第五話:帝
「ぐすっ・・・・・・えぐっ・・・・・・」
「ん・・・・・・?」
―――深夜。
少女が泣く微かな声に、帝は目を覚ました。
ふすま少し開けて、その隙間から隣の部屋を覗くと、そこには布団の上で身をうずめてすすり泣く幼い少女の姿があった。
「うぇぇん、お兄様ぁ・・・・・・」
「立花。また、怖い夢でも見たのですか?」
帝は、立花の傍らに腰を下ろすと、立花の顔を覗きこむ。どの位、泣いていたのだろうか。目を真っ赤にした立花はぐずりながらも、こくりと頷いた。
―――立花が龍禅寺家に引き取られて、はや半年。
両親を失ったショックからか、他の誰とも打ち解けようとせず、新しい家族に大してもよそよそしいしい態度だった立花も、近頃はようやく活気を取り戻し、元気な姿を見せるようになったと思っていたのだが・・・・・・夜になると両親の事を思い出して、よくこうやって泣いていた。そんな時は決まって、帝は妹が落ち着くまで、傍に居てあげた。
「大丈夫ですよ、立花を傷付けるような悪いやつは、此処には居ませんから。」
「でも、でもっ!また『あいつ』が現れたら・・・!」
立花の両親を死に追いやった、『人ならざるモノ』の事だ。その時の夢を見てしまったのだろう、立花はひどく怯えた様子だった。
帝は震える立花の肩に手を置き、妹を落ち着かせるように優しく語りかけた。
「もし、そんなやつが現れたら、その時は、私がやっつけてあげます。だから、安心して寝なさい。」
「う、う・・・うわぁぁぁん、お兄様ぁ・・・・・・」
「おやおや・・・しょうがない子ですねぇ。」
安心させるつもりでかけた言葉だったが、立花は余計に泣き出しまった。兄の胸にすがりつくそんな妹を、帝は赤ん坊をあやすように優しく背中を撫でた。
しばらくの間そうしていると、やがて泣き疲れたのか、立花はそのまま、すやすやと寝息を立てて眠ってしまった。帝は立花を起こさないよう、そっと布団の上に寝かせると、布団をかけてあげた。
「おにぃ、さまぁ・・・・・・」
その安堵に満ちた寝顔を見ると、思わず帝の頬が緩む。
母親を早くに亡くし、厳格な父の元で育った帝は、人付き合いがあまり上手いほうではなかった。友人と呼べる者も少ないそんな帝にとって、養女として迎えられた立花は、いつしか唯一心を許せる相手になっていたのだ。
十五歳の帝はこの時、固く胸に誓った。
この純粋無垢な妹を、生涯自分が守っていこうと。
―――けれど、その三年後。
帝と立花の境遇を大きく変える出来事が起こった。
「何故、私では駄目なのです、父上!」
帝の声が、龍禅寺の屋敷の中に響く。
帝の父、尊が、龍禅寺家の後継者を決める為に、一族の者達を屋敷に集めたその席で。
―――父は後継者に、立花を指名したのだ。
「お前では、無理なのだ・・・・・・いかに、剣の腕が立とうとも、それだけでは、奴等とは戦えん。」
息も絶え絶えに、座敷の中央に敷かれた布団に横たわり、尊は言う。その体は異形の者達との戦いで激しく傷つき、全身の至る所に施された手当ての後が痛々しい。傍らには白衣を纏った年配の医者が常に付き添っており、容態は依然として予断を許さない状態だ。
代々、血筋によって受け継いできた龍禅寺家の者達にとって、立花が指名された事は想定外の事だった。それほどに、立花の退魔師としての素質は、若干十歳にして既に天武の才と言っていいほどの域に達しており、一族の誰の追随をも許さぬほどだったのだ。
だが、帝は納得出来なかった。
「立花は、まだ十歳なのですよ!?いくら退魔師としての素質が優れていると言っても、こんな女の子に、お父様は異形の者達と戦えと仰るのですか!それに、龍禅寺家の血を引いていない者が、家督を継がせるだなんて、そんな話、聴いた事がありません!」
