Φの悲劇 ―Kを継ぐ者―
梅雨真っ只中のある日、大学の恩師である岩間教授から連絡があり、数年ぶりに大学を訪れることになった。研究室に来てくれ、とのことだった。
雨の日に出向くのも気が引けたので、確実に晴れそうな日に行こうと思った。週間天気予報を確認し、7月5日に伺います、と返事をした。
(さて……何の要件かねぇ)
心当たりはないこともなかった。
自分の在学中、教授はよく自作のクイズを学生たちに出題していた。卒業してからもその延長でメールが来ていたりしたのだが、きっとそれが大仕掛けになったやつだ。
自分の想像はほぼあたっていた。しかし、自身の目論見があんなことで破綻することになるとは、岩間教授もその時は思っていなかっただろう。
訪問当日、予報通り晴れたのはよかったのだが異様に気温が高くなった。
卒業後も同じ市内に住み続けていたので、今の自宅から大学はそれほど遠くない。自転車で行こうと思っていたが、この炎天下を20分も漕いだら、まあ言わずもがなである。ということでバスを使うことにしたが、一旦駅に出て乗り継ぐ必要があるので少し面倒だ。せっかくなので駅前の洋菓子屋で手土産を買った。
久しぶりの大学。13時45分。教授に指定された時刻には十分間に合う。学内へ入る許可を取り、研究室のあるE棟3階へ向かう。
この大学の研究棟の形を簡単に言えば、「山」の字になっている。この南側の並びに教授たちの居室があり、縦の3本の並びにあるのが各研究室だ。
岩間研究室へは北側の入り口から入って階段を上るのが一番早い。汗をぬぐいながら建物に入る。気温は35℃に迫っていたようだが、風通しが良いので建物内は結構涼しかった。特に今日は風が強い。
研究室の扉は昔と同じく半分開いている。足を踏み入れホワイトボードを見る。メンバーの名前を書いたマグネットが貼ってある。M2の三浦とM1の平田、九嶋。B4の道須、大道、B3の成瀬。この中では三浦だけ知っている。自分がM2の時に彼はB3だった。
岩間研究室は配属される学生が毎年少ないといわれていたが、それは自分の卒業後も変わっていないようだ。一方では岩間教授自らが熱心に勧誘していると言う話もあるが、学生の少なさには教授のある嗜好が大きく影響しているのだろう。
カレンダーには、M、B、三、や○×の印。自分がいたころとやり方が変わってなければ、院生、学部生や個別のゼミの予定だ。
自分は「K」と書いていたのを思い出した。そして、今日の日付のところには「K」と書かれていた。
研究室内を見渡すと三浦の姿を見つけたので声をかける。
「三浦君久しぶり。先生いるかな」
「あ、ケイさん!お久しぶりです!……先生に呼ばれました?」
三浦はカレンダーを指さす。
「うん、研究室に来いって言われたんだけど」
「んー……今日はいらしてないですけどね……へいちゃん!先生どこか知ってる?」
「えー、知らないっすねぇ」
へいちゃんと呼ばれた学生はそう答える。
「そう……じゃあ先生の部屋に行ってみるわ」
カレンダーにちょっとした引っ掛かりを覚えつつ研究室を後にした。
岩間教授の居室へ向かう。棟の南端に向かうにつれ徐々に暑くなってくるのを感じる。
居室へは80秒ほどで到着した。
ノックしようとするとドアが少し開いている。不審に思ったがノックしてドアを開けた。
「失礼しまぁす……」
一歩足を踏み入れると息苦しいほどの暑さ。一気に汗が噴き出す。窓が締め切られているようだ。
部屋の奥にある教授のデスクには突っ伏して動かない岩間教授を見付けた。
いつの間にか薄くなってしまった頭頂部には赤黒い液体がついている。
デスクの周りには学会論文集が散らばっている。手には何も持っていない状態で倒れていたので、あるいは論文集を片づけるために立とうとしたところを襲われたのか。
(……!先生!!)
驚いて声を出したつもりが声になっていなかった。
急いで駆け寄ってみると、傍らのメモ帳には『Φ』と書かれていた。
(……ファイ……いや、ゼロ?……そんなことより救急車!)
