(5)爪川くんとシイタケ(薄倖な微笑みの爪川くんと消費税率程度には妄想系といえなくもない「わたし」のなんてことない話、第3弾)
講堂を出ると、思いがけず鮮やかな陽射しに景色が白く飛んだ。思わず取り落としたペットボトルが転がって、少し前を歩いていた爪川くんの腕がそれを追う。
拾い上げる動作の軌跡が描いた残像の、その優雅さに息をのむ。
「はい、これ」
「ありがとう」
ペットボトルを差し出しながら、少し怪訝そうな顔をする爪川くん。
見惚れていたって言ったら、どんな顔をするんだろう。いやそんなことは言えないけども。
この爪川くん、こう見えて実はファニーな能力の持ち主なのだった。なんでも魔法使いの家系に生まれてしまい、とはいえ使える魔法は瞬間移動のみ。少なくとも今のところは。
実はわたしにも、左の手のひらに「爪」、右に「川」、の手相が刻まれるという微妙な事態が起こっているが、それもこれも、その能力に関するものらしい。
そんな爪川くんと、こうして一緒に歩いたりするようになって――でへへへへ――まだ日が浅い。
一カ月を日が浅い、というかどうかは意見の別れるところであろうが、まあわたしの実感として、浅いといったら浅いのだった。
「・・・と、思う?」
「え? ああうん、思う、思う」
「やっぱり? 政体論的な意味でなく、こう一方的につけるっていうのは、民主主義の規範に反するよね」
「政体論的? ああうん、そう、そう」
こういうの、切れ長の目っていうんだろう。
とつとつとことばを綴る爪川くんの目はただ今、少し憂い加減。瞬きをした一瞬後の瞳が閃くように光を返した。
ことばはするすると耳を通過して、わたしは目前の光景にただ惹きつけられる。
だからだめなんだよ、爪川くん。こんなときに四文字熟語で語っても――こんなつぶやきはもちろん内心だけのもの。
まだ二人の間には遠慮があって、なんというか爪川くんは、たまに人に慣れない子狐みたいに(この場合の「人」とはつまりわたしだ)なってしまうことがある。
なんとなく今また、子狐モードに入りそうな予感。
どうしたらもっと、信用して? 信頼して? ぶっちゃけて? もらえるんだろう・・・
「分かった。できるだけのことはしてくるよ」
「・・・」
「・・・あのさ。聞いているのかな?」
「・・・」
・・・そういうぶっちゃけ加減って、要するに慣れと時間の問題なんだろうか。でも、相手がこの爪川くんなら、三年後だって、お互い遠慮がちなままな気がする。
まあ、三年たっても愛想をつかされていなければ、の話。
そもそも、爪川くんの相手がなんでわたしでいいのかっていうのが謎なんだから・・・いいや止めだ止めだ。こんなこと考えてるとお腹がすくし、なんだかイラつく!
「はぁ」
「うむっ?」
「あ、もどってきたね」
「ちょっと爪川、ため息つくなっ! わたし腹立つ忘れたか!!」
「・・・一気に呼び捨てか。しかも日本語が崩壊」
・・・それで、結局のところ。
見惚れてましたって、素直に言っておけばよかったんだろう、と後から思わないこともなかった、そんなある日、の次の日。
わたしの手のひらから、例のアレが消えた。
ついでと言ってはなんだが、爪川くんも、消えた。
最初に頭に浮かんだのは、爪川くんの身に何かあったのではないかということ。
極端に体調が悪いとか、つまりその、死にそうだとか。
心配だし自分が情けないしで、何も手につかなかった。
日常生活に支障が出るレベルの事態になって、爪川くんについて知ってることの少なさに気づかされた。メールも電話も通じなければ、もうわたしに安否を知る手段はなかったのだ。
その日、爪川くんを探して心当たりを一日歩きまわって、寮にたどりついたのは暗くなってから。
寮の入り口のところに、ぽってりとしたものがうずくまっている。それが動く気配がして、二つの緑色のビー玉がちかっと光った。
それは、大学猫という可愛げのない名前で呼ばれている可愛げのない猫。誰も鳴き声を聞いたことのないという、大学七不思議のひとつ。
「みぎゃあ」
「あ・・・鳴いた」
大学猫は、みぎゃあと鳴く。
教えたい。
爪川くんに、会いたいな。
その夜も、次の夜も、いつかのように部屋に爪川くんが湧いて出る気がして、よく眠れなかった。
爪川くんは、湧いて出なかった。
講義もゼミもそっちのけで大学構内をさまようこと三日目の夕方、ようやくわたしは目的のものを見つけた。
それは一番見つけたいものではなかったし、苦手なものでさえあったが、そのときばかりはその尊大な態度すら輝いてみえた。
わたしが見つけたのは、爪川兄、と、その彼女。
「あらー、子猫ちゃん、顔色わるいー。大丈夫ー?」
「子猫ちゃんって柄じゃないな。せいぜいが腹足綱裸殻翼足類ハダカカメガイ科クリオネ程度だろ」
あいかわらず浮世離れした人たちだ・・・って、いやそうでなく。
「すいませんが。爪川くんは、どうしてますか? 大学にも来てないみたいですけど」
「はあ? 知らないのか。面倒なことになってるぞ、クリオネもどきのおかげで」
「め、面倒なことって、何かあったんですか? あの、これ・・・」
