前編
「はあ、立派な家だね」
林浩司は隣にいる大学三年の息子、潤平がそう言うのを聞いて、確かにと納得した。
目の前に広がるのは豪邸である。と言うと語弊を生むかもしれないが、庶民の感覚で言えば確かに豪邸であった。
面積は広くないものの立派で手入れの行き届いている前庭、その先には比較的新しいものの威厳を放つような屋敷が佇んでいた。
「えっと……何だっけ?」潤平が尋ねてくる。心なしかニヤついているように思えるのは間違いではないだろう。
「上司の息子の嫁の実家だ」
林が言うと潤平は堪えきれずに笑いを漏らした。こんなにも遠い伝手ならば自分たちはここにいるべき人間ではないのかもしれない。
「笑うなよ」林は門に備え付けられているインターフォンを鳴らした。今のうちにコートを脱いでおく。
「暑くなかったの?」
「別に」息子の質問に素っ気なく答える。季節の変わり目で判断を間違い、図星だったからだ。
それを知ってか潤平はクスクスと笑っている。
しばらくして女性の声が返ってくる。年齢はわからない。男性と比べて女性は声だけ聞いても年齢がわからないことが多い。非常に困る。何が困るかと聞かれても困りものだが、困ることは困るのだ。
「駒村警視の紹介で参りました林と申します」
『少々お待ちください』
「僕が来ても良かったのかな?」
「構わん。どうせ非公式だ」
「警察嫌いのお金持ち、か」
そう、彼が警察嫌いでなければ、自分たちはここにはいない。
かく言う林自身も窃盗などを扱う捜査三課の人間であるのだが、彼がここにいるのもその警察嫌いが起因してのことだった。
昨日、この大佐賀家で事件が起きた。部屋の金庫から現金が盗まれたという。本来ならば、警察が公式的に捜査するはずだったのだが、主の大佐賀守道がそれを頑なに拒んだ。
何かやましいことがあるのだろうかと推察するに易い言動だが、周囲の話では本当に単に警察が嫌いなだけらしい。どちらにせよこれ以上は詮索はしない。
警察が嫌いだからといってこれを放置するわけにはいかない。結局、息子の陽介が姉を頼って彼女の旦那の父親、警察官である駒村克彦氏に個人的な協力を要請した。
話によると大佐賀氏はそれすらも渋ったようだが、腹に背はかえられないと思ったのか、了承した。
もちろん駒村警視は困惑した。話を無視して捜査に踏み切っても良かったのだが、旧家である大佐賀家の影響力を考えた末に、機嫌を損ねるのは懸命な判断ではないとして、部下をよこすことにした。それが林である。
息子を連れて来たのは手伝いという名目である。警察嫌いの大佐賀氏に警察の人間を二人も三人も呼ぶのは得策ではないという判断だ。
それともう一つ、潤平ならば早い段階で事件を解決してくれるのではという目算があった。これは過去の事例を参照した次第である。
「くそ、せっかくの非番が……」
そう呟いていると、玄関から女性が出てきて庭を渡ってこちらにやってきた。さすがに聞こえなかっただろうが、一瞬冷や汗が背中を伝う。第一印象を悪くしたくない。
門を開けると二人を中へと促し、一礼した。
「お待たせいたしました。私、家政婦を勤めております佐野佳織と申します。よろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いします」林も頭を下げた。潤平もそれに倣う。
年齢は四十ほどだろうか。肩までの髪を纏めて動きやすいようにしていて、服装も派手なものではなく、家事に特化したものであろうといえる。
近年の妄想の産物である、メイド服などという、至極仕事の効率を落としそうな服装はどこから生まれてきたのだろうか。家政婦を間近に見ると切に思ってしまう。
「佳織さん、ですか。僕の妹と同じだ。字はわからないけど」
「あの……?」
ずいぶんと若い警察官だと思ったのだろう。彼女は首を傾げた。
ちなみに言うと高卒の警察官もいるのだから、潤平よりも若い警官は数多くいる。
「ああ、すみません。息子の潤平です。ご主人が警察嫌いだと聞いたので、あまり部下を連れてきてもどうかと思いまして。代わりの手伝いです。……お邪魔なら帰しますが」
