式があるけど、直人はどうする? 学校でしょ? 今年もやめとく? どちらにしても連絡だけ頂戴』
忘れる筈はない・・・。
突然、直人の体に閃光が走ったように、あの日の光景がフラッシュバックした。
直人には誰にも言えないことがある。
親も友人も当時の先生も知らないことだ。
ずっと、胸のうちにしまっている事実がある。
11(初恋の彼女)
2011年5月16日。福知山線の脱線事故。死者は62名。負傷者581人。当時、直人は15歳だった。
高校に入学してまだ1月余りだというのに、あの日はたまたま寝坊してしまい、いつもよりも遅れて電車に乗った。
受験が終わり、クラスにも少し慣れた頃で気持ちにも多少のゆとりが出来た頃だった。
これは五月病かな、などと独り思ったものである。
伊丹駅で上り普通列車に乗り込み、直人はホッと息を吐いた。
気持ちは焦り車内を見回しながら、直人は無意識に最前車両に向かった。
いつも登校時は最前部に乗り込むのだ。
次の猪名寺駅に電車が入ると直人は自分の眼を疑った。
最前部から二両目に彼女が乗り込んで来たのだ。
それは高校に通い始めて間もなく、偶然ホームで見かけた他校の女子高生だった。
恐らく一目惚れだっただろう。
直人はその日以来、彼女の姿を探すようになった。
しかし、この日は明らかに遅刻であり、彼女がいるというのは想定外だった。
もしかしたら彼女も寝坊したのかもしれない。
直人は若い純情な思考経路で(これは運命かもしれない)と思ってしまった。
そして、これが彼女の運命を決定付けることになってしまったのだ。
もしあの時、直人が声を掛けていなければ、彼女の運命も大きく違っていたかもしれない。
走り終えた荒い息を少しずつ落ち着かせようとしている彼女に、直人は近付いて行った。
運命なのだから、なるようになるに違いない。
そんな勝手な了見で直人は彼女のすぐ傍まで近付き、そして息が詰まりそうな心臓の拍動を自覚する前に息を吐き出した。
「あ、ああのう、す、すすみません」
消え入りそうな自分の声に、直人は自分でも驚いていた。
彼女は微かに直人の気配を感じ、視線を向けようとしていた。
直人はこれではいけないと思い、もう一度小さく息を吸い込み吐き出した。
「い、いつも、朝、この電車・・あ、いや、この電車じゃなくて、え、と、朝の7時30分から40分発の電車に僕も乗ってるんです。その時、あなたも乗ってます、よね?」
そう、間違いなく彼女も乗っている。
直人は彼女の返答を待った。鬼気迫る思いだ。
「は、はい、そう、ですね。30分ぐらい?・・はい、確かにその時間帯の電車に乗ってますけど・・・」
少し考える素振りをしてから、キラキラと宝石を幾重にも散りばめたような瞳を直人に向けて彼女は答えた。
その表情はやや驚いていたが、決して警戒している風ではなかった。
どちらかと言えば親しみがこもっている気がした。
直人は彼女の反応にやや安堵した。
※ この小説は兵庫の福知山線脱線事故をモチーフにしてはおりますが、日付、犠牲者の数などは全て架空ですので悪しからず。
12(彼女と学校)
「今日は珍しく遅かったんですね。
あ、実は僕も寝坊しちゃって、完全に遅刻なんです。
まさか、あ、あなたもこの電車にいるなんて思いもよらず、思わず声を掛けてしまった訳で・・・」
どうにも言い訳じみている。
それに、彼女をどう呼べば良いか分からず「あなた」と言った後で違和感を覚えていた。
「うふふ。ええ、そうですね。完全に遅刻・・・。
私はちょっと微熱があってどうしようか迷ってたんだけど、やっぱり一日行かないと授業にも遅れちゃうから・・・」
彼女は肩をすくめてくしゃっと相好を崩した。
それは今舞い降りたばかりの天使のように眩ゆい。
直人は直視出来ずに思わず目を逸らした。
「あ、そ、そうだったんですか。す、すみません・・・」
彼女は寝坊した訳ではなかった。だから咄嗟にそのことを謝った。
内心シマッタと思った。
「うふふ、いいえ」
彼女は笑みを絶やさずにやや顔を傾げた。
「あ、あの・・どこまで行かれるんですか?」
高校の制服に疎かった直人はずっと気になっていたことを訊ねる。
「東灘方面の甲南女学園なの。あなたは?」
彼女はあっさりと答え、逆に訊き返す。
通称甲女学と呼ばれる甲南女学園は兵庫県内でも有数の進学校でありお嬢様高校である。
直人は唾を飲み込んだ。
「ぼ、僕は、尼崎西高校・・です」
尼西は平均より少し上ぐらいのレベルだ。
思わず言葉が尻すぼみになる・・・。
自分と彼女では住む世界が違うのではないか?
この時直人は思ったものである。しかし、
「へえ、尼西なの? 良いなあ。
私、本当は尼西に行きたかったんだよ。でも、親に猛烈に反対されちゃって・・・。
共学なんてダメだあって。
それで仕方なく今の女子高に行かされちゃった」
急に眼を大きく開いて興奮したように彼女は言った。
「え? うそ――」
思わず直人は呟いていた。
「ホントホント。本当に行きたかったのよ。
尼西って文科系のクラブが凄く盛んで有名でしょう?!
美術部なんて毎年入選してるし、音楽もプロを何人も輩出してるし。
私、高校生になったらバンド作ってプロ目指したかったの。
でも、親は当然反対だから、デビューするまでは内緒だけどね。
あなたは何かクラブに入ってるの?」
彼女は瞳をキラキラさせ、イキイキと語り、そして興味津々に訊ねた。
「僕は・・軽音楽部に入ろうかと・・・」
嘘だった。本当は元々音楽になど興味はなかった。
直人は将棋部に入ろうと思っていたのだ。
先日入部届を貰って机の中に入れたままだった。
13(事故の記憶)
「え? マジで? バンド組むの? 担当は?」
彼女は体を乗り出して直人を質問攻めにする。
直人は内心汗をかいていた。
咄嗟に、「ギター・・かな?」と答えていた。
ギターなど、一度も触ったことがなかった。
音楽と言えば、テレビの音楽番組で聴く程度だった。
「ジャンルは? 私はロック。プリプリみたいな」
プリプリとはプリンセスプリンセスのことだろう。
1996年に解散した伝説のガールズロックバンドである。
しかし、当時の直人はプリプリが何の略かも知らなかった。
ただ、ロックがどういったモノかが何となく分かる程度だった。
その時、電車は丁度塚口駅から尼崎駅の間にある急カーブに差し掛かる所だった。
この時の電車は、いつもと様子がおかしかったことを直人は意識の片隅で感じていた。
いつもより明らかにスピードが速く、線路が軋む音と共に、揺れが酷かった。
そして、あの出来事は起った。
突然の大きく強い横揺れに、一瞬直人の体は彼女が背にしている向かい合わせの扉へと一気に振られた。
直人は咄嗟に何かにしがみ付こうとした。
そして、彼女を守ろうとした。
車内は騒然とし、彼女は悲鳴を上げている。
直人と彼女は否応なく密着し、彼女の華奢な体に直人の体が覆い被さる形となった。
彼女は辛そうに顔をしかめている。
「ごめん」直人がそう言い掛けた時、世界が一瞬で破壊される時のような、激烈な縦揺れと横揺れが不規則に起こった。
直人の意識はその後、数秒と経たずに失われていた。
無論、彼女のことも電車がどうなったのかも見続ける余裕はなかった。
意識が戻った時、一瞬今自分がどこにいるのか全く理解出来なかった。
ただ、ごつごつとするもの、しかし弾力もそこには含まれている何かが、直人の体を四方八方から挟み撃ちに圧しているのが分かった。
次第に、それが人間であることが分かって来た。
「痛いよ~」「助けて」というくぐもった声や「うう~」という苦悶の呻きが聞こえて来た。
