(11)世奈の野望 後編
呼び出してやる、と軽く言われたものだから、うっかり簡単なのだろうと思ってしまった。
そういえば自分が呼び戻されたときだって、津南はかなりよれよれになっていた。
大変な作業なのだと気づくべきだったのに・・・世奈は早くも、後悔し始めていた。
津南はまず、ペットボトルの水で指先を湿らせると、フローリングの床に奇妙な図形を描き始めた。その大きさは一メートル四方といったところ。津南には図形の全体像が見えているらしいが、世奈にはなんだかよく分からなかった。
それが終わると、津南は少し下がってその場に座り、目を閉じた。途端にまわりの空気が張りつめる。彫像のように動きをとめた津南の首筋を、汗がゆっくりとつたっていた。
それから津南は、先ほど描いた図形の方向にむけて、ゆっくりと腕を伸ばした。
その指先に、ぽおっと蒼白い炎がともった。と、その炎に舐められた部位が、指の端から徐々に消失していく。まるでそこだけ別の空間に取り込まれたように。
やがて炎は鎮まり、消失も指先から手首のあたりまでで止まったが、それは非常に心臓に悪い光景だった。
あちらの世界ではもっと異常な現象が日常茶飯で、世奈はそういったことに慣れたつもりだった。それでも目の前で幼馴染の身体に起こっている現象は、それなりに衝撃的だったのだ。
「津南・・・。ごめん、もうやめよう。呼び出さなくていいから」
「・・・」
無言のままの津南に不安がつのり、世奈は彼のすぐそばまで近寄って腰を下ろした。津南がふっと目をあけた。
「もう少し・・・もう少しで、来るな」
「大丈夫なの? 気軽に頼んでしまって、ごめん。謝るから、もう今日は終わりにして」
「なんで? 途中でやめたら、かえって危ない」
「そういうもの?」
「まったく信用されてないよな」
「そんなことは、ないようでもあり、あるようでもあり・・・」
手首から先が見えなくなった腕を下ろし、自分の身体で隠すようにすると、津南は反対の手で壁を指さすようなしぐさを見せた。すると白い壁に、また人影が映し出された。しかし先ほどの映像よりは、随分と暗く、ぼんやりとして映りが悪い。
途中でやめるのが危険なら、津南の手が見えなくなろうがなにしようが、仕方がない。
そう割り切ってしまえば、もうすぐギャレットに会えるのだと、世奈の気分も徐々に浮き立つ。
「あ、やべ」
「え? え? 何?」
「いや、たいしたことじゃないけど・・・余計なのがついてきた」
「ギャレット一人じゃないってこと?」
「そう。さっきの藍色っぽい髪の男と、もう一人の方は金髪みたいだ」
曖昧模糊で五里霧中な壁の映像をよく見てみると、たしかにギャレットの他にもう一人いる。
二人は腰をかがめてせまい洞窟みたいな場所を歩いているようだった。
「うーん、よく見えないけど、王子かな。それとも・・・」
暗い洞窟の映像に一瞬だけ細い光がさして、しっかりとつなぎ合わされた手が見えた。
「多分、王女の方。ギャレットの許嫁の」
浮き立った気持ちが嘘のように沈んだ。
王子の方なら、こちらの世界の清涼飲料水でも飲ませておいて、放っておけばいい。その間にギャレットと話をすることも、眼鏡をかけさせることもできるだろう。
でも王女が一緒なら、そういうわけにもいかない。
王女が一緒なら・・・ああ何か、もうすぐ結婚するだろう二人に、お祝いの品でも用意できればよかったな。
肩を落として考えこんだ世奈の様子を、津南は無表情でうかがっていた。
「ずいぶん凛々しい王女サマだな。たしかにドレスを着ているようだけど、髪も短いみたいだし」
「髪はたらさずに結い上げているんだよ。とってもきれいな人だけど、面倒なことになるから惚れないでね」
「世奈に言われたくない」
「むっ」
そんな話をしているうちに、壁の映像に変化が見られた。洞窟がだんだんせまくなってくるうえ、のぼり坂になっているように見える。しかも、二人の背後にある闇が尋常ではない暗さに思えて、世奈の背筋がぞっと凍えた。
気がつくと、津南も真剣な表情で映像に見入っている。
「大丈夫かな、あの二人。なんだか後ろの闇に捕まってしまいそう」
「・・・」
「あっ!」
洞窟のようだった空間の軸が方向転換して、いきなり縦穴のような空間に変化した。二人の動きは深く掘られた井戸を這いあがるように変わり、世奈たちが見る映像は穴の上部から覗きこむような角度に切り替わっている。
だしぬけに津南が片腕を前方に突き出すようにして、前かがみの姿勢をとった。肩より先の腕が完全に消失している。
津南が持っていかれそうだと本能的に感じた世奈は、彼のもう片方の腕をとっさに両手で掴んで引きよせた。
映像の中では、穴を這いあがる二人の頭上に津南のものらしき片腕だけがにょっきりと現れて、ほとんどホラー映画の様相を示していた。二人の動きはあきらかに鈍りはじめている。
「津南! 何、どうなってるの」
「心配ない、と言いたいところだけど。世奈、励ませ」
「へっ?」
「魔術師たちを、励ませ」
「何言ってるの、励ましたら聞こえるとでも言うわけ?」
「もともと理屈の通らないことをやってるんだ、いいから励ませ、減るもんじゃなし」
・・・分かった。精いっぱい励ますよ。今自分にできることは、それくらいだし。
世奈は考えつく限りの励ましのことばを口にした。ギャレットに面と向かっては決して言えないようなことまでも。
映像の中では、宙に浮いた片腕が、二人に向かっておいでおいでをしている。
励ましのせいなのかどうなのか、二人の動きがいくらか精彩を取り戻したように見えた。
そのときだった。金髪の方が足を滑らした。ギャレットがそちらに手を伸ばす。何とか金髪の手をつかんだが、今度はギャレットがずるずると下に落ちて行きそうだ。
「世奈、ごめん」
「何よ津南、なんで謝ってるの」
「一人だけ、一人だけしか助けられない」
「えっ?」
「選べよ。助けられるのは、一人だけだ」
「私が!? そんなの無理、絶対に無理っ」
「時間が、ないんだ」
全身に疲れをにじませて、でも冷酷なほどに落ち着いて言い放った津南に、世奈は一瞬、殺意に近い感情を抱いた。次の瞬間、殺意は自分自身に向って世奈を切り裂く。
自分が頼んだせいで、こんな・・・
どうしよう。どうすればいい?