そうは言ったものの、できればそれは避けたかった。別に息子がいないと何もできない駄目親父であるつもりはないが、今回は鑑識すらいない状況で、いつもとは勝手が違うのだ。
仕事の成功率を上げる要因はできるだけ排除したくない。
「そうでしたか。いえ、問題ないと思いますよ」
佐野はそう言うと二人を屋敷へと促し、先導した。
「守道様は警察という組織が嫌いなのだそうです。ですから、警察官個人を嫌うことはありません。ご自分の娘を警察の息子に嫁にということもありましたし」
「はあ、なるほど」
二人は玄関をくぐった。華美な装飾こそなかったが、細部まで手入れが行き届いているようで(といっても細部まで見たわけではないが)格調高いという形容詞を連想させた。
潤平はあたりを見渡しては複雑な表情をしている。何かあるのだろうか。
「どうした?」
「いや、立派なんだけど……。なんていうか、旧家のお屋敷っていうから、部屋が何十室もあって、使用人が大勢いてっていうのを想像してた」潤平は佐野に聞こえない程度に言った。
「お前はいつの時代の人間だ」
「この屋敷はつい何年か前に建てられたんです」聞こえたのだろうか、佐野が説明し始める。「昔は確かに大所帯の大きい屋敷だったそうですが、奥様が入院されて、佳代さんがご結婚なさって家を出て行かれたので、手入れの方が大変になってしまって」
「取り壊したんですか?」
「いえ、よくは知りませんが、国の文化財として保存されているとか」
「……次元が違うな」
「じゃあ、今住んでいるのはご主人だけなんですか?」潤平が尋ねる。
「いえ、息子の陽介さんとあと、五木様という方が。守道様と旧来の仲だそうで」
「居候、ですか」
二人は二階のある部屋の前まで案内された。佐野はそこで一礼して下がっていった。
「お前はここで待ってろ」
林は潤平にそう言い、部屋の扉を叩いた。声が返ってくると一つ深呼吸して部屋へと入った。
「失礼します」
男は窓際にいた。椅子に腰掛けて机越しにこちらを見ている。四十後半か、五十前半ほど、少し太り気味で眼鏡をかけていた。禿げてはいない。
「初めまして。林浩司と申します、駒村警……」
「ああ、聞いているよ」大佐賀守道は林の話を遮って喋りだした。「克彦くんが優秀な部下だと言っていたよ。私はいらんと言ったのだが息子がな」
「息子さんの判断は正しいと思います。こういった事件を素人ひとりで何とかしようとするのは無茶というものです。ただ、私一人でできることとなるとかなり限られてきます。鑑識班すらいないのですから」
「どうせ指紋など出ないだろう」
指紋採取だけが鑑識の仕事ではないのだが、この男には何を言っても無駄だろうと、何となくわかった。初対面ということもあるが、最初から言葉に棘があった。やはり、警察が嫌いなのだろう。
「まあ、こちらとしては現金が返ってくれば何も問題はないがね。被害は金庫に入っていた二百万だ。それだよ」彼は林の肩の先を指差した。
林が振り返るとそこには無残にも壊された金庫がそこにあった。鍵の部分は無理矢理こじ開けられたような傷があったし、あちこちへこんでいた。
「そんな大金……やはり警察に任せた方が良いのではないですか?」彼の総資産は知らないが、おそらくは実際のところはした金ではないだろうか。だが、普通の金銭感覚を持っていれば確かに大金である。
「君に任せた。君は警察ではないのかね?」
「屁理屈は止めませんか」
「ふん。私だって馬鹿じゃない。犯人は絞られてるんだ」
「家の人間を疑っているのですね」
「ああ、君もわかってるじゃないか。私だって金は惜しい。とにかく何とかしてくれ。とりあえず概要を話そう」
「どうだった?」部屋から出るなり潤平が笑みを湛えながら聞いてきた。
「どうもこうも。本当に俺たちで何とかしなくちゃいけないようだ」
「それは大変だ。状況は?」
林は大佐賀から聞いた情報を伝えた。
「ああ、なるほど。確かに内部犯の気がするね」
「大佐賀氏が金庫の金を確認したのが昼のの一時過ぎ。それから外出して四時過ぎにいったん帰宅したときに異常に気づいたそうだ。その間に屋敷にいたのは三人だけだそうだ。さらには入れ替わり立ち代わり屋敷には誰か彼かいたそうだ」