直人自身、周囲からの圧迫で息が苦しかった。
ただ、直人の場合は運良く体の体勢が良く、四肢の圧迫も耐えられる程度に収まっていたのだ。
無意識に前に組んだ腕は直人の内臓を守っていた。
直人は、これは何かの災害か事故に巻き込まれたのだと思った。
そして、自分の体を圧迫しているのは人間なのだと気付き始めた。
14(話し掛けて来た男性)
「君、大丈夫か?」
その時、声を押し殺したようなくぐもった男性の声が聞こえて来た。
「がんばれよ。きっともうすぐ助けが来ると思うから」
窮屈な中、そちらに眼を遣るとやや年配の男性が直人を見下ろしているのが何とか分かった。
男性の声は聞き取れるか聞き取れないほどにか細かった。
やっとのことで声を出しているという感じだった。
直人は「はい」と自分でも意外なほどしっかりと答えていた。
息苦しいには息苦しいがまだ耐えられる程度のものだったのだ。
「そうか。こ、これは、大変なことになった、な。
瑞希ちゃんは大丈夫だったかな?・・・」
男性は苦しそうしながらうわ言のように言った。
「一体、何が起こったんでしょう?」
直人は自分より事態を把握していそうな彼に尋ねるように言った。
「た、多分、列車が、だ、脱線したんだろうな・・・。
ハ、ハッキリしたことは分からないが、今頃大きなニュースになってるかもな。
も、もしかしたら、死者も出てるかもしれない・・・」
「死者、ですか?」
その時、男性が苦しそうな呻き声を上げた。
直人はハッとした。
自分の組んだ腕が丁度彼の腹部から胸に掛けて押し潰していることに気付いたからだ。
それで男性は苦しかったのだと直人は初めて気付いた。
彼がクッションとなって自分は助かったのだと直人は直感的に思った。
呻いている彼を見ながら、直人は必死で自分の腕を動かそうとした。
しかし、ギュウギュウに周囲から圧迫された体は微動だにしなかった。
直人が気付いた時には、男性は息をしていなかった。
強烈に密着しているから、彼が息もせず、心肺停止なのは直人の全身を通じて伝わって来た。
直人は頭が燃えるように熱くなりそれに反して首下から血の気が引くのを感じた。
そして、突然吐き気を催した。
男性の顔から眼を背けるように、直人は目を瞑った。
それからの数時間は直人にとって途方もなく長い時間に感じられた。
救出される時、直人は内心気が気ではなかった。
自分のせいであの男性が致命傷を負ったことを追及されるのではないかと思ったのだ。
しかし、事故現場は混乱していた。
直人の懸念は一切問題にされる様子はなかった。
それよりも、けが人や死者を救出することだけで手いっぱいという状況だった。
15(心の傷)
《回想シーン》
直人が救出される時、まず先ほどの男性の顔が見えた。
そして、一瞬彼女らしき姿を見た気がした。
長い黒髪のほっそりとした制服姿の少女。
この時間帯で学生服は直人と彼女ぐらいしかいなかっただろうことは容易に推測出来た。
救助隊の一人が心臓マッサージを施しているのを見ても、急よ隊員の動きに合わせて彼女が無機質な動きを繰り返していることからしても、絶望的なことは明らかだった。
そのことが分かった途端、直人の体から一気に力が抜けて行った。
その日からずっと、直人は傍目からは、ただ漫然とした普通の学生生活を過ごしているように見えただろう。
しかし、実際には常に息が詰まるような日々を送っていた。
何をするにも実感が伴わず、ただ機械的に家と学校を往復した。
クラブには入っていなかった。
そんな彼の周囲には、なぜか多くの友人達が集まって来たが、直人は彼らと一緒にいても心から満たされたことはなかった。
直人は電車に乗る時はいつも、彼女を探していた。
奇跡的に助かった彼女が、不意にホームに現れる気がしたのだ。
一瞬でも心が通じ合えた彼女が、運命の糸に手繰り寄せられ、ヒョッコリと現れる。
そんな空想を毎日のように繰り返した。
そして、最も辛かったのは寝る時だった。
暗闇に入ると、あの男性の顔と苦しそうな呻き声と男性の体にめりこんだ腕の感触が一気に甦って来る。
そして、無機質な動きを繰り返す彼女のことが・・・。
だから、直人はあれ以来一度も電気を消して眠ることが出来なかった。
それでも、目を瞑ると、度々あの光景が甦る・・・。
直人は2人の人間の人生を自分と関わったことで狂わせてしまったのではないか? という観念にいつも縛られていた。
《現在》
外は五月晴れで、空には薄いもつれ雲が広がっていた。
先週、理容テラカワで散髪して以来、直人は正門側を利用するようになっていた。
そして、彼女のいるお店の前を通るようになっていた。
お店の前を通る時、直人は特に緊張した。
彼女の姿が見えない時には、ドキドキ胸を高鳴らせてガラス越しにお店の中を覗いた。
彼女が店先にいる時には、一瞬足が止まった。
心臓が胸を食い破って出て来そうなほどだった。
直人には、どうしてこれほどに彼女の存在を自分が意識してしまうのか、分からないところがあった。
彼女は美しい。
透明感があり気立ても良い。
彼女に会えばどんな男だって一瞬見とれてしまうほどに。
でも、それでも分からない。
例え、彼女に恋をしているとしても、説明のつかない緊張が直人を突き上げるのだ。
「いつもご苦労様。いってらっしゃい」というソフトで優しい声と共に浮かぶ最上の笑顔に出会う度、直人の心はトキメキと息苦しさに見舞われる。
それはギリギリと心臓を締め付け妙な重苦しささえももたらした。
そして、それは一向に慣れることなく、意識すればするほどに、益々強くなるようだった。
16(彼女の夫)
理容テラカワで散髪してから2週間も経つと、刈り上げられたカット面の毛が伸びているのが気になり始めた。
これまで、カットしてから髪がこんなに早く気になるという経験はしたことがなかった。
刈り上げというのは、0.2mm近くまで短く刈られている分、少しでも伸びて来ると、見栄えも手触りも気になって来ることを初めて知った。
年配の男性が、どうして月1回や2カ月に1回の割合で定期的に散髪に行くのか、分かるような気がした。
直人は四年目にして初めて列車脱線事故の慰霊式に参加するつもりになっていた。
大学受験が終わったことと大学のゆるい雰囲気がやや直人の気分をそういう気にさせたのかも知れない。
髪が気になり始めたのも手伝って、直人は慰霊式に行く前に髪をカットしに行こうと考えた。
2日後に慰霊式を控えた水曜日の午後。
学校の帰りに直人は理容テラカワに寄った。
この日は比較的迷いなくお店に入ることが出来た。
「いらっしゃいませ」といういつものソフトで心地良い声と、輝きに満ちた笑顔が直人を迎え入れた。
客は手前の席に若い男性が一人いた。彼女はその客に付いていた。
直人は内心落胆した。
「こちらへどうぞ」
彼女よりやや年配の女性スタッフが声を掛けて来た。
直人は仕方なくそれに応じた。
席に座る時、ふいにスタッフルーム入口と書いたフレームの横の壁に、写真が飾られているのを目にした。
そこには背の高い三十歳後半から四十歳前半と思しき男性と並んで、寺川冴と目の前のスタッフが写っている写真があった。
3人共実に穏やかな笑みを浮かべている。
直人がその写真から目を離さないのを見てスタッフの女性が言った。
「あっ、それ兄と彼女と私です。
兄が亡くなる一週間前に撮ったやつなんですよ」
と彼女から聞いた時、直人の胸がチクリと痛んだ。
そして、やはりそうかと思った。
寺川冴とこの女性は義理の姉妹だったのだ。
