(13)台形式スカート(四角四面の緑岡さん(28)と、仕事中毒 黄川田課長(38)。二人の間をまったり流れる、その感情は何でしょう。)
つい昨日、特に何の感慨もなく三十八回目の誕生日をむかえた黄川田 月哉は、閑散としたオフィスをなんとなしに見渡していた。
フロアは静かだった。マシンの低いノイズにまじって、PCのキーをたたく硬質な音が小さく響いている。
時刻は午後五時前。いつもならば、他部署の人間がまわれ右して逃げ出すような、殺気漂う時刻だ。それが何ゆえこんなゆるい空気に包まれているかといえば、幸か不幸か本決まりだったプロジェクトの受注が流れたからである。次に控える大型プロジェクトのキックオフを前に、珍しくも降って湧いたこの平和かつ暇な時間は、いわばエアポケットのようなものだった。
こんなときこそさっさと帰って充電でも何でもするがいいと、統括システムグループ課長である黄川田は、せっせせっせと部下たちに、存在すら忘れられているフレックスの利用を勧めた。
その結果、定時前にして席をあたためている人間はほんの数人、といった状態になっているのだった。
その数人のうちの一人が、型の古いメタルフレームの眼鏡をかけ、背筋をぴんと伸ばして何やらPCに入力中の、緑岡 雪乃である。
視界を遮る部下がいないため、黄川田の席からは彼女の横顔がよく見えた。黄川田の視線の先の緑岡は、ときおり人さし指をすっと伸ばして、画面の一点をポイントしている。 何の確認なのか、その表情は一貫して渋いのだが、そんな表情が彼女のデフォルトだった。
かつてこの規模のグループなら、事務担当は最低二人は配されていたものだが、経費削減と事務処理の省力化によって、現在は緑岡が一手に課内の事務処理を引き受けている。 さらに、日本人であるのに日本語に難ありなエンジニアたちが作成したバグレポートなるものを、クライアント向けに正しい日本語で仕上げるといった、この部署ならではの仕事の一部も彼女に任されている。
希望的観測も多分に混じってはいるが、その仕事をしているときの彼女は、たとえ渋面であっても黄川田には楽しげに見えるのだった。
緑岡は、前任者がいきなり退社してしまったことにより、半年ほど前の嵐のような繁忙期に配属されてきた。
当時は黄川田も、正直事務方に目を向けているような余裕はなかった。それでも、緑岡が仕事に対して誠実で、一の指示で三をこなすタイプであることに気づくのにそれほど時間はかからなかった。
前任者があまり仕事熱心なタイプではなかったから、この配置換えは黄川田のグループにとって思わぬ収穫といってよかった。
緑岡の印象は、ひとことで言えば地味であり、また地味のひとことにつきた。それは黄川田にとっては喜ばしいことであり、なぜ喜ばしいかといえば、その地味さゆえに、自分より十も若い部下たちの気を引くことがないと思われるからであった。
そして、なぜ若い部下たちの気を引かない程度に地味であることが自分にとって喜ばしいのかについては・・・そのあたりについては深く考えたことはなかったが、残念ながら先日、認識を改めなければならないと思われるようなできごとがあった。
部下たちが緑岡の噂話をしているのを聞いてしまったのである。
そのできごとを思い出した黄川田の心は、途端にどす黒いものに覆われる。
――雪乃さんってさあ、実は結構、いいよな。
――えぇ、おまえもそう思う? そうなんだよ、あの足首とかさ。
――そうそう、地味だけど、出るとこ出てるし。
――おっと、競争率低そうだから、とりあえず飯でも誘ってみようかと思ってたけど。意外と人気高かったりする?