「・・・・・・今すぐに、立花に家督を継がせようとは言わん。立花が十八になるその時まで、他の者に・・・・・・家督を預けておけばよかろう。」
「そんな・・・・・・!では、その後はどうなるのです!?」
「別に、良ろしいんじゃありませんの?」
横たわる尊を挟んで反対側に座る、ウェーブのかかった長い金髪の女が、爪にマニキュアを塗りながらそう吐き捨てた。目の前で人の親が死に掛かっていると言うのに、この女には、そんな事はまるで興味がないかのようだった。叔父の長女・龍禅寺 明である。
「明姉さん・・・・・・本気で言ってるのですか。」
帝の疑心暗鬼の眼差しが聖に向けられる。
「まあ、妥当だろうね。実際、その娘には僕らじゃ束になっても敵わないし。」
その横に座る、色白で細身の眼鏡面の青年―――末っ子の龍禅寺 聖が、髪をいじりながら呟く。
「あらぁ?もしかして、帝ちゃんったら、自分が家を継げないのが、悔しいのかしらぁん?」
そのさらに隣の、長身で短髪の体格の良い男―――長男の龍禅寺 皇が、身をくねらせながら、気持ちの悪いオネエ言葉で言う。
龍禅寺家の一族は代々、退魔師を生業としてきた。当主以外の人間以外でも退魔師となる事は出来るが、それを選択するかは本人の自由だ。現に、明や皇は、退魔師としての資質は優れているものの、兄妹でブランド会社を共同経営していると聞くし、まだ学生である聖も、将来退魔師になる気はさらさら無いらしい。
だが龍禅寺を継ぎ、当主となった人間には、それが許されない。『人ならざるモノと戦い、世の理脈を正す』という使命を背負って、生涯その身を異形の者達との戦いに捧げなければならないのだ。
「そんなに不服だって言うなら、帝兄さんが家督を預かったらどうだい?まぁ、立花が十八になるまでだから・・・・・・あと八年の間って事になるけど。それだけ当主気分を味わえれば、十分でしょ?」
聖が嘲るように言う。
「意義なし。」
「アタシはどちらでもいいわよぉ~。」
明と皇は、もはや他人事だ。
「くっ、お前達・・・・・・!」
この者達は、龍禅寺家を継ぐ事がどんなに過酷な事なのか、良く知っている。知った上で、自らが重荷を背負う事を嫌って、立花にそれを負わせようとしているのだ。帝にはその事が許せなかった。
そんな兄を察したのか、すぐ傍で静聴していた立花は、兄の肩にそっと手を置いた。
「いいんです、お兄様。私、龍禅寺を継ぎます。」
「立花・・・!自分が何を言っているのか、判っているのですか!?」
立花は目を閉じて大きく深呼吸をした後、その決意の眼差しを帝に向けた。
「龍禅寺家に引き取られたときから、こうなる事は覚悟していました。だから、どうか安心してください、お兄様。私が成人するまでに、修練を積んで・・・・・・龍禅寺家の勤めを、立派に果たして見せます。」
「ほら、本人もそう言っているじゃありませんの。これで何も問題はないでしょう?」
「話がついたんなら、僕らは帰るよ。これでも結構忙しいんだ。」
「それじゃ、またね、帝ちゃん。立花ちゃん。それと、尊おじ様。」
龍禅寺三兄弟はそう言い残すと席を立ち、そそくさとその場を後にした。
嵐が去ったかのように静まり返る座敷に、帝と立花、横たわる尊、そして彼の看護をする、老医だけが残される。
「お父様は、本当にそれで宜しいのですか。」
こみ上げる怒りを抑えながらも、帝は父に尋ねる。