「その三人のうちの誰かが犯人だって言いたいんだね」
「そういうことだ。外部から何ものかが侵入して気づかないはずがないからな。まずはその三人に話を聞くしかないな」
佐野佳織は急ぐこともなく、それでいて遅すぎることもなく淡々と昼食の後片付けをしていた。
頭の中にはこの後のスケジュールがびっしりと詰まっている。食器類を片付け、洗ったあとは各部屋の掃除、それが終わると夕食の買出し。言ってしまえばそれだけなのだが詳細にわたって記そうと思えばもっと複雑で労力のいる仕事ばかりである。
屋敷の主である大佐賀守道は昼食のあとすぐに出かけていった。行き先は知らないが詮索するのは家政婦の仕事ではない。
今この屋敷にいるのは自分と居候の五木正樹だけのはずである。守道の息子の陽介は大学に行っているはずだ。
食卓では五木が丁度席を立つところだった。彼は守道氏の友人らしいがどう見ても彼よりはずっと若い。
「あ、ご馳走様です。いつも、なんだかすみません。居候の分際で」五木は苦笑いしつつ礼を言った。彼は三日に一度は謝罪しているのではと思うほど腰が低い。
「いえ、いいんですよ。仕事ですから」
「すみません」彼はもう一度謝った。「この後はお掃除ですか」
「ええ、また読書ですか?」
「はい。守道さんの書斎で。あそこは僕がやっておくんでいいですよ」
「そんなわけにはいきません。読書が終わりましたら言ってください。それよりうるさくないですか? 掃除機の音とか」
「ああ、それなら大丈夫です。耳栓をしてますから」
以前に何度か聞いた話ではあったが、彼は読書の時には耳栓をするのだそうだ。その方が集中できるらしい。
五木は頭を下げると出ていった。
佐野は昼食の後片付けを終えると屋敷の清掃に取り掛かる。これが業務の中で一番の重労働である。そのため五木の提案は相当に嬉しいものではあるが、仕事上そうはいかない。
一時間以上かけて清掃を済ましたが書斎から五木が出てくる気配はなかった。仕方ないので先に夕食の買出しを済ましてしまおうと思いたつ。
準備をして玄関をでると丁度陽介が帰ってきたところだった。
「お帰りなさい。今日は早いんですね」
「まあ、大学なんてこんなもんすよ。買出しすか?」
「ええ」
「大変すね」
「いえ、仕事ですから」最近はこれが口癖のようになっているようだった。
陽介とはそれだけの言葉を交わして佐野は門をくぐった。
帰宅したのは四時半ころだっただろうか。そこで血相を変えた雇い主を見たのである。
「……というくらいですけれど」
林は佐野佳織から聞いた話を要点をまとめて手帳にメモした。潤平は腕を組んで何やら考えに耽っているようだった。
「なるほど。では買出しに出かけた時間を覚えていますか?」
「確か……三時を少し過ぎたころだったでしょうか」
「その間に何か不審なものを見たとか聞いたとかは?」
「いえ、なかったです」
「掃除をしたということですが、問題の部屋には入らなかったのですか?」
「あの、あの部屋だけはいつも掃除しないんです。他の場所ならともかく、自分の部屋の物を動かされるのが嫌だそうで」
ずいぶんと嫌いなものの多い人間だと林は思った。
「わかりました。お手数をおかけしてすみません」
「あっ、ちょっと待ってください」潤平が待ったをかける。「僕たち、と言うか、えっと、何だっけ?」
「駒村警視だ」
「そう、駒村警視に相談したのは陽介さんでしたっけ?」
「あ、はい。でも提案したのは五木様だったと思います」
「ああ、そう、その五木さんなんですけど。どういう経緯でここに住んでいるんですか?」
「さあ、すみません。わからないです。……もういいですか?」
佐野は頭を下げると足早にその場を去っていった。仕事が溜まっているのだろう。
「まだ何もわからないね」
「ああ、次はどちらに話を聞くかな」
ふと廊下を歩いている大佐賀陽介を見つけたので、自己紹介をして話を聞くことにした。
大佐賀陽介は家に入るなり、自室に篭った。やらなければならない大学の課題があったからだ。
大学に入れば遊び放題だという幻想は大学に入学してすぐに消え去った。しかし、抱いていた幻想は半分は真実であるということにも気がついた。