――まあ、とにかく。男に誘われたこととか、あんまりないんじゃないの? だから意外とあっさり落ちるかもな。
そのときの部下たちの会話を反芻し、自然と黄川田の眉間に溝が刻まれる・・・足首が。足首が、なんだというのだ。しかも出るとことはなんだよ、出るとことは、おまえら草食系とかいう世代じゃなかったのか、そんなケダモノみたいな目で職場の仲間を見るなど言語同断、しかも名前で呼ぶとか十年早いっつーの、とにかく緑岡の良さは外見では計れやしない、そんなことも分からないおまえらに、飢えたハイエナのごときぴーちくぱーちく野郎に落とされてたまるか、しかも昨日今日気づいたおまえらと違っておれはずっと前から。そう、ずっと前から分かっていた。たしかに、たしかに緑岡は痩せぎすのタイプではない、おれは分かっている、つまり緑岡はどちらかといえば・・・
深く思考にもぐっていた黄川田は、自分が無意識に緑岡の胸部付近に視線を送っていることに気づかなかった。実際には視界が手前の席のファイルボックスに遮られているため、緑岡の首もとから下は見えていなかったが、その視線はまるでファイルボックスを突き抜けんばかりだった。
・・・黄川田が我に返ったときには、緑岡がけげんそうな顔をして立ち上がっていた。慌てて手もとの資料に目を落としたが、そうこうするうちに彼女は黄川田のデスクの前までやってきている。
「課長。何か問題でもありましたか」
呼びかけられた黄川田は、そうだ、自分が部下たちより先に誘えばいいのだと唐突に思いついた。
しかし、である。黄川田はここ数年、仕事が恋人と言ってはばからないような生活を送っていた。それこそ自分が部下たちの年齢の頃には、女性との間に楽しいことも、逆に楽しくないようなことも、まあまあ色々とあったわけだが、考えてみれば自分から女性に(仕事以外の目的で)声をかけるようなことは、久しくしていなかった。
よって、どのようにきっかけをつかめばよいのか皆目わからない。
と、返事をしない黄川田の態度を勘違いしたのか、普段から渋面の緑岡の表情がさらに曇った。
「申し訳ありません。やはり、仕事が早すぎましたか」
「早すぎ? もちろん、早すぎて悪いなんてこと、あるわけないが」
「いいえ。正直におっしゃってください」
「う、うん?」
有無を言わさぬ強い口調に黄川田はたじろぐ。しかも緑岡が言っている意味がよく分からない。
疑問符の浮かんだ黄川田の顔を見て、緑岡はひとつ静かに頷いた。
「以前に営業部にいたときに教えていただきました。仕事は遅すぎてはいけないけれど、早すぎるのは、もっといけないと」
そう言った彼女が、眼鏡のむこうでまつげをふせる。マスカラとは無縁のまつげは、目もとに淡い影をおとしている。
そうか、ときおりちぐはぐな印象を受けたのは、強い目線に比してまつげが寂しげだからだと、黄川田は場違いな発見にひそかに感銘を受けていた。
「仕事の道とは、長くて細い、トンネルのようです。奥深すぎて、出てこられなくなりそうです」
な、長くて細い??? 冗談を言っている可能性は3%ぐらいか、と黄川田は見当をつけ、気の利いた返答も思い浮かばなかったので、トンネル発言は断腸の思いでスルーした。
「前の部署のことは知らないが、このグループでは、早すぎていけないということはあり得ない」
「では、私でもご迷惑はかけませんか」
「もちろん。逆に、ずいぶん助かっているよ」
緑岡はあからさまにほっとしたような顔をする。
前の部署と聞いて、一つ思い出したことがあった。配置換えに際し、上長となる黄川田は緑岡の査定リストを閲覧していた。後になって、その評価の内容が、緑岡の能力に比して不当に低いように思われた。気になってそれとなく転属前の営業部の上長に聞いてみたところ・・・
――ああ、緑岡ねぇ。まあ、仕事はできなくはないんだけど・・・
営業のような華やかな部署にあって、きまじめな緑岡は浮いていたのだろうと、なんとなく想像はついた。
しかし、察しろとでもいうような、その男の共犯者めいた顔つきが、そのときはなぜか非常に腹立たしく思えたのだった。
「それより・・・しばらくすると、また忙しくなる。緑岡も、仕掛り中のレポートを仕上げたら、一区切りつくだろう?」
「はい。あと四十五分ほどで終了します。他に急ぎの仕事はないはずですが・・・」
「うん。どうかな、そのあとで軽く食事でもして、ビールの一杯も飲まないか」
ああ、なんだかとてもオヤジ臭ただよう誘い方じゃないかと、言った途端に後悔しながら、黄川田は相手の返事を待った。
「・・・」
「いや、予定があるなら・・・なくても気が進まないなら、無理せず遠慮なくことわってくれ」
「・・・ション」
「ん? 今、なんと?」
