(4)爪川くんと散歩(連載後新作 コメディ調恋愛カテ。「いきなりやばいことが」続編。たぶんここまでの中では一番まとも?)
あと五時間三十二分! 間に合うのか、いや、絶対間に合うっ。否、間に合わせてみせる!
「次っ、これ! ここのドイツ語訳しといて。もうさっさと、急いで!」
「いや、それはもう終わってこっちのファイルに入れてあ」
「うそっ! 神っ、神なのっ、爪川くんっ」
「どっちかっていうと神というよりは、まほ」
「じゃあ、リストっ。参考文献のリスト、違うってば、こっちから拾って作ってよ」
「・・・だからそれももう終わって・・・」
・・・ふう。
かくして。
終わったそして勝った。わたしの戦いは、四時間余りの時間を残して終わったのだった。
いまだかつて、こんなに余裕を残して書きあげたことがあっただろうか、いや、ない。
そもそも、要綱に紹介された講義内容はおもしろそうだったのに、受講者が異常に少ないとわかった時点でおかしいと思ったのだ。まさかこんなに度々レポートが課される上に、期限に間に合わなければ単位が即、お預けだとは。
でもこれで、あのあったま固い教授の鼻をあかせるわけだ。それもこれも、わたしの実力のなせるわざ・・・
って、おや?
「お疲れのところ悪いんだけど・・・」
「ええっ、爪川くんっ! どうしてこんなところにいるの?」
「どうしてもこうしても、やっぱり存在を忘れられていたんだね・・・」
「やだなにこの状況?」
ねじってクリップでとめただけの髪をあわてておろして、指ですいて整えてみた。もう遅いような気もしたが。
くどいようだけど、ここは某大学の女子寮の一室。ルームメイトは今日も外泊。そのうちここを出て誰ぞと一緒に住むらしい。うらやましい。
・・・それはさておき。
目の前には、まつ毛をふせて、薄幸そうな微笑みをうかべる爪川くん。つい先日まで、声をかけるのにも緊張せずにいられなかったこの人に、わたしはもしや、
命 令 を く だ し て は い な か っ た か。
・・・いや、きっと気のせい。うん、気のせいだ。
それよりも。レポートの提出期限は朝九時。現在の時刻は早朝四時半。こんな時間にこんな場所で、爪川くんは何をしているのだろう。
「助けてっていう文字、あれは見間違いだったかな」
「んあ」
そういえば。
「今何してる?」っていう、たった六文字のそっけないメール。それは、爪川くんから初めてもらったメッセージだった。
対するわたしは、カウントダウンでレポートと格闘中。思わず送った返信が、助けて、だったような。
「フリーの翻訳ソフトって、思ったよりよくできてるね。なんだか自分が、それ以下の存在価値って気がする」
「いえいえ、そんな・・・」
「たしかあれは、ついこの間のことだったな。同じ大学の女の子が、頬をうっすらと染めて近付いてきて、僕に」
「くぁーっ、やーめーてー」
そうだった。
どちらかというと、不器用そうに見える爪川くん。実際そういうところはあるのだろうけど、それだけの人だなんて思ってはいけない。なんといっても、わたしの両手に消えることのない文字を刻みつけた人だ。
そう、文字どおり。
じっと、手を見る。
浮かび上がるような手相が描く、左手のひらに爪、右てのひらに川、の文字。
「先ほどまで助けていただいて本当にありがとう。それで今日は、どういったご用件で?」
「それも聞いてなかったか」
「ええと。旅がどうとかって?」
「・・・。もう大昔のことのように懐かしいな。頬を染めたその人は、決意に満ちた眼差しで口を開くと、僕に好・・・」
一 発 殴 っ て い い で す か ?