「あ、そ、そうなんですか・・・」
直人はなぜかその写真からなかなか目を離すことが出来なかった。
写真の寺川冴は相変わらず美しい。
今の彼女よりもやや幼く、微かにふっくらとした印象だ。
しかし、直人が目を離すことが出来なかったのは彼女の方ではない。彼女の亡夫の方であった。
嫉妬だろうか? 既にこの世にはいない彼に何を嫉妬する必要があるのだ。
直人は自分のその考えを否定した。
「あのう・・どうかされましたか?」
冴の義姉が遠慮気味に訊ねた。
「え? あ、いえ別に・・・」直人は気持ちの整理が付かないまま理容椅子に座った。
17(理髪店にて)
タオルを肩に巻き、毛避けとカットクロス避けを兼ねたカットペーパーを首に巻く。
そしてカットクロスをその上から全身に掛ける。
その流れる動作のさ中、寺川冴が隣りの客を仕上げ、背後に立った。
直人の心は急に踊り出した。思わず彼女の顔をじっと覗き込んでいた。
「失礼しまーす。よろしくお願いします」
直人の頭部にくせ毛直しの蒸しタオルを巻きながら彼女は声を掛けた。
まずはヘアスタイルの要望を聞くことからだ。
それから、五月晴れの気持ち良さのことと学校は慣れたか、楽しいかなどの取り留めもない話だ。
直人は浅木との関係が引っ掛かっていた。
その点に触れてみたい気もするが恐い気もする。
しかし、直人は遂にその点を口に出すことは出来なかった。
ただ取り留めもない話が続いただけだった。
そして、頭の片隅で、どうしても写真に写っていた彼女の亡夫のことが脳裏から離れなかった。
とにかく言うに言われぬむず痒さとでも言おうか。
それはきっと単なる嫉妬ではない。ただ妙に引っ掛かるのだった。
シェービングが済み、椅子が起こされると目に入ったのは先日お店で話した高島元一だった。
「やあ、坊やも来てたのか」
鏡越しに目が合った元一が声を張り上げた。
彼は待合い椅子で座って手を挙げていた。
直人は気恥ずかしくて「どうも」と小さく言っただけだった。
全ての施術が終わり清算を済ますと、直人は出口に向かった。
元一がすれ違い様に、「焦りは禁物じゃぞ」とぼそりと言った。
それが何を意味するのかは直人にも察しが付いたが、どうして彼がそんな風に自分に言ってくれるのか分からなかった。
直人はチラッと彼の背中を見た。
彼は既に椅子に案内されていた。
直人がお店を出る時、彼が、
「今日は耳そうじだけでエエ。散髪は来月じゃ」と言っているのが聞こえた。
直人がドアを閉めようとすると、
「今日も本当に気持ちの良い日ですね」と寺川冴が直人の肩越しに話し掛けて来た。
直人の心臓が胸の裏を打った。
「そ、そうですね。ホントに・・・」と直人は振り向き様に言う。
「内田さんは、季節の中でいつが一番お好きですか?」
「好きな季節、ですか?」
あり触れた、しかし直人が考えたことのない問いだった。
でも、五月は一番憂鬱な時節だ。
18(理髪店にて2)
「5月以外でしょうか・・・5月以外ならいつでも良いですね。
ちょっと変わってますよね」
直人は苦笑いを浮かべた。
しかし、彼女は意外なことを言った。
「そうなんですか? 実は私も5月だけ、好きになれないんです。
他の時期ならいつでも余り変わらないんですけど」
その瞳が一瞬虚ろな色を見せる。
そして、小さく言葉をこぼした。
「5月なんて来なければ良いのに・・・」
それは直人に対して言った言葉ではないようだった。
彼女の視線は下方に沈んでいる。
「あ、ごめんなさい、妙なこと言って・・・」
ハッとして慌てたように彼女が顔を上げた。
「いえ、そんなことないです。
僕もちょっと色々あって、寺川さんと同じこと思ったことがありますから」
直人は本音と嘘を言った。
5月が来なければ良いと思ったことはなかったが、確かに5月が来なければこんなに憂鬱になることもないと思ったのだ。
「そうなんだ。ありがとう」
と言ったその顔には再び笑顔が戻っていた。
その顔を見た時、直人はホッとした。そして、やっぱり彼女は美しいと思った。
「じゃあ、僕はこれで。お仕事に戻って下さい」
「あ、うん。ありがとうございました」
彼女が手を前に結んで頭を下げる。
直人はそれを見届けて歩き出した。
「あのう、内田さん」ふいに彼女が直人を呼び止めた。
「はい」と直人は振り向く。
「また、来て下さいね」と彼女は言った。
その時の彼女は笑っていなかった。
視線が直人の眼の奥に届いて来るようだった。
直人は居住まいを正して、「ハイ」と答えた。
すると彼女はにっこりと微笑んだ。
それはそれまでの彼女の笑みとはどこか違う気がした。
この日、大学の授業の出席確認は浅木に頼んでおいた。
つまり、事前に多めに入手しておいた出席票を浅木に代わりに出しておいて貰うのだ。
一々出席票と出席者を照らし合わせる教授はいないので、学生の誰もがしていることだ。
テストの成績よりも授業の出欠を重視する文系学部において、1回でも出席日数を稼いでおくことは後の単位取得をより容易にする。
浅木も、自分が逆の立場に立った時のことを考えてのことだろう。快諾した。
19(慰霊祭にて)
やや肩透かしを食った直人は、電車に揺られている間、次第に気分が重くなって行った。
胸が金属の重りに塞がれているような重苦しさである。
それは現場に近付けば近付くほど酷くなった。
途中、何度となくやっぱり止めておこうかと思った。
しかし、精神分析の大家であるフロイトや大哲学者のスピノザが言うように、もやもやの感情やトラウマをそのままにしておかず、しっかり直視し理解すればそれらの感情が薄れるというのなら、それは避けて通れないことだとも思った。
このまま何もしないでいると、この時期になるといつも鬱状態に苛まれることになる。
それは半永久的に続くかもしれない。
もしかしたら、もっと酷くなって行くかもしれない。それは嫌だった。
もう5年を迎えるのだ。このままではいられない・・・。
尼崎駅から事故現場に向かって歩いていると、直人と同じような礼服や喪服を着た人々がどこからともなく集い始めていた。
一様に神妙な顔をしている。重々しい雰囲気だ。
事故現場はすっかり整備され様変わりしていた。
この景色からあの日のことを思い出そうとしても、重なるべくもない。
事故現場から東側の通りには人の2倍ほどの背丈の塔が見えた。
そこには献花台があり、多くの花が手向けられていて、その前にはコンクリートの道と周囲の隙間を埋める白の玉石、さらにその外には芝生が植えられている。
次から次へと礼服・喪服を着た人々が列を成し花を添えて行く。
誰が見ている訳でもなかったが、直人は自分が手ぶらなことを恥じた。
その時、「直人!」と突然名前を呼ばれた。
その声が母であることをすぐに察し振り向くと、その両手には花束が大事そうに抱えられていた。
「ああ」と直人は小さく手を挙げた。
母とは一週間前礼服を取りに行った時に顔を合わせている。
挨拶もそこそこに、直人は母の横にピッタリと付いた。
ホッと息を吐く。
花を添える時、母は瞑目し手を合わせた。直人もそれに倣った。
献花を終えると、白い建物へと通された。
そこは、事故で亡くなった人々のための追悼施設である。
中には数十脚の椅子とその前に白い布が掛けられた平台がある。
そこにも無数のお花が供えられていた。
母はそこにも献花した。母の動作は淀みがない。
事故があった年から毎年同じことを繰り返して来たのだろう。
ただ、母から事故の話を持ち掛けて来ることはなかった。
それなのに母は毎年こうして献花に訪れている。どうしてだろうか?