「ノミュニケーション、つまり課長は、私にノミュニケーションが必要だと思われたんですね」
「ノミュニケーション・・・って、なんというか、意外に古風なことばを知っているんだね」
「はい、世の中にノミュニケーションというものが存在することは存じております」
ここで緑岡は、そろえた人さし指と中指でメタルフレームをくっとあげる。そんなしぐさもなかなかいい、と思ってしまう黄川田はすでに重症といってよかったが、部下はなるべく平等に扱うというのが信条の彼としては、やはりその自分の感情の源について深く考えたことはなかった。
「そして、私に、その方面のスキルが欠落していることも、薄々気づいておりました」
「いや、スキルってそんな・・・」
「慎んでお受けします」
「は?」
「ノミュニケーションにお誘いくださって、ありがとうございます。ぜひ、参加させていただきます」
「そう・・・か。それは、どうも」
きっと黄川田を見据える緑岡の顔はうっすらと上気していて、何とかいう花の蕾みたいな色だと黄川田は思った。そんなことを思っていたので、参加者は自分たち二名のみであることを伝えるのが一拍遅れた。
二人だけと聞いた緑岡の反応は、そういう会もあると聞いておりますというもので、その中途半端な耳年増のおかげで快諾されたのは、幸運といえるのかどうなか、判断が難しいところだった。
*****
淡いブルーストライプのシャツに、グレーのスカート。
緑岡は同じような色、同じような形の服を何枚か持っているらしく、結果としていつも同じような格好をしていた。
そのスカートは長からず短からず、正面から見ると、台形のような妙に中途半端な形をしており、ありそうで実はどこで探してきたんだろうという類のものである。
足元はベージュのパンプス、髪は未加工のまま後ろで一つにまとめている。
全般的にみて、とにかくこれ以上ないほどそっけない格好、というのが緑岡のいでたちの特徴である。
このそっけなさがまたいいと思ってしまう黄川田はやはり相当に重症なのだが、他の人間が同じ格好をしていたら、そっけなさすぎてそれに気づくことすらないだろう、ということにはまったく思いいたらないのだった。
さて、仕事を終えた緑岡をしたがえて、黄川田は迷った末に行きつけの居酒屋に行くことにした。
一応、緑岡に店の希望を聞いてみたところ、途方に暮れた顔でしきりに謝りはじめてしまい、その様子を目にした黄川田までかなり緊張してしまったため、慣れた場所がいいように思えたのだ。
居酒屋に入ると、主人がおやっという顔で黄川田を見る。店はカウンターが五席、小さなテーブルが三つとこじんまりとしたもので、六十過ぎの主人がほぼ一人で切り盛りしている。
ここに黄川田が誰かを連れてきたのは初めてで、いつものようにカウンターにすわるか、一つだけあいているテーブルにすわるか、逡巡しているうちに主人がカウンターを指さした。
結局、黄川田は緑岡を案内してそこに腰を落ちつけた。
「珍しいね」
突き出しを並べる主人が小声で言って、黄川田と目が合うとニヤッと笑う。主人のそんな表情を見て、自分たちはいったいどういう取り合わせに見えるのかとふと思い、続いて緑岡との年の差を意識する。
黄川田は自分と緑岡の年齢が、正確には昨日から、ちょうど十違うことを知っていた。緑岡は決して老けて見えるわけではないが、落ち着いているため、普段は別にその差を意識することは無かった。
学生時代と体型もさほど変わらない黄川田は、同年代の人間が言うほどには、知力や体力の衰えを感じることもなかった。しかし、いざ仕事以外の場で向き合うと、彼女をこんなオジサンにつき合わせてよかったのかと、やや自虐的な気分がこみあげてくる。
そんな黄川田をよそに、緑岡はビールのグラスにちびちびと口をつけている。ビールとおっしゃっていましたよね、と黄川田に確認するや否や、「ビールをお願いいたします」ときっぱりとした声で緑岡自身が注文したものである。ちなみに、それぞれ手酌だ。
「これは・・・?」
「ああ、揚げ出し豆腐だね。うまいと思うよ」
「つまり、豆腐のてんぷらということでしょうか」
主人のこめかみがひくひくいっている。小さな居酒屋とはいっても、料理については一言も二言もある主人である。いきなり怒りだすのではとハラハラしたが、どうやら思いとどまってくれたようだった。
一方、ほほう、ほほう、としきりに感心しながら、緑岡はきれいな箸さばきで揚げ出し豆腐をたいらげていく。
「単なる豆腐のてんぷらなのに・・・あたたかくて、優しい味で、とてもおいしいです。本当に世界は、こんなにも不思議に満ち満ちているんですね」
ほめられた(多分)のは豆腐だったのだが、黄川田は自分のことのように嬉しかった。視線を感じてそちらを見やると、ニヤニヤしている主人と目があう。主人の鼻がひくついているのは、喜んでいる証拠だ。
