(10)世奈の野望 前編(今ごろイセカイトリップに初挑戦・・・してみたところ、なんだか違う話に。ドタバタ系)
「選べよ。助けられるのは、一人だけだ」
「私が!? そんなの無理、絶対に無理っ」
全身に疲れをにじませて、でも冷酷なほどに落ち着いて言い放った男に、世奈は一瞬、殺意に近い感情を抱いた。
でも、悪いのは、自分なのだ。
それは分かっているけれど・・・どうすればいい?
もう、時間がない。
*****
とっとと楽な部屋着に着替えると、世奈はPCを起動する間に、これからの手筈を頭の中でなぞり始めた。
今夜は背景の、月にぼんやり照らされた崖の彩色まで終わらすつもりだった。ありがちな構図なだけに、色味はぞわっとおどろおどろしくする所存。
それにしても、退社時刻すれすれに伝票の直しを頼まれて、帰宅が遅くなったのが悔やまれる――
気を取り直してフォトショを立ち上げたとき、部屋のドアが乱暴にあけられた。遠慮の欠片も感じられない足取りで男が入ってくる。
「なに、またヘボ絵の作成中?」
「津南・・・。なんでよどうして、黙って勝手に入ってくるかな」
「だってこの家、おれ顔パスだもん」
「それは・・・そうだろうけど。たとえば着替え中の可能性があるとか、考えてみればいいのに」
「ふっ」
鼻で笑われてしまって、世奈はうっそりとため息をつく。津南一家は同じマンションに住んでいて、彼とはいわゆる幼馴染ということになる。外づらだけはいいこの幼馴染、世奈の両親からも下手すると実の娘以上に信用がある。
しかし、津南のいいのは見た目とうわべの愛想だけ、公平に判断すれば頭のできも随分よろしいようだが、かなり難ありな性格をつきあいの長い世奈はよく知っていた。
それに幼いころから、世奈が興味を示したもの・・・たとえば、パズル、ピアノ、一輪車、ゲームなどなど、すべからくあまねくすべてのものは、気がつくと先にはじめた世奈よりこの男の方がはるかに上達していて、コンプレックスを刺激され続けてきた。
長じてこの男にかなわないのは自分だけではないのだと納得できるようになったものの、苦手意識はなくならず、今に至っている。
ただ唯一、津南が世奈を追い抜けなかったのがイラスト方面で、だからというわけでは絶対ない、と思っている世奈のひそかな野望は、某氏がライターをつとめるゲームにいつの日か絵師として参加することだった。
そのために、自由になる時間のほとんどを「ヘボ絵」の制作に捧げている。
「何の用? 今日はずいぶん、早いご帰宅みたいだけど」
「何の用って、恩人に対してそんな言い方ありなのか?」
「恩人っって、はあ? なに言ってくれてるんでしょうか、まったく」
「あ? ようやく世奈の就職が決まったって聞いたから、祝ってやろうかと思ったのに」
「うおっ、気味悪い。それどういう企みなの?」
あっさり名の通った企業に就職が決まった津南と違って、ただでさえ方向の定まっていなかった世奈の就職活動は困難を極めた。なんとか雑用兼事務担当としてありがたくも今の会社に拾ってもらったのはつい最近のことで、ほぼ周回遅れで決まった就職だった。
津南が不敵な笑顔を浮かべてこちらを見ている。彼がこういう顔をするとき、ろくなことにはならないのだった。
「そのヘボ絵の素材、もう一度見たいんじゃない?」
「素、素材って・・・」
「素材っていうか資料? つまり、科学の代わりに剣と魔法が規範となる世界の、髪の色が青かったり赤かったりする妙な人種のこと」
「それは人種というより属性ですが、結局つまり、どういうこと?」
津南が長い腕をすっと伸ばして、壁の方を指さした。すると何もなかったはずの白い壁に、じわじわと人影が映し出される。
その人物は何かの作業に熱中しているらしく、優しげな目もとをやや緊張させて、机の上の物体に熱心にささやきかけている。ねぐせそのままの髪の色は、月夜のようなダークブルー。
「なんか垂れてるぞ」
あきれた様子の津南が身振りで口の端を指したとき、壁の映像はあっさり消えてしまった。
ああしまった思いながら、できるだけさりげなく見えるように、世奈は垂れかかったよだれを親指でぬぐった。
それは、あまりにもなつかしい人の姿だったのだ。
なんでようやく忘れかけた今頃になって、でもやっぱりもう一度見たいという思いが絡まりあって、思わず世奈は津南を睨むように見てしまった。
「そんな顔で見るなよ、世奈の馬鹿」
そう言った津南は困ったような顔をしていて、世奈にはそれが少し意外だった。だからといって、馬鹿の気持ちが分からない人に馬鹿と言われて黙ってはいられない。
「馬鹿って何なの馬鹿って。はいはいどうせ、津南に比べれば私なんかどうしようもない馬鹿ですけどね!」
顔をうつむけ、もう一度よだれをぬぐうふりをして、意図せず滲んだ涙をぬぐった。ことばに出したことはないはずだが、津南はきっと、世奈の心残りに気づいている。