直人はこれまでうやむやにして来たそんな疑問を初めて自覚した。
周囲には年配の男性が目立つ。
女性もいるが圧倒的にいる男性の中に埋もれているという感じだ。
20(慰霊祭にて)
それから少ししてセレモニーが始まった。
女性司会者の進行により、JR西日本の社長やその他遺族代表の男性などが献花平台の横のマイクスタンドで挨拶を行った。
直人は余り落ち着かない気分で俯き加減で座っていた。
ただ、遺影がないことは救いだった。
現場の状況が様変わりしている分、あの日のことを思い出させるものと言えば、あの日に出会った人間の顔だと思うからだ。
あの日、直人が電車内で会った人間は、恋心を抱いていた甲南女学園のあの女子高生と事故時に会話を交わしたやや年配のあの男性。
二人共名前も正確な年齢も分からない。
何も知らない二人なのに、今も二人のイメージはくっきりとした輪郭を持って、時に直人に迫って来ることがある。
恐らく二人はもうこの世にはいない。
そして、直人が二人の死に大きく関わったことは否めない。
今自分がここにいることがどれほどの供養になるのかは分からない。
しかし、せめて一度でもこうしてこの場に立たなければ、直人は次に進めない気がしていた。
ここを避けている間は、常に得体の知れない憂鬱に苛まれると予感していたから・・・。
挨拶に立つ人に正直興味はなかった。
JRの社長であろうと遺族であろうと、知らない人ばかりだからだ。
だから、ほとんど彼らの顔は見ていなかった。
母は横でじっと手を膝の上に置いて前を見ている。
その行為に母は一切の疑問を感じていないかのようだ。
そして、直人の本音は、こんなもんか、というものだった。
これまで4年の間避け続けていたことが無意味なことのように思えた。
ただ、手持ち無沙汰と堅苦しさで直人は相変わらず落ち着かなかった。
ここにこうしていたところで、何も変わらない気がした。。
直人は時折周囲を見回した。
すると、進行の女性の言葉が突然神経に引っ掛かった。
「○○様、ありがとうございました。
では、次は遺族の会の女性代表としてお越し頂きました、寺川冴様です。
寺川様は当時40歳でいらした旦那様の寺川涼様をこの事故で亡くされ、妹様も大怪我をされました。
それ以来、旦那様の理容店を義理のお姉様とお二人で切り盛りされて来ました。
今日は、お忙しい中をお越し頂きました。
それではどうぞ宜しくお願い致します」
直人は思考と集中をフル稼働した。目を凝らす。
すると、前方右横には確かにあの寺川冴が立っていた。
喪服姿で髪型をコンサバ風にまとめたいつもより地味目の彼女がそこにはいる。
彼女はマイクスタンド前で一礼し、会場を軽く一様に視線を走らせた。
その時、その視線が明らかに直人の所で止まった。
直人はその瞬間、瞳から脳髄を矢で射抜かれたような衝撃を受けていた。
その時、彼女の表情が一瞬緩んだ気がした。
21(慰霊祭にて2)
彼女は落ち着いていた。
話の内容は直人の記憶に余り入って来なかったが、なぜか彼女の思いはひしひしと伝わって来た。
それは会場の誰もがそう感じていたようで、彼女が最後に一礼した時、誰かが手を叩いた。
それは明らかに場違いだった。
しかし、その気持ちが直人にも理解出来た。
涙を流している人が何人もいた。
ただ一つ感じたことは、彼女は今も亡くなった夫を深く愛しているということだった。
(彼女の旦那さんがあの事故で亡くなっていたなんて・・・)
その奇異な縁に直人は人の世の不思議を想った。
セレモニーが終了すると人々の緊張が一気に緩んだ。
「あんた今日は家に帰るんか? 礼服も預かっとかなアカンしな」
と言う母の声に生返事をしながら、黒い服の中に同化して見失った寺川冴の姿を直人は探していた。
「内川さん!」
慰霊施設を出ようとした時、横を見ると彼女がすぐそこに居た。心臓が飛び跳ねる。
「あ、こ、こんにちは」
と詰まった息を辛うじて吐き出すように直人は答えた。
彼女と彼女の義姉。そして直人と直人の母は互いに簡単な自己紹介をした。
「まさか、こんなことがあるなんて、世の中って広いようで狭いわね。
まさか息子が巻き込まれた事故に・・・なんて言って良いのか分からないけど」
母は躊躇うような口調だった。
それはそうだ。
自分の息子は助かり、寺川冴の夫は亡くなったのだ。このとてつもなく大きな差について、母に言えることは皆無・・・。
「そのお写真立てはお亡くなりになった旦那様?」
先ほどから直人も気付いていた。
寺川冴の手に握られている小さな四角いケース。
「あ、そうなんです。
この写真が一番のお気に入りで、現像していつも携帯してるんです。
ロケットペンダントだと小さくなり過ぎてしまうので、この状態でバッグなんかにいつも入れてるんですよ」
そう言うと、彼女は手の平大のケースを仰向けに直人達に見せた。
そこにはお店で見た彼の姿とはまた一際違った姿があった。
スキーに行った時の写真だろうか。
ゴーグルを額上に上げて照れ笑いのような表情を浮かべている。
既にこの世にはいない筈の彼の笑顔はしかし、直人の心に強い印象となって迫って来た。
彼女の心を奪って離さない彼への嫉妬心だろうか、それとも羨望だろうか。
どこか寂しそうな笑みを湛えている彼女の顔を、直人は黙って盗み見ていた。
それから少しして、
「じゃあ、私達はこれで。また宜しくお願いします」
と母と直人に軽く頭を下げ、彼女達は去って行った。
「凄く綺麗なお嬢さんね。まだ学生でも通りそう。
あんなにお若いのにもう未亡人なんてお気の毒に・・・」
イマドキの母親にしてはやや古風な考えを持つ母には、再婚という選択肢はいささかハードルの高い道なのだろう。
しかし、今風で言えば、バツが一つ付いてもいわゆるありがちなことでしかない。
ましてや、彼女の場合は不可抗力であり、子供もいない。
その気さえあれば彼女が再婚することは容易に違いない。
ただ、世間がどうであれ、今の彼女の心には亡き夫が深く根差している。
高島元一もきっとそのことを言っていたのだ。
22(浅木)
その日は一旦実家に戻り、そのままアパートにとんぼ返りした。
理容店をそれとなく覗きに行ってみると、既に営業していた。
無論、彼女に声を掛けてはいない。
夕飯は、実家から帰る途中コンビニで買っておいた398円のシャケ弁当をちゃぶ台に広げた。
実家の物置から持って来ておいた、デジタル放送用チューナーを取り付けた15インチのブラウン管テレビを見ながら、直人の意識の片隅では彼女の喪服姿とその亡夫の写真がチカチカと去来していた。
夜八時過ぎ、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「こんな夜に誰やろ? まさか売り込みか? ましてや強盗って訳でもあるまいに」
独りブツブツ言いながら、直人はドアを開けた。
「よお、内川君。今日の授業のノート持って来たったで。ほれ!」
ポンとノートのコピーを直人に渡すと、浅木はズカズカと部屋に入って来た。
直人は追い返す訳にも行かずなすがままにしていた。
なぜか意外にも嫌な気はしなかった。
寺川冴の亡夫のことで、気晴らしをしたかったからかもしれない。
浅木は持参していたアルコール類を次々に空けて行った。
夕食も摂っていなかったらしく、大してアテも無かった分、酔いは早かった。
「お前、彼女。ほれ、散髪屋の寺川嬢やけどな。
あの娘は止めといた方がエエぞ。ガードが半端なくお堅い。
俺も最初から覚悟してたんやが、あれほどとはなあ。
お前には、以前に逆のこと言うて諦めさせようとしたけどなあ・・。
ま、あれは悪かった。
男と女のことや。きっとお前は俺に不信感持ったかもしれんけど、それが一人の女を取り合う男同士のカケヒキ言うもんやからな。
でも、今回は違う。そのまた逆の意味で本心からの俺の言葉や。
彼女の心には他でもない亡夫への強い思いがある。
それは半端なことではないぞ。
こっちに向けさせることはまず不可能や。
俺にはそんな暇はない。
何年掛かるか分からんことになあ、時間が費やせるほど余裕はないんや。
それはお前も同じやろ?!