つまり、自分の想像していた大学生活を送っている者も多いが、総じて彼らは半期ごとに単位の心配をし、結局のところ留年し、最終的には就職にも失敗するという、言ってしまえば自堕落な人間のことであった。
そういった人間にならないためには幻想を捨てるほかなかった。
かといって、大学の授業が役に立つかと問われれば首を捻らざるを得ない。結局は自己の成長よりも、単位のため、学歴のために勉強、否、課題という作業をこなしているにすぎない。
家柄には興味がない。父親の仕事を継ぐ気もない。だが、だからこそ父親を黙らせるためにも学歴が必要だった。そのための勉学である。
席を立ち部屋を出る。父の書斎に課題の参考になりそうな資料があるかもしれないと思いたったからだ。
特にノックもせずに書斎の扉を開ける。
「わっ! いたんですか」
陽介は驚き声を上げてしまう。五木がいるとは思っていなかったからだ。彼は窓際のソファに腰掛けて本を読んでいる。
「すいません。ちょっと本を探しにきたんで」
陽介は謝るが、五木の反応は乏しい。どうしたのかと思っていると、五木は耳に手をかざして、耳の中から何かを取り出した。
「ごめん。何か言った?」
「ああ、耳栓してたんすか。いや、ちょっと本を探しにきたんすよ」
「ああ、なるほど」
「いつも耳栓してるんすか?」
「うん。その方が集中できるからね」
「へえ、そうすか」
しばらく本棚を物色し、適当そうな本を数冊持って書斎を後にした。
その後自室に再び篭りしばらくして、父の怒号を聞いたのである。
「そのくらいですよ。俺が言えるのは」半ば迷惑そうな口調で大佐賀陽介は言った。「俺は何も見てないし聞いてないんですよ」
「断言できますか?」
「断言って言われても困りますよ。少なくとも俺は見てない聞いてない。それしか言えないですよ。もういいですか?」
「あ、ちょっといいですか?」潤平が口を挟んだ。「いつも昨日くらいの時間に帰って来るんですか?」
「いや、日によって変わるよ。大学なんてそんなもんじゃないすか。刑事さんだって大学行ってたでしょう?」
どうやら彼は潤平が年上の警察官だと思っているようだ。
「ええ、わかりますよ」
潤平は間違いを正す気はないらしい。笑みを絶やさずに肯定した。
最後に庭にいた五木正樹に話を聞いたのだが、佐野佳織の証言と大佐賀陽介の証言となんら変わらなかった。彼らと接触のなかった時間は全て書斎で本を読んでいたという。トイレにも行っていないらしい。
「いやあ、困ったことになりましたね。やっぱり僕が一番疑われてますよね」彼は事件の深刻さに比例しないような軽い口調で言った。超然主義とはこういったことを言うのだろうか。
「どうしてです?」
「そりゃあ、僕が現場の隣の書斎にいたからですよ。聞いてないんですか?」
「……書斎にいたのは聞いていましたが」書斎が現場の隣だというのは初耳だった。正規の仕事ではないにせよ気が抜けているのかもしれないと、林は自分を戒める。もっと気を入れなくては。
「何も聞いていないんですか?」佐野と陽介から既に話は聞いていたので返答は想像できたが、念のため尋ねた。
「あ、いえ。実はですね、僕は読書のときは耳栓をするんです。ですから隣でドンチャン金庫を壊していても気がつかなかったかもしれないんですね、これが」
予想通りの答えだった。一応彼自身の答えとして手帳にメモする。
「いつも書斎で読書するんですか?」潤平が尋ねる。先ほどから各人に質問しているが、それが事件に繋がるのか正直林にもわからなかった。
「ええ、まあ。毎日というわけじゃないですけど、あ、でもここ最近は毎日ですね」
五木に礼をいい、彼がその場から去ると林はため息をついた。
「佐野佳織と大佐賀陽介は入れ替わりで屋敷を出入りしているし、五木正樹は常に書斎にいた。常に屋敷には二人いたことになるから、犯行は無理じゃないか」
「えっと、金槌と耳栓を用意してもらってもいい?」突如潤平が言い出した。
「金槌と耳栓? 別に構わんが……。何かわかったのか?」
「まあ、ちょっと。あと、用意している間に三人の部屋を拝見させてもらいたいな」