津南は誰が見ても超のつく合理主義者であり現実主義者だ。
そうでなかったのは世奈の方で、訓練さえ怠らなければカメハ○波も魔貫○殺砲も撃てると信じ、人知れず練習を重ねたという辛い過去を持つ。
そしてそれらが心温まる思い出となった頃・・・つい半年ほど前のことだが、世奈は突然あっちの世界に落っこちた。
あっちの世界・・・要は、異世界召喚されました、というやつらしい。
現実とは異なもの乙なもの。なすすべもなく、なしくずし的に異世界生活になじんでいった世奈を呼び戻したのは、異世界なる時空と物質(というか人間)をやり取りするというまことに嘘くさい能力を獲得した、現実主義者のはずの津南だった。
なんでそんなことができるようになったのか、以前からそのけがあったのかといったことは、とにかく知らない方がいいような気がして聞いてない。
そんな能力を獲得とはいっても、試行錯誤のすえにようやく呼び戻すことができたというのが正確なところのようで、戻って来た世奈が目にした津南は普段の余裕はどこへやらのよれよれな状態だった。
それでもそこで、世奈があふれる喜びだの感謝だのを示せばよかったのだろう。しかし世奈の方にもそうはならない事情があって、しばらくはふさぎこむような状態が続いた。
こうしてもともと苦手意識のあった幼馴染との関係は、さらに微妙なものになっていたのだった。
「こっちの世界――現実に、戻って来ない方がよかったとでも思ってる?」
「・・・」
そんなことはない。
異世界において、やはり自分は異物だった。他の人たちがおさまるべきポジションを、少しずつ自分が横取りしているという感覚がぬぐえなかった。
では、積極的に戻ってきたいと思ったかといえば、それも違う。その主たる原因は、三つある。
一つは、現実世界にそれほど執着がなかったこと。あの頃、職探しは空振りにつぐ空振りで、いい加減疲れ切っていた。友達とも何となく疎遠になったうえ、とどめに自分ではつきあっていると思っていた人に、別に本命がいることが発覚した。
これで自分の存在価値に疑問を持たない人がいるなら、一度会ってお話してみたいところである。
そのうえ両親は基本的に放任主義で、世奈がいなくなっても心配する姿など想像できない。現に世奈があちらで過ごした一カ月ほどは、こちらの世界ではたった一週間の不在にしかならなかったせいか、傷心旅行に出ていたと思われているふしがある。それはそれで好都合だからいいのだが、釈然としない部分がないこともない。
二つ目。これは世奈の野望と深くかかわる。
世奈が落ちた異世界は、なんということか、あっちもこっちも石を投げれば超絶美形に当たるといったありさまだった。
しかも、その髪や目の色は現実世界ではあり得ないバリエーションにとんでおり、そんな彼らが甲冑やらローブやらを身にまとって辺りを闊歩しているのである。
ここで食いつかずにいつ食いつくのか・・・なんといっても、絵師としての世奈が狙う分野は、需給バランスを勝手に慮った結果、女の子よりも男、それも動きのある美形の男だった。
それがこの世界では、たたけばカッツンカツン音がするタイプの甲冑上等な美丈夫から、ヘタレ寄り頼りな系美少年まで、ずらり取り揃えられた幅広いタイプがみな美形、しかもコスプレ中。
あっちにも資料、こっちにも資料。長らく謎だった美形の鼻孔内部構造も見上げたい放題だ。
いつかは現実世界に戻るのだろうという予感はあったから、趣味と実益を兼ねた資料の観察には飽きることがなく、訳の分からない世界に放り出されて悲嘆にくれるより先に、世奈は口の端に垂れるよだれを自覚したのだった。
三つ目は・・・
「どうせ向こうの世界の奴に、惚れたんだろ。いつもみたいに、ダメな奴に」
「ちが・・・うし。それに何、ダメな奴って」
美形で要領の良い津南にしいたげられてきたことがトラウマとなっているのか、今まで世奈が実際に好きになった人は、美形でもなければ要領もよくなかった。世奈の描く絵と現実の嗜好はまったく別物なのだ。
異世界で世奈が恋心を自覚した相手も、こちら現実世界に連れてくればそれなりに美形だろうが、確かに冴えない存在ではあった。
その彼――先ほど壁に映し出されたダークブルーの髪の男――は、ギャレットという名前の魔術師だった。世奈を召喚した張本人が彼であり、世奈のかかえる不安を一番に理解してくれたのも彼だった。
たぶんあれは吊り橋効果のたぐいだったと分析できる程度の冷静さはあるものの、いまでも彼のことを思い出すと心の表面がしんとなる。
「そいつは定番の王子サマ? それともできの悪い魔術師、とか?」
津南が再び壁の方を指さすようにすると、そこにまた人影が浮かび上がった。