学生にはたっぷり時間があるようでいてそれほど余裕のある時間はない。
大学の勉強ぐらいはどうってことないけどな。
しかしなあ、今やっとかなアカンことは山ほどあるんや。
目には見えへんけど、経験を積んで自分なりの特性・特質を知って伸ばす。
将来、自分が自立し家族を食わせ、なおかつ悔いなく仕事を全うするには、今、この時の努力が重要になる筈なんや。
恋愛は経験の中の一つに過ぎん。恋愛を学生生活の全てにする訳には、いかん・・・」
浅木は直人の話になど全く興味はないという体で、それからも何か話し続けていたが、そのまま寝てしまった。
23(フラッシュバック)
「ホントによく分からん奴だな。真面目なのか不真面目なのか・・・」
直人は適当な薄布をその上に掛けてやり、自分は空になったビールの缶や酎ハイの缶をゴミ袋に入れて行った。
少し気が紛れた直人は、ボーっとテレビに目を向けた。
それは救命救急をテーマにしたドラマだった。
震災が起きたという設定で、道を歩いていた救命救急医が建物内で重症を負った人の救助に当たるという場面だった。
救命医が必死に患者に呼び掛けながら応急処置を施して行く。
その時、何かが直人の意識を打った。それは突然だった。
意識も朦朧に横たわるテレビの中の無名の役者の顔が、あの日見た男性の顔に重なった。
あの列車事故の時に、直人に話し掛け、そのうちに死に絶えて行ったあの男性の顔だ。
目を瞑って耐えていた直人は、救急隊に救助される時、瞬間的にあの男性を見ていた。
彼は人形のように成すがままの不自然な動き方をしていた。
表情は微動だにせず深い眠りに落ちているかのようだった。
今、その時の彼が突然ハッキリと記憶の真ん中に上って来たのだ。
そして、異変はそれだけに止まらなかった。
その顔に直人は見覚えがあった。
それは今日見た寺川冴の亡夫。写真ケースの中の寺川涼に重なったのだ。
直人は何度もそのイメージを打ち消そうとした。
しかし、考えれば考えるほどに、そのイメージに齟齬は見当たらない。
お店で見た写真の彼でさえ、よくよく思い返してみると、直人の知っていたあの男性に一致するのだった。
直人は急いでテレビを消した。
いつの間にか息が荒くなっていた。
必死で酸素を吸い込もうとするが思うように行かず、終いには眩暈を催し直人は身悶えした。
両手で顔を覆い目が押し潰れるほどに瞑り体を床に突っ伏した。
(何てことだ・・・あの男性が、まさか、そんな・・嘘だ。これは何かの間違いだ。
あ、そうだ。あの男性は実は死んでいない。
まだこの世に生きて普通に暮らしているに違いない。そうだ。そうに決まってる)
直人は目に付いたテーブルの缶酎ハイを一気に飲み干した。
それ以外にも飲みかけの焼酎がある。
度数が高く、直人は一切手を付けていなかったが、それを瓶ごと一気に飲み込んだ。
思っていたより飲みやすく、直人はそれを全て飲み干した。
「おお、内田もなかなかやるなあ。へへへ」目を覚まし、ヒョッコリと頭をもたげた浅木がだらしない笑みを浮かべて直人を見ていた。
24(フラッシュバック2)
「お前もヤケ酒か?
俺は昨日鮮やかにフラれちまったからなあ、あの寺川冴に。
ふと思い付いたぜ。あの女への仕返しをよ。
死んだ旦那のことなんかで俺を振りやがって。
ぜってえ後悔させてやる」
浅木の眼はすわっていた。
異様な光りを宿している。悪酔いに違いなかった。
酔いが醒めれば思い直すだろうことも頭の片隅で直人は知っていた。
しかし、直人は我慢出来ずに怒鳴った。
「――じゃかあしい!! お前、あの人に何かしてみろ。
その目ん玉くり抜いて、2度とこの世を自由に歩けなくしてやるからな!!」
それは部屋ごと真っ2つに斬り裂くような鋭い叫び声だった。
二人の間の空気が凍り付く。
浅木は目を丸くして口をあんぐり動きをピタッと止めていた。
直人は自分の声に驚いていた。
自分が今何をしたのかということに実感が伴わず、一言呟いた。
「悪かった・・・」
何が悪いのか、本当は明瞭ではなかったが、異様な雰囲気を作ったことを詫びたのだ。
「いや。俺も悪乗りが過ぎた」
浅木はおもむろに立ちあがって言った。
「もう帰るわ。明日は学校、来るんか?」
「あ、ああ、多分」
直人は何か弁解を考えていたが、結局何も思い付かなかった。
「じゃあな。また明日。飲み過ぎんなよ」
浅木はそれだけ言うと、背中を丸めて部屋を出て行った。
直人は引き留めたかったが、結局言葉が喉を通らなかった。
水を打ったような静けさだけが後に残っていた。
直人はその場で打ちひしがれたようになり、
出来ることは缶酎ハイを一口喉に送ることだけだった。
25(フラッシュバック3)
先週の慰霊式以来、直人は殆ど部屋から出ていなかった。
ただ、外に出ることが出来ず、かと言って熟睡も出来ず、
悶々とすることしか出来なかった。
部屋の電気も、コンビニに食糧を調達する時でさえ点けっ放しだった。
いつ睡眠に入っているのか自分でも定かではなく、
常に寝不足な心身の重さがとにかく気持ち悪かった。
そしてこの間、浅木や学校の知り合いからも親でさえ直人に連絡してこなかった。
それは計ったようにピタッと止んでいた。
この一週間ほどの間に直人は何度も理容テラカワの店先が見える所に立っていた。
時折、店先を掃除する彼女の姿を目撃した。
その時、直人の心は潰れそうで苦しかった。
彼女の夫に致命傷を負わせたのが自分であることを知れば、
彼女はどう思うだろうか?
きっと許さないに違いなかった。
もしも、あの時、あそこに自分がいなければ、彼女の夫は助かったかもしれないのだ。
いや、寧ろ今頃、あの理容店を仲睦まじく切り盛りしていたに違いないのだ。
しかし、直人はその都度何も出来ず、アスファルトにめり込んだ様な重い足を引き摺ってアパートに戻るのだった。
26(フラッシュバック4)
その日の夕方。
窓外には暮色のオレンジ色が、締め切られたカーテンの隙間を縫って差し込んでいた。
直人はただ、茫漠とした無限の闇を見詰めるように、
部屋の一点を見詰めていた。
テーブルや床の至る所には食事後のゴミ類が散らばっている。
ただ、慰霊式のあの日以来アルコールは飲まなかった。
アルコールはその一瞬何もかも忘れたように意識を消失させるが、
その後の気分が実に最悪なのだ。
寝覚めが悪く、逆にあの日の記憶が悪い形で立ち現われるのだ。
寺川涼が死から目覚め、直人を責め立てる夢や
寺川冴やその義姉がなぜあの日あそこにいたのだと詰る夢を見るのだ。
そのイメージはそれ以来直人を容易には解放しなかった。
そのため、それから三日間はまともに食事も出来ず
外に出ることも出来なかった。
丸一週間が過ぎたこの日、やっとのことで直人は明日から学校に行ってみようと思い始めていた。
――コンコン。コンコン。
「内田君、おるか?」その声は浅木だった。
今初めて意識を取り戻したように、意識が現実へと引き戻されて行く。
コンコン。再びドアを叩く音が聞こえ、彼の声が聞こえて来た。
「おい。内田く~ん? 大丈夫か、おい」
のっそりと直人は立ち上がり、ゆっくりとドアを開ける。
「・・・・・」浅木は直人を見て唾を飲み込んだ。
彼は声を失ってるようだった。
直人はその表情を見据えながらただ黙っていた。
「お前・・・その顔・・・」そう言って直人の顔を指差す。
27(沈潜)
「それに、何やこの匂い・・・凄い異臭がするぞ」と鼻をつまみ顔をしかめている。
「取り敢えず、ほれ、これ。一週間分のノートのコピー。
出席票も出来る範囲で出してあるから・・・。
大学には・・その分やと無理か? 取り敢えず、その顔一回見てみろ。
エグい状態やから。ほな、出来るだけ早く学校来いよ」