内線電話で大学の事務室へ連絡し、救急車を呼んでもらう。
受話器を置いたところで、部屋が暑すぎるのを思い出した。閉めきってどれくらいの時間が経っていたのか。
窓を開けると、吹き込んだ風でメモや論文などが散らばってしまった。
紙類を拾い集めてデスクに戻し、手ごろなもので重しにする。
そのあとすぐに教授の呼吸を確認し、首元も触ってみる。
(なんとか大丈夫……だと思うんだけど……)
応急処置をして救急隊を待った。
彼らはほどなく到着し、案内の事務の方とともに居室へ入ってきた。
運ばれていく岩間教授に付き添う。隊員の様子を見ると大したことはなさそうだ。
今日の出来事を思い出し、考えをまとめる。
教授が目を覚ましたら何と言おうか。
「先生、無茶しましたね」
目を覚ました教授に傍らから声をかける。
「……今日は……」
「あ、無理しないでください、ケガはないですけど」
動こうとする教授を声で制する。
「熱中症で倒れたんですから」
訪問日を今日にしてしまったということで、少しは自分の責任もあるような気がしないでもない。
「とにかく、先生は声を出さなくていいです。自分が勝手にしゃべりますね」
岩間教授はほんの少しうなずくようなしぐさを見せ、まぶたを閉じる。
「えっと、先生が私を呼んだ目的ですけど、簡単な犯人あてクイズですよね」
教授が苦笑したように見える。「簡単な」というところに異議がありそうだ。
「つまり、ダイイングメッセージの『Φ』があらわすのは誰か、というクイズ」
ポケットからメモを取り出し、ひらひらと振ってみせる。教授の居室にあったものだ。
「にしても、冷房入れましょうよ」
今度は二人で苦笑する。
「冷房嫌いすぎですよ。で、いつもは窓を開けてるけど今日の仕込みのために閉めたんですね、風が強すぎてメモが飛びそうなんで」
教授は表情を緩めてうなずく。
「まあ、大したことがなさそうでよかったです」
自分も笑顔を返すと、教授は手のひらを差し出し、どうぞ、と話の先を促す。
「えーと、じゃあ。クイズの設定は、容疑者は研究室の学生たち、ですよね?そのために先生の所に行く前に研究室の様子を見せた、と思っています」
ちらりと教授の方を見たが特に異議はないようだ。
「その中で『Φ』が示すのは……」
「成瀬君、ですよね」
教授は動かない。返事がないので説明を続ける。
「研究室のホワイトボード、ちょっと違和感があったんですよね、なんで漢字が混ざってるのかなって」
教授は不思議そうな顔をする。
「あ、Ξが漢数字の『三』に見えたってことです。三浦君の印が変わったかなくらいに思ってたんですけど、あれ、九嶋君ですね。三浦君は昔と同じでM」
教授はなるほど、という顔になり、黙って聞いている。
「でもってBが平田君。もしかすると実際に『へいだ』って読む方ですかね?『へいちゃん』って呼ばれてたみたいですし。そして、まるじゃなくてOが大道君」
そこで一息つき、背筋を伸ばす。
「そして先生が熱心に勧誘したであろう、道須君。バツじゃなくてXですか。未知数だけに」
教授はそれを聞いて笑顔になる。
「そして今回のクイズのΦ、空集合の意味ですよね。英語ではempty setあるいは……null set」
「正解です」
教授の体調も少し良くなったようだ。
「……以上、終了ですね……にしても、なんで大文字です?」
少なくともギリシャ文字の場合は小文字にしていたと記憶していた。
「九嶋君、小文字のξが書けなさすぎで」
「でもMとBは……」
「あれでも小文字なんだよ」
「……ああ……」
思い出してみると、どちらもそんなだったかもしれない。
7秒ほどの沈黙。
ふと思い出したようにあらためて確認する。
「頭、大丈夫なんですよね?」
「うん、わざわざ用意したんだよ、血糊」
「気合入ってたんですね。そ……いえ」
それにしても、と言う言葉を飲み込んだ。頭髪について触れるのは失礼かな、とそのとき一瞬思ったからだ。
それに、古典的ダジャレの誘発もこの場にそぐわないような気がした。
教授はそんな思いを見透かしたように、自分から笑って話し出した。
「これね、見事にてっぺんだけ」
「え、ええ、びっくりしました」
そう言って笑う。頭に血糊で注目させていたくらいなのだ。ネタにしてもOKなのだ。そうだったんだ。
「じゃあ先生」
悪戯っぽく笑う。
「私の『K』は返上しますから先生が継いでください。γは返上ですよ」
教授も笑って頭のてっぺんをなでる。言いたいことは既に分かっているようだ。
「もちろん、小文字にしてくださいね」