「帝よ、妹を気にかける、お前の気持ちも判らんでもない。だが、お前は戦いをするには優しすぎる。このワシも、敵に情けをかけたばかりに、この有様だ。奴等との戦いでは、その優しさが命取りになりかねん。それに・・・・・・あの三人だけには、家督を継がせるわけにはいかんのだ。」
父の言い分も少しは判る。もし、あの人格の歪んだ三兄弟の誰かが選ばれれば、龍禅寺家は滅茶苦茶になってしまうだろう。けれど、かといってその代わりとして立花を後継者に立てようとするのを、帝は黙って見過ごすなど出来なかった。
「し、しかし・・・・・・!」
必死に父に食い下がる帝に、立花は制すように言う。
「お兄様。私の事なら、本当に大丈夫ですから。」
そ立花は無理に笑顔を作って、帝に微笑んで見せた。
帝にはそんな妹の顔が、どこか悲しげに見えて―――
「くっ・・・・・・!」
「! お兄様!」
いたたまれなくなった帝は、妹の制止も聞かず、無言でその場を後にした。
帝は、屋敷の周囲を取り巻く竹林の中のにある、古い小さな社がある広場に足を運んでいた。 立花と、よく遊んであげた場所だ。帝は社の前の石段に腰を下ろし、深くため息をつく。
澄み渡った秋の空を見上げて、流れる雲をただぼんやりと眺めていた。
―――帝は自分を責めていた。
帝にとって、家を継ぐ事などどうでも良かった。しかし、立花がこのまま後継者になってしまえば、彼女はかの異形の者達と戦う使命を、一生その身に背負って生きていく事になる。もし、そうなってしまったら、立花を守ってやれる自信が、帝には無かった。
立花だって、両親を奪った彼らと戦う事が怖くない筈がない。出来る事ならば、妹にそんな復讐まがいな事はさせたくなかったし、むしろ自身がその役目を背負って生きて行く覚悟があった。
―――けれど、それは許されなかった。
帝にはそのような退魔師としての能力は何一つなかったのだ。
勿論、努力はした。退魔術を得るため、肉体、精神共に極限まで鍛え上げ、ありとあらゆる修練を試みた。そのため帝は一族最強よ謳われるほどの剣の腕を身に付けることは出来たが、退魔術を習得するに至る事は無かった。
「くそっ!」
帝は地面に拳を打ち付ける。何よりも、自分の無力さが許せなかった。
「私に、力があれば・・・・・・」
そうだ。力さえあれば。
立花を守ってやれる。妹に重い使命を背負わせる必要もないのだ。
「もし、そんなやつが現れたら、その時は、私がやっつけてあげます。」
あの夜、立花に対して、軽々しくそう口にした言葉が悔やまれた。
―――立花に、嘘をついてしまった。そんな力なんて、本当は何処にも無かったのだ。
どうしようもない無力感に打ちひしがれて、帝はただ深くうなだれた。
『―――・・・ガ・・・・・・欲・・・カ・・・―――?』
「! 誰だ!?」
突然聞こえた謎の声に、帝は我に返って周囲を見渡すが、声の主らしき人物は何処にも見当たらない。
『―――力ガ・・・・・・欲シイ・・・カ・・・・・・―――?』
再び声が聞こえ、帝は背後を振り向いた。声は社の中から聞こえてくるような気がしたのだ。
龍禅寺の所有であるこの社は、普段は人が入れないよう、厳重に封鎖されているはずだが、この日は何故か鍵が外されていて、帝が戸を引くと簡単に開いた。内部に入る事は父・尊に固く禁じられていて、帝はさすがに入るのを躊躇ったが、謎の声の事も気になるし、父もあんな状態だ。それに鍵を外した無法者が中が居るかもしれないという事を考えると、そんな事を気にしている場合ではなかった。
意を決し、帝が扉を開くと―――
「むっ・・・・・・!」
内部へと足を踏み入れた瞬間、その場に漂う異様な気配を感じた帝は、咄嗟に身構えた。