「今日って何曜日?」直人はもつれ気味の言葉で訊ねた。
「金曜日や。とにかく、しっかりせえよ。ほな、来週な」
それだけ言うと、再び鼻をつまみ顔をしかめて去って行った。
浅木が去ると、しばらく直人は渡されたコピー用紙を持ったまま立ち尽くしていた。
それから次第に(俺の顔ってそんなに変なのか?)と思い始めた。
急いで共用トイレに向かう。
足元がふわふわしてやや覚束ない。
それから洗面鏡に自分の顔を映してみた。
落ち窪んだ目。黒ずんだ目の周り。こけてひす張った頬骨と頬。
伸び放題のひげ。乱れてべとついた髪。
それは本来の自分の顔どころではない。
既に人間の顔としての態をなしていない。
直人はそれが自分の顔であるという認識に至るまでにしばらくかかった。
「うん? どうした、学生さん。お久し振り」
隣りに住む50前後と思しきサラリーマン風の男が洗面鏡越しに直人に声を掛けた。
しかし、直人の顔を見た途端急に表情を強張らせ、
「風呂風呂、風呂は楽しいなあ~」などと言いながら去って行った。
(風呂? そうか、風呂に入らなければ・・いや、腹も減ったな・・・)
そう思い始めると、今度は急に喉が渇き始めた。
直人は急いで洗面台の蛇口に口ごと持って行き、水を飲み始めた。
それから顔や頭を乱雑に洗い始めた。すると、
28(隣人)
「学生さん。ほれ、これ」
と言って、先ほど去って行った隣室の男が手を差し出した。
その手にはお握りが2つ握られている。
直人は顔中が水で滴るのも構わずに振り向き、男の顔を見た。
彼は無言で手をヒョイと直人に少し持ち上げ、やるよ、という顔をした。
直人は何かにとり憑かれたようにそれを引っ手繰るように取ると、
その場で無心に食べ始めた。
2つのお握りはあっと言う間になくなった。
男の姿は既に見えなくなっていた。
それから直人はすぐに部屋に戻り着替えを持ち、
アパートの風呂ではなく銭湯に向かった。
アパートの風呂は無料だが事前に申し込まなくてはならないのだ。
うろ覚えだったが何とか銭湯を探し当てた。
銭湯で直人は頭から丹念に洗い、髭を剃り、
茹で上がるほど熱い湯に長い時間浸かった。
その間、不思議と直人は何も考えなかった。
ただ、汚れと共に何かが少しずつ溶けて行き、整い始めているのを感じていた。
アパートに戻ると、直人は部屋の掃除を始めた。
一週間で溜まりに溜まったゴミと埃を全て取り除いて行く。
そして、全てがスッキリとした時、直人の中で何かが変わっていた。
夜も更け、10時を回っていたが、
直人は隣りの男にお礼を言うため、買い置きしていたピーナッツとアサヒ缶ビールの缶が入った袋を持ってドアの前に立っていた。
ドアの名札には小さく西沢とある。
直人はノックした。
すると、間もなく「ハイ」と言う低音のややくぐもった声がした。
少ししてドアが開く。先ほどの男が顔を現した。
「ほう、お隣りの学生さん。どうしたの?」
無表情な顔で男は訊ねた。
声のトーンには微妙に安堵の匂いが嗅ぎ取れた。
切れ長の眼と七三分けが妙にマッチしている。
29(鬱屈)
「あの、先ほどはありがとうございました。
お礼と言うほどのものではないのですが、これを・・・」
そう言うと、用意しておいた袋を差し出す。
「これはこれは別に良かったのに・・・」
その言葉とは裏腹に西沢はサッと袋を取った。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」西沢がドアを閉めるのを確かめると、直人も踵を返す。
「ああ、内田君」その時突然西沢の声がした。
直人はいきなり苗字を呼ばれてドキッとした。
直人が振り返ると、西沢がドアを開けて顔だけニョキッと出している。
「はい・・・」やや緊張して直人は彼を見る。
「若いのに溜め込むのは余り良くありませんよ。
若いうちは思いっ切り出すモノは出さないと、ね!
じゃ、おやすみ・・・」そう言うと一方的にドアを閉めた。
(変わった人だなあ・・・)と思わず声に出しそうになる。
部屋に戻ると、再び直人は静謐に包まれた。
「出すモノは全部出さないとって、何言ってるんだか・・・」
そう呟いた後、直人の脳裏と下半身に何やらモヤモヤした感触が湧き立った。
直人は急いで床にゴミと一緒に埋もれていたパソコンを引っ張り出しテーブルに置いた。
起動させインターネットに繋ぎ、
お気に入り欄に溜めてあったエッチサイトにアクセスする。
動画画面のスタートボタンを押す。
「あ~、あ~~・・・」という卑猥な音声が
大ボリュームで流れ始め、慌ててボリュームを下げる。
直人は動画に食い入り股間に手を伸ばした。
一週間溜め込んでいた分、一度目に果てるのにそうは掛からなかった。
そんな行為を三度繰り返した辺りで直人は落ち着きを取り戻し始めた。
冷蔵庫のスポーツドリンクをコップに注いで一気に喉奥に送る。
次第に冷静な思考が地を踏み締め始める。
その時、フッと瞼に広がったのは寺川冴の顔だった。
30(逡巡)
理容テラカワの前に直人は立っていた。
すでにシャッターは閉まっている。
路地には窓の明かりが仄かに落ちており、二人がいることは明らかだった。
小さなインターホンに手を伸ばし押そうと何度もしたが、
どうしても出来ないでいた。
時折、道行く人の影が通り過ぎる度、
直人はお店から逃げるようにして建物の角に身を潜めた。
街灯の間を埋め尽くす闇は、今の直人には地獄一丁目への入り口のように思えた。
何度そんなことを繰り返しただろう。
脚が棒になり肩の強張りで首に痛みが走る。
靴とアスファルトの擦れる感触が感情に触れて妙にマッチしていた。
虫の声が時折雑草の陰から闇を照らす。
胸の内に溜まり切ったもの、真実のことを彼女に伝えなければ・・・。
しかし、この手がどうしてもインターフォンのボタンを押すことが出来ない。
「ハハ・・ホントに俺って奴は自分のことがカワイイんだな・・・」
笑いたくもないのになぜか直人は笑っていた。
直人は諦めて闇の道を歩き始めた。
しばらく歩いていると、コンビニの光が直人の目に飛び込んで来た。
溜息を吐いて入って行く。
雑誌や書籍を適当に手に取り流し読みして行く。
しかし、どれを手に取ってもピンと来るものはなかった。
食品類の各棚を見回すがこれといって欲しいものはない。
そして、雑貨類の棚に来た時直人の眼に筆記用具類が目に入った。
一旦そこから目をスルーし通り過ぎようとしたが何かが引っ掛かる。
何が引っ掛かるのか?
――数分後。
直人は走ってアパートに戻っていた。
手にはコンビニで調達した便箋の入ったレジ袋が握られている。
額と背中には汗が滲んでいた。
急いでちゃぶ台に便箋を置き、ボールペンを手に取る。
その時、パソコンが目に入る。
「別にパソコンでも良かったかな・・・」と独り呟く。
「いや、これで良い。今はこれでいいんだ。俺は直筆で手紙を書きたいんだ!」
直人は生まれて初めて手紙を書き始めた――。
31(想い)
土曜日の朝8時前。寺川冴は店先に出て来た。
郵便受けを一瞥(いちべつ=チラッと見る)して
新聞が入っていることを確認し、
打ち水と植木への水やりを兼ねてホースで水を撒いて行く。
――おはよう。おはようございます。いってらっしゃーい。
いつものように学生やサラリーマン、主婦など顔見知りが主だが、
知らない人にも声を掛けて行く。
時には無視されることもあるが、大方の人がそれに応じてくれる。
最初の頃は恥ずかしさで声は小さく萎み、殆ど無視されていたものである。
いや、無視されていたというよりも
ハッキリと聞き取れなかったり伝わっていなかったと言うべきだろう。
そのことは自分でも分かっていたから、冴は声を出せるように意識し続けた。
どうして冴が声掛けを始めたのか?