軽度の近眼らしいギャレットは、机の上の物体に顔を近づけるようにして何事かをつぶやいている。ああもう、その独特のしぐさがなつかしすぎる。
それから彼が大きく手をふりかざすと――ボムッと煙があがって物体は炭と化し、がっくりと頭を抱えるギャレットの様子が見えた。
「ふふっ、ギャレット、また失敗だ」
見慣れた光景に思わずつぶやいてしまって、こそっと津南の方を盗み見ると、壁の映像に嫌そうな顔を向けている。
それにしても・・・ギャレットは相変わらずのようだった。彼の行使する魔術は不安定ということだったが、まれに大規模な術を成功させることがあり――世奈の召喚はその一つだ――、また無欲な性格も気に入られていたのか、王族たちとは深い親交があった。
己の術でしょっちゅう髪の毛を焦がしているようなギャレットの許嫁は、そんなわけで王女の一人だった。
美形ぞろいの異世界にあっても、王子や王女ともなればトップオブザ美形、どういうわけかそろいもそろって金髪碧眼の彼らの美しさは半端なく、ギャレットの許嫁もその例外ではなかった。
壁に映し出されたギャレットはどうやら休憩をとることにした模様で、焦げ跡のついた棚から布に包まれた何かを大事そうに取り出している。
机の上にその包みを置くと、ほどきにかかった。心なしかうきうきした様子のギャレットが包みから取り出したのは、あちらの世界にはいかにも不似合いな、色気のない靴下――世奈が召喚されたときに身に着けていたものである。
ギャレットはほっと息をつくと、愛しげな手つきでその靴下をなでさすり・・・
「おいっ」
思わず聞こえるはずのないギャレットに突っ込みを入れると、別の方向から視線を感じる。恐る恐るそちらを見やると、さっきよりもっと嫌そうな顔をした津南と目があった。
「やっぱりこいつか。いかにもな奴だね」
「だから違うって。仮にも私は、王子の正妃として召喚されたんだから」
世奈は言っている自分がむなしかった。よく分からない予言にしたがって召喚され、よく分からない理由を告げられて着々と王子との婚儀が準備されたものだった。召喚が成功しちゃって状態が継続しているからにはそうしなければならないの、とかなんとか。
世奈に分かったことは、ちょっとやそっとの抵抗で、どうにかなる種類のものではないということだけだった。
王子はそれなりに魅力的な人物ではあったが、世奈にとってはただの資料でしかなかったし、こんな訳の分からない異世界人(世奈)と結婚しなければならない高貴な人が、気の毒で仕方がなかった。
そしていよいよ明日には婚儀、という日。世奈はまた突然に、津南によって現実世界に呼び戻されたのだ。王子も民も、さぞかしほっとしたことだろう。
・・・壁に映し出された映像では、ギャレットが慌てた様子で靴下をしまいこんでいた。
そこに、別の人物が近づく。世奈の伴侶となるはずだった、王子サマである。
彼は相変わらずの超絶美形ぶりで、ふつう惚れるならこっちでしょうとあらためて思わずにいられない。と、そこにもう一人の金髪碧眼がはずむような足取りでやってきた。王子サマの妹兼ギャレットの許嫁だ。
彼女がギャレットに寄り添うようにして立ちどまり、世奈が思わず目をそらしたところで、リアルな映像はふっとかき消えた。
後には愛想のない、ただの白い壁。
「あいつをこっちに呼び出してやろうか。丸一日ぐらいなら、向こうで姿が消えても問題ないだろう」
「そんな簡単に言わないでよ。だいたいできるの、そんなこと?」
「できるんじゃないの。世奈をこっちに引っ張ってこれたんだから、理屈は同じだろ」
「じゃないのって。そもそも、何でそんなことをしてくれようと思うの?」
「だから、就職祝い」
怪しい。だいたい津南が、自分に何のメリットもない苦労を引き受けるはずがない。そのうち絶対、呼び戻してくれた分も合算して、倍返しを要求されるに違いない・・・
危険を知らせる警告が世奈の頭で鳴り響いたが、それでもその誘惑には抗しがたいものがあった。
もしもギャレットをこちらの世界に連れてこれたら、と妄想したことがないわけではない。
いやむしろ、妄想につぐ妄想といっても過言ではなかった。
もしもそれができたなら、世奈にはやりたいことがあったのだ。
「め、眼鏡・・・」
知らず、世奈の鼻息も荒くなる。
あちらの世界には、眼鏡というものがなかった。しかして世奈は、眼鏡が好きである。否、正確には眼鏡の似合う人間の眼鏡姿が、もうどうにもこうにも好物なのだった。
ぜひとも、ギャレットに眼鏡をかけさせたい。そう思うあまり、実はギャレットに似合いそうな眼鏡まで用意してあった。度数は分かりようがないので、やはり軽い近眼の世奈に合わせた度でつくってある。
「それじゃあ、ほんの短い時間だけ、呼んでもらおうかな」
世奈はできるだけ何気なく言ったつもりだったが、泳いだ視線の先の津南はしっかりあきれ顔だった。