わたしは爪川兄の横で少し気遣わしげな顔をする、きれいな人に手のひらを見せた。そこにあるのは、味もそっけも何もない、わたしオリジナルの手相。
「だからさ。所有印は普通、お互いの気持ちが変わってなければ消えない。どっちかが天国に旅立つようなことがあってもね」
わたしの手のひらを見もせずに爪川兄がのたまった。
わたしの気持ちは変わっていない。と、いうことは。
つまりそれは。
二ひく一は一。
世の中は、そういうふうにできている。
きれいな人が爪川兄を見上げるようにすると、爪川兄の腕が自然に彼女の背中にまわった。
暑苦しいけど羨ましい。二人の間に張り巡らされた、空気のような信頼関係。
爪川くんとわたしは、ついにこんなふうになれなかったな。
なんだか、目の奥があつくなる。
「んー、大丈夫よー、子猫ちゃん。もうすぐ元気でもどってくるわよー」
そう。とりあえず、高熱を出して死にそうとかではなかったということ。ここで喜べないほど、わたしは心の狭い人間じゃないはずだ、と思いたい。
「あのな。俺たちなんかは、一般人にはない力を継承するわけだ。だから、それで妙な勘違いをしないよう、わざとこんなに控えめな性格に育てらたんだ、兄弟二人とも」
・・・ お い、 ち ょ っ と 待 て。
お ま え と 弟、 い っ し ょ に す る な。
「それなのに、あいつときたらまあ。本人の意向を無視して手相が変わるのは民主的じゃないとかって、長老に食ってかかって戦ったって。あげくにどっか遠くに飛ばされてしまって、戻ってくるのに時間がかかってるらしい、あのバカが」
むしろ お ま え の 方 が、 時 空 の 果 て ま で 飛 ん で 行 け。
「まったく、やんなるね。長老もあいつに、うっかりやられかかって、期限付きだけど手相を剥ぎ取る許可を与えちゃったらしいし」
「ふふふ。若いっていいわねー」
いえ、年はあなたとそんなに変わらないから・・・じゃなくて、結局どういうことだ?
わたしの頭の中で、びゅんびゅん空を飛びながら光線で攻撃しあう二百歳の老人と爪川くんという、非現実的な絵が展開されてめまいがする。
「あのねー子猫ちゃん、実家から霜降り牛肉、送ってきたのよー。上等のしらたきとー、栽培キットで手作りのシイタケもあるのー。四人で仲良くすき焼きしましょうねー」
夕暮れも終わりに近づくころ。
とぼとぼと寮の方に戻ってくると、入口手前に、大学猫ではなく爪川くん。
疲れのせいか、その笑顔の薄倖さ加減も五割増し。
なんとなく照れくさくて手のひらを見ると、懐かしくさえある「爪」、「川」の手相がもどっていた。
「どうだった? 短い間だけで悪いけど、久しぶりの自分の手相、少しは喜んでもらえたかな」
うん、わかった。
爪川くんは、頭はいいけど、アホだった。
「あの、ありがとう。でもね」
「うん?」
「いろいろ大変みたいだし、もう、このままでいいよ。けっこう気に入ってるし、この手相」
わたしがそう言った途端、爪川くんの身体がゆらりと傾いだ。
たいへんだ、助けなきゃ、こんどは自分が助けなきゃ、とわたしは思った。
一人で勝手に頑張ったらしい、アホがつくほどやさしい人を。
足を踏ん張って両手を伸ばし、頭を少し突き出すようにして、倒れかかる爪川くんを受けとめた。
――たしかに。
たしかに、助けなきゃ、と思ったはずだった。でも、あの薄倖そうな微笑みを見て、やっぱりわたしは安心してしまったらしい。
安心し、て・・・なんだか・・・眠く、なってきた・・・
まあ、いいや・・・面倒なことは、また今度かんがえよ・・・
*****
多分、僕の身体を支えてくれようとしたんだろう。
今は単なる重しと化した彼女、肩口にもたれるようにして、おとなしく眠ってしまったようだった。
「・・・ううん、違うっ、爪川くん。しらたきは、最後だからっ!」
おとなしくとか前言撤回。すごい寝言でも怒ってる。
「・・・爪川くん・・・好き・・・シイタケ・・・」
どっちが好きだ? 僕か、シイタケか。というか何だこの二択。
・・・あれはたしか、高校の古典の授業で聞いたのか。
千年前の「うつくし」には、「かわいいと思う」だの「いとしい」だのって意味があるらしい。
この頃ときどき、いとうつくし、がふさわしく思える瞬間がある。
千年前の人たちならば、あるいは、
――ものぐるほし
とでも、言っただろうか。
たとえば、今。たとえ再びの寝オチと分かってはいても。
胸を掻きむしりたくなるほどいとしく思う、確かな重みと、伝わる体温と。
こんなに近くにいるのに、もっと近づきたいと思うような。
千年前にもあったに違いない、この感情の正体は何なんだ。
・・・でも、まあ。今日はちょっと疲れた。
そのへんは、また今度、ということで。
「じゃあ、部屋まで送って行くよ・・・なんてね」
最後の「ね」の音が消えると同時に、二人分の闇が色濃くなって、すべての音が一瞬ぴたりとやんだ。
それから、一つ、二つ、小さな光の粒が、まったく同じ軌跡を描いて、順々に地面に散った。
とっぷりと暮れたあたりには誰の姿もなく、どこかで、みぎゃあというふてぶてしい鳴き声が、細く長く響いた。
おわり
まだまだがんばれ、爪川くん