それは、亡くなった夫の代わりにお店をしようと決心してからも
気持ちの落ち込みが止められず、まともな接客が出来ていないことを
義姉や元一から指摘され、悩んだ末に声掛けをすることで
気持ちを吹っ切って行こうと考えたからである。
そして、昨年辺りから努力の甲斐あって次第に声が出始め、
それに伴い応じてくれる人も増え、気持ちも少しずつ上向きになって行った。
しかし、それでも、時々気分が落ち込むことはある。
そういう時はあるがままにその気持ちを受け止めるしかなかった。
植木への水やりと打ち水を終え、郵便受けの新聞を取ろうと
新聞の端を引っ張る。
すると、何かが足元に落ちた。
拾い上げてみると、それは白い封筒だった。
表には寺川冴様とあり、裏の隅には内田直人とある。
32(手紙)
「あら、内田さん? どうしたんだろ?」
ふとラブレターでは? という考えがかすめた。
しかし、最近の若者がラブレターというのは合わない気がした。
今の若者が告白するツールはメールやラインである。
いささか不思議な気分に捉われながら、冴はその封筒を居間の引き出しにしまった。
「何、それ?」と義姉に聞かれたが、
「ううん、何でもない」と余り気にも留めなかった。
次の日の夜。
ホッと息を吐いて、冴と義姉はビールで乾杯した。
「今週は連休やから、ゆっくり出来るわね。どこか行く?」
義姉は冷えた缶ビールをグイッと喉に送り込んで言った。
「う~ん、夏開きしたっけかな?」
冴も一口飲み送った後訊き返す。
「まだじゃない? あれって7月やなかったっけ?」
「ふ~ん、そっか・・・」
「あっ、それはそうと、引き出しに封筒あったけど。
あれってあの内田さんよね? もしかして、ラブレターだったりして」
悪戯っぽく頬を赤らめた義姉が冴を見た。
「ああ、そっか、忘れてた。いやねえ、義姉さんったら。
イマドキ手紙で愛の告白なんて時代遅れなんだから」
そう言って冴は居間に行き、タンスの引き出しの中の封筒を取り出した。
封のしていない封筒は直接彼が郵便受けに入れたことを意味している。
居間の座布団の上に座り、冴は少し緊張して中を見た。
そこには何枚かの便箋が入っていた。
取り出して見ると、4枚の便箋に
綺麗とは言い難いが一字一句が丁寧に書かれた文字がぎっしりと並んでいた。
33(懺悔)
『突然のお手紙を差し上げるご無礼をお許しください。
私はあなた様に言わなければならないことがあります。
それはあの列車事故のことです。
私はあの事故の生き残りです。
そのことは先日慰霊式でお伝えした通りです。
私が乗っていたのは第2車両でした。
そして、多くの方が亡くなられました。
ご主人様もその中に含まれていました。
そうです、私は寺川様のご主人様と同じ車両に乗り合わせていたのです。
あの日、私は寝坊しました。
寝坊したことで偶然あの車両に乗り合わせたのです。
その結果、私はとんでもないことをしでかしました。
しでかした? いえ、それは偶然の成り行きでそうなったのですが、
しかし、もし私があの日寝坊さえしなければ、
事態は大きく違っていたのではないかと思います。
あの日、私は2人の人の人生を大きく狂わせてしまいました。
1人は、あの頃恋をしていたとある女子学生でした。
私は見ず知らずのその女子学生に、
恋をしていたというただそんな自分勝手な理由のために
恥ずかしげもなく声を掛けました。
しかも、寝坊した自分と偶然出くわした彼女のことを運命なのでは、
などと有頂天になっていたのです。
そして、そのことが彼女の運命を狂わせてしまいました。
もう一人の方は、いえ、狂わせたと言う生易しいものではありません。
私が殺したも同然でした。
事故があった時、私はしばらく意識を失っていました。
目を覚ました時、私の体は多数の人に四方八方から挟まれ
息も出来ないほどでした。
あの時、私に話し掛けて来た男性がいました。
それがあなた様のご主人様でした。
今もあの日の光景は昨日のことのように思い出せます。
いえ、あの日以来毎日のように思い出されます。
目を閉じると、暗闇に身を投じると、決まってあの時の光景が
まざまざと蘇って来ます。
ご主人様は苦しい中、私に声を掛けて下さいました。
周囲では苦しそうな呻き声があちらこちから聞こえて来ました。
「苦しい」「助けて」阿鼻叫喚の地獄でした。
その時、「君、大丈夫か?」と声を掛けて下さったのが、
ご主人様でした。
「がんばれよ。きっともうすぐ助けが来ると思うから」
とご自身は苦しそうにしながらも私を励まして下さいました。
「瑞希ちゃんは大丈夫だったかな?」
確か、そう仰いました。
きっと彼女か肉親の方のことかとあの時は思いました。
そして、ご主人様はあの列車事故の状況をほぼ正確に把握されていました。
大きなニュースになっているだろう。
死者もいるだろう、と。
私はそのことで少し気が紛れていたのですが、
ふと気付いたのです。
私が自分自身を無意識にガードしようとして体を丸く
腕を前に小さく団子のようにしていたことで、
図らずもご主人様の胸元から腹部を強く圧迫してしまっていたのです。
私の腕はご主人様の骨を砕き内臓を突き破っていたのです。
その感触が今も腕だけではなく私の体中に残っています。
そうです、ご主人様に致命傷を与えてしまったのは、
紛れもなく私でした。
私は自分が助け出される時、ご主人様を見ました。
眠ったように動かないご主人様を見て
私は絶望的な気持ちになりました。
そして、私はとんでもない考えを巡らせていました。
私があなた様のご主人様に致命傷を与えてしまったことが
バレやしないだろうか?
そんなことを考えていたのです。
私はこの時から常に自分のしたことの重大さから逃げようと必死でした。
しかし、苦しみは益々強くなるばかりでした。
そんな時、事故後初めて慰霊式に出た先日、
寺川様が持っておられた写真によってあの日の男性とご主人様が
同一人物であることが判明しました。
何という運命のいたずらでしょうか。
やはり神様は私の過ちを見逃しはしませんでした。
私は、あなた様に告白しなければならないと思いました。
そのような運命だったのです。
あなた様のご主人様とあなた様の人生。
その他の御身内の方々の人生。
私は皆々様の人生にどう償えば良いか分かりません。
ただ、全てを告白することが今の私に出来る全てだと思いました。
もし、ほんの少しでも許される方法があるのなら、
全人生を掛けてその道を行こうと思います。
例え許されなくとも、私が出来ることはどんなことも
厭わないつもりです。
突然、このようなお手紙を差し上げたことで、
きっと混乱されるでしょう。
そして、私への憎しみをお持ちになられるに違いありません。
今更、なんだと思われることでしょう。
本当に何と言えば良いのか、何をどう償えば良いのか、
途方に暮れています。
私はどのような責めをも受け入れるつもりです。
私はどうすれば良いでしょうか?』
ここで手紙は終わっていた。
しばらくその手紙を眺めながら、冴は呆然としていた。
34(返信)
「ねえ、何だって? やっぱりラブレターだったの?」
義姉がキッチンから声を掛けて来た。
「え? うーん・・・。これ、義姉さんも読んでみて」
「うん? どれどれ。ラブレターじゃないとしたら、何かしらねえ」
義姉が冴から手紙を受け取り読み始める。
冴は一旦キッチンから缶ビールを取りに行き、仏壇の前で座った。
缶のプルトップを開け、仏壇に供える。
そして、静かに掌を合わせ眼を閉じた。
月曜日の朝。
直人は顔を洗いに共用洗面所に行こうと部屋のドアを開けた。
すると、ドアの足元に何かがポトリと落ちた。
何だろうと思い、直人はそれを拾うと、それは白い封筒だった。
表には内田直人様とあり、裏には寺川冴とある。
直人の胸がズキッと痛んだ。
しばらくの間、直人はちゃぶ台の上に封筒を置いたまま身動きしなかった。
中身を見るためには相当な勇気が必要だった。
こんなにも早く反応が返って来るとは思ってもみなかった。
封はされているが直にドアに差し込んだのだろうと思われた。
しかし、どうやってこの場所を知ったのか?
