(7)クリノスの矢印 前編(「クリノスの四角形」続編。短編集なのに前後編、の前編)
クリノスは、隣りの男に二割増しの笑顔を向けた。
すると隣りの男は心得顔で、自分の前の皿をクリノスの方に押し出した。
皿の上では、この食堂自慢のムチンのシチュウが、ほとんど手つかずのままでまだ湯気をあげている。
「まったく、こういうときだけずいぶんと幸せそうな顔をしますね。でもまあ、いいでしょう。あなたは最近、二と十分の三ガロほど、痩せたでしょう?」
「なんだよその、いやに正確な数字は・・・」
すでに人のシチュウまであらかた食べ終わり、残りをパンでぬぐっていたクリノスが、そう言いながら顔をしかめた。
もしも女として生まれたとしても、さぞ美しかっただろうと思える隣りの男、ザフィはクリノスのしかめっ面にさしたる反応も見せずに持論を展開する。
「僕は本来、曲線的な身体的特徴を備えた女性が好みです。しかし、現実とはかくも不思議なもの。そこがまあ、生きる醍醐味といえるのでしょうね」
返事をするのも馬鹿らしく、クリノスはコップに手をのばすとごくごくと喉をならして水を飲んだ。
にぎやかな食堂、テーブルについた精悍な容貌の二人。王都警備団の制服を身に付けた彼らの会話を誰かが聞けば、丁寧な態度の部下とぞんざいな口調の上長とが、男同士で食事をしながら仕事の話でもしているように思うだろう。
しかし実際のところ、二人は同僚。しかもザフィは男だが、クリノスの性別は、念のため女である。
「痩せるほどの悩みなら、僕に話してみてはどうですか。案外すんなり、解決するかもしれませんよ」
・・・ない、それは、ない。ザフィにしたって、そんなことは知っているはず。内心そう思いながら、クリノスは腰をあげ、うまいシチュウを供してくれた食堂のおばさんに礼を言って、一人分の飯代を支払った。
食堂を出ると、夜風が頬をかすめてとおる。
クリノスはふと、横を歩くザフィが静かなことに気がついた。その瞬間、馴染みの緊張感が背筋を這いのぼる。
「・・・どこだ」
小声で聞いたクリノスに対し、ザフィはにっこりと笑って答えを返す。
「ああ、すいません。別に怪しい者を見かけたわけではありません。実は今、僕の頭の中では手のひらサイズに縮んだあなたが、あんなことを・・・」
皆まで聞かず、くるりと身をひるがえすとクリノスは反対方向に歩きだした。
「く」
ザフィは笑いをかみ殺して、クリノスを追い始める。
「よるな、変態」
「おや、褒めてくれるんですか。それはとんだ飴とムチですね」
悔しさと奇妙な安堵がクリノスの胸を満たす。
あるかなしかの気配にザフィは早々と気づき、このわずかの間に何らかの攻防があって――存在を気取られたと知った何者かが、あきらめて攻撃を回避したのだろう――、危機はすでに去ったのだ。クリノスだけを置き去りにして。
このふざけた男に、自分は決してかなわない。
そもそも、これほどの男が自分と同じ階級にいることの方が、そして周りの皆がこの際立った能力に気づかないことの方が、おかしいのだ。
それが事実。だから悔しい。しかし、この妙な安堵感は、この憧れに似た甘っちょろい感情の源は、何なのだ。
確かめようと、自分より少し上にあるザフィの顔を見つめる。すると艶然と微笑み返されて、クリノスは思わず目をふせた。
正義の名のもと、暴力をふるうことが許されているのが、クリノスがついた職務である。ためらっていれば自分がやられるし、自分がやらなければ、もっと弱い民がやられる。
幼少時代からクリノスは、ちまちました人形遊びより、外を走り回る方を好んでいた。十人中九人までが、クリノスを男の子と間違えたし、それが別に嫌ではなかった。
さらに、周囲の男の子たちより圧倒的に易々と、喧嘩や暴力の勘所を押さえることができて――つまりは、そういった方面の才能は周囲も認めるところだった。
とはいえ、自分は他人を力で制圧することが得意だと思ってはいないし、少なくとも、決して好きではない。もちろん好きでやる人間は(それほどたくさんは)いないだろうが、見知らぬ誰かに行使した暴力は、後で必ず自分に戻ってきて、心を苛む。
こんなふうに感じる弱い自分は、この仕事に向いていないと思う。
それがなぜ、この仕事を続けてきたかと言われれば、やはり団長の存在が大きかった。その団長も、今では病身の妻のために引退してしまっている・・・
「あなたは警備団員として、充分に優秀ですよ。力をふるわれた側の痛みが分かることは、尊いこと。弱さとは違うでしょう? だからといって、たとえば医務班に異動するとして、それを逃げだなんて思う必要はありません。誰かさんの存在にかかわらず、自分で向いていると思う道を選べばいいんですよ」
また、見透かされている。
思わず顔をあげると、目に入った男の貌には思いがけずふざけた様子がなくて、どこか知らない人間のようにさえ見えた。
クリノスはそれを少し、恐い、と思った。
「それに医務班の制服は、警備団と違って男女で型が別なんです。女性用のは、こう、癒し系な感じで」
「・・・」
その制服を着たクリノスを想像するかのようなザフィは、すでにいつもどおりの彼であり。
先ほどの表情は何かの見間違いかと、ほっと小さく息を吐くと、
「うるさいよ」
「あぐっ」
とりあえずザフィの腰に蹴りを入れておくクリノスだった。
近日中に、同日のできごとで後編(クリノス、団長に失恋?/ザフィ、めずらしく焦る)をアップする予定。前編よりいくらか重めシリアスめ恋愛色濃いめの話になりそうです。
読んでくださってどうもありがとう。