揚げ出し豆腐の衣について尋ねられると、驚くことに主人は小声で答えている。調理法に関することは、黄川田が(暇つぶしに)いくら尋ねても教えてくれることはなかったのだが。
料理の話が終わってしまうと、それ以降の二人の話題はもっぱら仕事関係になってしまった。せっかくの機会にこんなことでいいのかと思いながらも、他の話題も思いつかない。
仕事の話題であってもそれはそれでなかなか楽しく、そうこうするうちに結構な時間が過ぎ去っていた。
あまり遅い時間までつきあわせては悪いだろうと思いはしたが、そろそろお開きという、その一言を黄川田は口にだせない。
そのうち、つと時計に目をやった緑岡が、驚いたような顔をした。そこでようやく、このへんで切り上げようかと黄川田がつぶやくと、緑岡はおとなしく頷いた。
すっかり仕事の延長だと思っているらしい緑岡に対して、次回の誘いを口にする勇気もないまま会計を済ませると(割り勘にすべきだという緑岡と、誘った自分が持つべきだという黄川田の間で一悶着あった後、端数の分を黄川田が多めに出すということで落ち着いた)、黄川田が先にたって店の外に出た。
いつの間にか季節は秋になっていて、首もとを通り過ぎる風はひんやりと澄んでいる。 虫の棲みかなどありそうな場所でもないのに、りー、りー、と姿の見えない虫が鳴きだした。
路上にゆらりと向き合って立ったまま、お互い無言のままの時間がじりじりと過ぎていく。
「・・・ノミュニケーションの目的は、これで達成されてしまったのでしょうか」
思いついたように先に口を開いたのは、緑岡の方だった。
『達成された』ではなく『達成されてしまった』というところに希望をつないで、黄川田は話をあわせる。
「そう・・・なかなか好調な滑り出しだったが、まだ十分だとは言えないだろう。だからまた近いうちに、今日のような機会を設けるべきだと思うが。どうだろうか」
これではまるで、若い子(二十八が若いかどうかはこの際おいておき、少なくとも自分よりは十も若い)をたぶらかす不良なおじさんだ、いや、仕事ばかりにかまけて不良にもなれやしないと、黄川田の胸に苦い思いがわきあがる。
と、食い入るような表情で返事をまっていた緑岡が、そのこたえを聞いて、にこりと笑った。
それは笑い慣れていない人に特有のぎくしゃくとした笑顔で、お世辞にも可愛らしいとはいえなかった。しかし黄川田は、突然に鎧を脱いだようなその表情に胸をつかれた。
たぶん緑岡は、ぎこちなくであっても、一人で果敢にこの猥雑な世の中を歩いていけるのだろう。
それでも、世の中のたくさんの嫌なことを、彼女のまわりから取り除いてあげたいと思う。いや、そんなことはできなくても、彼女が悲しい思いをするときに、自分がそばにいられるといい――
そんなことを思い、しかしもちろんそれをことばにすることはなく、黄川田は緑岡に笑顔を返した。
最寄りの駅までの道のりを、ほとんどことばはかわさずに、あたたまった心を抱いて、二人はならんでゆっくりと歩いた。
黄川田と緑岡が利用する路線は反対方向だった。
名残惜しいというのはこういう感情だったかと思い出しながら、黄川田はホームの手前で緑岡と向き合った。
そして、お互いに三度ずつ別れのお辞儀をくりかえした。
それからようやっと、二人それぞれが、誰も待つ人のない部屋を目指して、帰途についたのだった。
***
「とうとう課長、緑岡さん誘って飲みにいったみたいだぞ」
「おー、ようやくか。ここまでくるのに、ずいぶん長かったよな。で、飲んだその後どうしたって?」
「それはまあ、駅で清く正しくさようなららしい」
「・・・。やっぱりな」
「でも、大きな進歩だろ? たきつけた甲斐はあったよ」
「課長もなぁ、いい人だし仕事では押しも強いんだけど。仕事以外のことは、どうにもダメダメだよな」
「なんて言ったけ、あの事務の前任の・・・彼女が辞めたのだって、半分は自分のせいだなんて気づいちゃいないんだろうし」
「そうそう、あれだけあからさまにアプローチされてたのに、課長の方は見事に無反応だったもんな」
「緑岡さんの方も、自分から歩み寄る気配はないけど・・・遅くまで残業してたときに、おれほんの冗談で、課長は人使いが荒いからたいへんだよねー、なんて言ったらその瞬間。両手はタタタッとパソコンのキーを打ち続けながら、目だけでギロっと睨まれた。あれはほんと心臓凍った」
「とにかく、あの二人見てるとさ、おれ何かきゅんきゅんしてくるさー」
「だよなー」
というわけで、課内で密かに進行中の「黄緑プロジェクト」――正式名称は黄川田課長と緑岡さんをさっさとくっつけようプロジェクト――の存在を知らないのは、当の黄色と緑の二人だけだった、とさ。