恐らく浅木辺りにメールなどで聞いたのかもしれない。
直人は立ち上がりカーテンをいっぱいいっぱいに広げ、窓を開けた。
朝の新鮮な空気が初夏の熱気と朝日と共に顔を覆う。
深呼吸をし瞑目した。
蝉の声が空気を震わせている。
早く読めよと急かされているようだ。
直人は振り返り、ちゃぶ台に眼を落す。
直人は再びちゃぶ台に戻り封筒の前で正座した。
集中力を総動員し封筒を手に取る。
封を手バサミで開けて中を見る。
取り出すと3通の便箋が入っていた。
その量から、やはり相当恨まれているのだろうと思った。
直人は覚悟を決めて文字を追い始めた。
最終回(二度目の初恋)
『 前略
お手紙拝読致しました。
そして、あなたのこれまでの苦悩も事情も大体のことは
私なりに理解出来たと思っております。
その上で申し上げたいことがあります。
まず一つ目。
あなたが恋していた女子学生は恐らく私の妹です。
そして彼女は幸運にも命拾いし、現在も生きています。
ただ、あの事故で右脚が不自由になりました。
そして、事故のショックで当初列車に乗れなくなり、
高校を伊丹市の高校に編入致しました。
今は放送大学に入学し、臨床心理士を目指しております。
二つ目。
夫の死因は内臓破裂ではありません。
死因は脳内出血です。
同時に頸椎を損傷していましたので、
仮に命が助かってもかなりの麻痺が残ったと思われます。
従って、夫の死の原因はあなたではありません。
三つ目。
妹はあの事故の時、一度も意識を失っていませんでした。
その彼女が言っていたのは、夫と、
そしてあなたが妹を助けようと盾になってくれた
と言っていました。
夫は亡くなりましたが、あなたのことは何とか探し出し
一言お礼だけでも言いたいと思っておりました。
しかし、探し出す当ても手立てもなく
今日に至ったという経緯があります。
つまり、あなたは妹の命の恩人なのです。
妹が言うには、あの日夫は妹とあなた二人を
同時に守ろうとしたらしいのです。
その結果、その二人が生き残った。それは夫の望むところだったのです。
あの頃、妹は夫に私が奪われたと思い
夫のことを嫌っていました。
あの日の前日、夫は私の代わりに体調を崩していた母の看病に
伊丹に帰ってくれていました。
私は月曜日に理容の講習があったのでその代りです。
あの日、妹は体調不良で家を出るのがいつもより遅くなりました。
妹は夫のいる家にいたくなくて無理に家を出ました。
彼女が家を出てから夫が妹の忘れ物に気付きました。
それで急いで追い掛けたようです。
妹はそのことに気付かずに列車に乗り込みました。
それを目にした夫もギリギリ車両に乗り込みました。
車両の中で夫は妹に声を掛けようとしましたが、
その時にあなたが現れ妹に話し掛けました。
夫はそれを見て妹の彼氏か何かだと思ったようで、遠慮しました。
妹はそのことを知っていました。
知っていて、敢えて夫には目もくれませんでした。
夫はいち早く列車の異変に気付きました。
列車が脱線した時、夫は必死の形相で妹に近付いて来たと言います。
その後のことは先ほど申し上げた通りです。
妹は深く悩みました。
夫を死なせたのは自分だと思ったのです。
そして、あなたのことも自分のせいで死なせてしまったと
思い込んでいました。
しかし、あなたは生きていた。
しかも、お客様としてあなたは現れました。
確かに、それは運命としか言いようがありません。
それはしかし、あなたに罪を償わせる神様の仕業などではなく、
妹とあなたの心を救うために夫が私達を引き合せてくれたのだと思うのです。
昨日の夜、私は早速このことを仏壇で夫に報告しました。
電話で妹にも伝えました。
妹は電話口で泣いていました。
是非、あなたに夫のお墓にご一緒願えればと思います。
そして、妹にも会って頂きたいのです。
何卒、もうご自分を責めたりせず心を解放して頂きたいのです。
義姉も同意見です。
どうか、私共の気持ちをお汲み頂きますよう宜しくお願い致します。 草々』
思いも掛けない手紙の内容だった。
心臓がドキドキと脈打っている。
窓から射す陽の光が部屋を照らしていた。
それは暗闇から出て初めて見た光のように眩しかった。
直人はすぐに便箋を封筒に仕舞い、部屋を飛び出した。
全速力で走る。
少しでも早く彼女に会いたいと思った。
この手紙の内容をこの目で、この耳で確かめたいと思った。
理容テラカワまで来ると、シャッターは半分まで下りていた。
今日は月曜日だ。理容店は休日である。
息を切らしながら直人がお店の斜め前に立ち止まっていると、
突然シャッターが上いっぱいまで上がった。
そして、顔を出したのは寺川冴だった。
彼女はすぐに直人に気付いた。
あっ――という視線が直人に投げられた。
彼女は少し躊躇いがちにどうすべきか迷っているような顔をした。
すると、その時後ろのドアが再び開いた。
俯きがちで右手に杖を突いている女性が出て来た。
俯いているがそれが誰か、直人にはすぐに分かった。
それは4年前、直人が恋をしていたあの女子高生だった。
直人が知る女性の中で最も美しい女性がそこにはいた。
寺川冴は何かを彼女に耳打ちした。
すると彼女がおもむろに顔を上げた。
それはやはり紛れもなく彼女だった。
彼女は薄らと口紅を引いているようで、
4年前より少し大人っぽく見えた。
少し痩せて顎のラインと目の感じがくっきりとした印象になっていた。
「あの、これ・・・」
直人は手に持っていた封筒を少し上に上げ、言葉を探していた。
直人は冴を、そして彼女を見た。
彼女は不自由な右脚を杖で支えながら直人の所に歩み寄り、そして言った。
「はい、全部分かってます。全部、分かってます」
そう言うと彼女は封筒だけでなく、封筒ごと直人の手を両手で包んだ。
杖がその拍子にカランと倒れた。
「ありがとう。生きていてくれて。本当に、ありがとう・・・」
その眼にはあっと言う間に涙が溢れ出し、頬を伝った。
彼女の手から熱いほどの体温が伝わって来た。
直人の視界が歪み、胸が詰まった。
急に肩から力が抜け落ちて行き、
直人は自分の手を握る彼女の手に額を付けた。
止めどもなく涙が溢れ出し、直人は膝から崩れ落ちた。
冴が静かに二人により添い、直人の背中を優しく撫でていた。
完
最後までお読み下さり、本当にありがとうございました_(._.)_
恋の神様にお会い頂けたでしょうか?(笑)
でも、少しぐらいは最後の最後にほっこりして頂けましたか?
二度目の初恋、という論理矛盾を起こしている言葉の意味を、最後の最後に分かって頂けたのではないでしょうか?!
私が思うに、心から惹かれた女性には何度も恋をしてしまいます。
それが直人のようにずっと気に掛かって離れなかった初恋の相手なら尚のこと。
初恋の女性(初恋の場合は普通少女でしょうね。あ、でも、少女は次第に女性になって行くから女性って言っても良いのかな・・・)って、間を空けて改めて好きだと思った場合、それは初恋ではなく二度目の単なる恋なんでしょうか?
それとも、同じ人をやっぱり好きだと思った場合、それは初恋の更新ということで良いのでしょうか??
ここがどうにも悩ましくて・・・(笑)初恋の更新はコンピューターなら初恋のままだけど、現実にはちょっと違う気もしますしねえ(~_~;)
ま、それはともかく、少し暗い部分もありましたが、最後には何とか恋の神様の計らいによってハッピーエンドに(^^♪
ホントに本当にありがとうございました_(._.)_
またお会いできる日を楽しみにしております(≧▽≦)