・・・いやいや。ここは落ちつこう。状況はわたしに不利だといえる。
冷静に冷静に、勝機を探るべきだろう。
と、いうようなことを考えている間にも話は進む。
今日の爪川くんは、いつものイメージより少し饒舌だった。
「・・・ということになると、僕としては、ルーマニアのブラン城か、ハイチのソードゥーあたりはどうかと思うんだけど」
「いきなり海外・・・」
「まあ、実際の距離はそんなには影響しないんだ。まだ兄貴みたいに瞬間ってわけにはいかないから、すこーしだけ、時間はかかるけどね」
この爪川くん、何を隠そう、魔法青年(?)らしい。とはいえ、使える魔法はほとんど瞬間移動のみ、唯一のそれも爪川兄に教わりながら練習中だったのだ。
それが、晴れてその技法をマスターしたという。そういえば、前のときはいきなり降って湧いた爪川兄の姿が今日は無い。
と、いうわけで。
はじめての負荷付き瞬間移動をご一緒にいかがか(負荷とはつまり、わたしだ)と誘ってくれているのだった。
要するに、これはあれ? とったばかりの免許ではじめて助手席に乗るのは的なイベントなのか? いや車は興味ないけど。はあ? たとえが古臭い? いいえ放っておいて欲しいんですが・・・
「聞いてる?」
・・・でもそれにしては。そんなふんわりしたイベントにしては、場所の選択がダークサイドに偏ってるのは気のせいか。それとも、実はそういう趣味の人なのだろうか・・・
「はぁ」
「ん? ため息? 今、ため息ついたね、爪川くん。なんとなくそれ、ひどくない?」
「・・・それはどおもすみませんでした」
結局。
最初の瞬間移動先は、レポートの提出ボックス前ということにしてもらった。
だってこの時間なら誰かに見られる心配もないだろうし、とにかくさっさと提出してしまいたかったから。
第一、はじめは近いところの方が安全な気がする。
・・・まあその、愛はあってもお腹はすくっていうことと同義だったり、違ったり。
「不安? 信用できない、とか」
「ううん。そんなことない」
と、思う。たぶん。
「なら、しりとりでもして気を紛らわせれば。三つ目のことばを言う頃には着いてるよ」
「し、しりとり?」
「そう。僕からね。最初は、オ。オは、オトウトのオ」
「次は、と? と、と、とりいみゆき」
「き、き、き、キッチンでカッパがタニシ茹でてるって、なんだなんだ、おまえら。どこに湧いて出てんだよ」
「・・・」「・・・」
瞬間移動、失敗。着地地点を誤った模様。
そして気まずい。ものすごく、気まずい。
「ごめん。この間まで教えを受けていたせいか、どうも兄貴の術の匂いに引っ張られてしまうことがあるみたいなんだ」
「うん、あの、それはいいんだけど」
カッパタニシの声の主、爪川兄がベッドから出て、立ち上がる。
・・・全裸で。
「あらー。ひさしぶりねー。元気だったー?」
立ちふさがる爪川兄(全裸)の背後から、柔らかな声がする。
シーツからはみ出たその人の肩は、とぼしい明かりの下でも白くまぶしくて、艶めかしかった。
わたしと同じ、爪、川、の文字を手のひらに持つ人。
「それで結局、なんなんだよ。パートナー交換の要請なら、断る」
・・・そ の %λ☆@ を 握 り つ ぶ し て も い い で す か ?
いやいやいや。ここは落ちつこう。だいたいそんなモノに触ったら手が腐る。
「もう、何言ってるのー。そんなわけないじゃない、ねー」
爪、川、の文字の形をした手相は、失礼な話で、所有印のようなものらしい。所有印といっても姓の方だけを示しているわけで、そこからパートナー交換などという話が出たのだろうが。
まあ、このきれいな人とわたしなら、百人中九十九人は、わたしでなく彼女の方を選ぶはず。
でも爪川くんは、その残りの一人になってくれたんだよ、ね?
・・・違うの?
「行こう」
爪川くんの腕が、わたしの肩を引きよせる。
と、小さな光の粒が、一つ、二つ、目の前をつぅとよぎった。
やがて光の粒は十になり、あっという間に百になって、らせんを描く線になった。
光の線は撚り合わさって帯となり、たくさんの色がさざめく面になった。
細かな金属が触れ合う音が、あとからあとから爪川くんとわたしのまわりに降ってくる。
次の瞬間、わたし自身が小さな粒になった。その次の瞬間にはとてつもなく広がって、空の端の端まで届いていた。
それでもしっかりと支えてくれる腕を感じていたし、わたしを見返す爪川くんの瞳の存在がわかっていた。
――そうだ、酔い止めを飲んでおけばよかった。
わたしは思った。
なにせ、初心者マークなわけだし。
でももう、遅いな。
わたしは酔ってしまったのだ、
爪川くんに。
*****
そこは、上下対称の鏡の世界。
対称の軸となる地平線ははるかに遠くて、うっすらとさえ見ることもない。
雲の間から差し込む光の線は、上から、下から、細く長く、差し込んでいる。
夕方の雲を赤く染め上げるのは、上下に二つ、ぽかりと浮かんだそっくり同じな太陽だった。
ウユニ塩湖名物、双子の太陽。
水鏡となった雨水に映しだされた太陽は、本物と同じだけ完璧だ。
もうすぐ雨季が終われば、塩の大地を覆う自然の鏡は乾きに負ける。
こんな不思議な光景が、地球からいったんは消えてなくなる。
そんな場所。
そこに忽然と現れた、爪川くん。
と、その背中におぶさった誰か。
その誰かは、すっかり安心した顔で寝こけている。
「で、結局こうなるんだね」
爪川くんがもらした小さなつぶやき。水の鏡に跳ね返されて、細かくくだけて宙に漂う。
「まあ、徹夜だったんだし、仕方ないか。来年とか、その次の年とか、二人で見られる機会はまたあるよ、な」
そう言って、背中の「負荷」を静かにゆすりあげる。首のわきをとおってぶらぶら揺れる、彼女の右手をそっと握った。
それから、手のひらをかえして、「所有印」を確認。
「川」の文字の右下には、小さく刻まれた「オ」の文字。
――オは、オトウトの、オ。
双子の太陽が引き合って、お互いの距離を縮めていく。
やがて見えない地平線上で境界を接し、それからゆっくりと溶け合って・・・半分ずつで一つの、まあるいまあるい太陽になった。
おわり
がんばれがんばれ爪川くん