でも・・・ギャレットなら、きっと。
「分かった。王女を。王女の方を、助けて」
もしも自分だけが助かって、誰かが犠牲になったと分かったら、ましてやそれが大事な婚約者であったなら――優しいギャレットは、気も狂わんばかりに悲しむだろう。
ギャレットなら、絶対王女を助けろというはずだ。
だから・・・他に、選択肢は、ない。
映像の中で、片腕ががっしりと金髪の身体を掴まえた。それから、じりじりと持ち上げはじめる。気を失っているのか、その身体は片腕を支柱にくの字に曲がってぶら下がっているような状態だ。
――映像の視野の中に、既にギャレットの姿はなかった。
「津南、がんばって。絶対に王女を離さないで」
何としても王女だけは、助けなくては・・・持って行かれそうになる津南の身体を、世奈も必死で支えた。
「けっこう重いな。ああ、ピンクのドレス姿だ。残念だったな、世奈。やっぱり王子じゃなくて、王女の方みたいだ」
「そんなのもう、どっちだっていいんだ。無事に助かってくれるなら」
視界が真っ白に飛んだ。いきなり部屋の中にまばゆい光がさしこんで、次の瞬間には、床に二人の人間が転がっていた。一人はダークブルーの髪、一人は金髪で、どちらもうつ伏せに倒れているが、もぞもぞと動いている。
「ギャレット! 生きてる、津南、ギャレットも無事だ!」
「ああ・・・そういえば、そいつは一応、魔術師だったな。自力でなんとかできたんだろう、忘れてた」
一瞬、本当に忘れていたのかという疑問が世奈の頭を通り過ぎたが、とにかく無事だったのだからと自分を納得させた。
すると、すぐ近くで毛髪が焦げたような匂いがして、振り向くと、毛髪を焦がしたギャレットが満面の笑顔で立っていた。
「セナ! その衣装、お似合いですね。異世界記念として、衣装の一部をいただいていってもよろしいでしょうか」
それはなぜか美しい日本語で。
返事を待つギャレットに、世奈はそのまま抱きついた。驚いたギャレットが身を引く気配があったが、負けるもんかと力をこめた。すると、おずおずと背中に腕がまわされた。
ハグが公式仕様となっているあちらの世界でも、ギャレットにこんなにくっついたことはなかったな、と世奈は思った。
「ごめんね、ギャレット。もう少しであなたを殺してしまうところだった」
「セナが、私を? そうはならないと思いますよ。私も一応、魔術師ですから」
ギャレットが微笑む。
同時に、津南が鼻で笑うのが聞こえた。が、次の瞬間、今までに一度たりとも聞いたことがないような、津南の哀切な悲鳴がひびいた。
そちらを見やると、金髪の人物が、頬をそめつつ津南との間合いをつめている。じりじり、じわじわと、津南は壁際に追いつめられていた。
「あなた、命の、恩人でしょう?」
潤んだ目で津南を見つめているのは、ローズピンクのドレスに身を包んだ、王子だった。
「王子? なんであんな格好・・・?」
「あれ、セナは知りませんでしたか。王子の趣味といいますか、まあ、性癖ですね」
ギャレットがほがらかに答えた。
蛇に見込まれたカエル状態の津南が、世奈の目には非常にここちよかった。いっそトラウマを刻まれてしまえばいいのに。
それから四人でしばしの歓談を楽しみ(?)、名残惜しげな王子を引っ張るようにして、ギャレットは帰って行った。また召喚されに来ますからなどと言い置いて。
壁の映像で二人が無事王宮に帰り着くのを確認するまで、世奈は無意識に津南の片腕を両手でかかえるようにしていた。どこぞの洞窟に引っ張りこまれてしまわないように。
今日はほぼ半年分の身体的接触を果たしたみたいだ、と世奈はなんだかおかしくなったが、そのときになって眼鏡のことをすっぱり忘れていたことに気がついた。
不思議とそれほど悔しくもなかった。また来るって言ってたし。
「世奈のまわりって、ダメな奴ばっかり集まるな」
「そう・・・かもしれないけど、いいんだ、別に」
言いながら、さりげなく津南の腕を解放した。なんとなしにあの二人が消えた床のあたりを眺めていると、津南が世奈の頬にかかった髪を指先でそっとよけて整えた。
こころなしか息苦しさを増した空気を振り払うように、世奈は机の方にすたすたと歩きだした。
「ここにも一人、励ましが必要な程度にダメな奴がいるんだけどね」
先ほどの感動を忘れないうちにと、早くも珍客二人のラフスケッチを始めた世奈の耳に、津南の小さなつぶやきなどは届きませんでした、とさ。
おわり