警戒しながら、周囲を目をやる。ひどく寂れた社の内部には、ただ一振りの、鞘に収められた刀が神棚に奉られている以外、他には何も見当たらない。しかしそう広くない社の内部には、『それ』を中心に、何故か微かな風が渦巻いており、そのせいだろうか、外よりも随分肌寒く感じた。
帝がおそるおそる近付くと、『それ』は吸い込まれるような淡い瑠璃色の光を放ち始めた。
その常軌を逸したな光景を目の当たりにし、流石に驚いた帝だったが、それに一つだけ心当たりがあった。
「まさか、これが『斬鬼丸』・・・・・・?こんな場所にあったのか・・・・・・」
龍禅寺家に代々伝わる、龍禅法師が使ったとされる妖刀。それが、こんな所に奉られていたとは、帝にも知らされてはいなかった。
『―――力を求めるならば、我を手にするが良い―――』
今度ははっきりと聞き取る事が出来た。間違いない、声の主は、この『斬鬼丸』そのものなのであろう。 だが、『斬鬼丸』が放つ異様な気配は、間違いなく『人ならざるモノ』のそれであった。
帝は躊躇いつつも、『斬鬼丸』に声をかける。
「お前は、何者だ?『人ならざるモノ』ではないのか?」
『―――我が何者か、そんな事は、どうでも良い事。汝の力を欲する心が、我を悠久の眠りから呼び醒ました。我を手に取れ。さすれば、汝は力を得るであろう―――』
「正体すら明かさぬモノの言葉を、信じろと?」
『―――信じるほかに、汝に道は無いはずだ。愛する者を、守りたいならばな―――』
「!・・・・・・何故それを・・・・・・」
『―――我には判る。汝が何の為に力を欲すのか。迷いを棄て、我を手に取るのだ。お前の求める力が、此処には在る―――』
帝は静かに目を閉じる。
―――そうだ。何を迷う事がある?この声の正体が相手が何者であろうが、この際どうでもいい。たとえそれが龍禅寺家にとって忌むべき相手であったとしても、それが何だ。彼らを討ち倒すという使命が、何だと言うのだ。そんな役にも立たない誇りや、無駄に歳月を重ねただけの古臭いの伝統をいくら重んじたところで、それが大切なモノを守ってくれたことが、今までにあっただろうか?
否。
その龍禅寺の誇りや伝統が今、妹を・・・・・・立花を縛り付け、修羅の道に駆り立てようとしているではないか。
正直、ワラにもすがりたい気持ちだったが、仮にこれが罠で、最悪自分が死んでしまったとしても、立花を守る術もないまま、ただのうのうと生きるよりは、遥かにマシだとさえ思えた。目の前の微かな希望に賭けてみたかったのだ。
もし、『斬鬼丸』を勝手に持ち出した事が知れて、一族を追放されても文句は言えないだろう。だが、そんな事は今の帝にとっては些細な事だ。
今、必要なのは『力』だ。
かけがえの無い人を守る為の。
帝の目がゆっくりと開く。
「本当に、力を・・・・・・手に入れることが出来るのか?」
『―――それは保障しよう。ただし、汝が我を使いこなせればの話だが―――』
「それが出来なければ、所詮私はその程度だったという事です。その時は私の魂を食うなり、好きにするが良い。」
その意を決したその表情に曇りは無かった。
そして、帝の手が『斬鬼丸』に触れた時。
「おおおおお・・・・・・!」
全身に電流が駆け巡るような感覚に帝を襲った。
視界が真っ白に染まってゆく中、『斬鬼丸』の確かな声が、帝の脳髄に直接突き刺さるように語りかけてきた。
『―――よくぞ、我を手にした。“龍桔斎”の血を引く者よ。もし、汝がさらなる力を欲するならば、異形の者達と戦い、その魂を我が糧として与えるのだ―――』
「ここは・・・・・・」
気が付くと帝は、良く見慣れた部屋の天井を見上げていた。
龍禅寺家の屋敷の、自分の部屋である。帝は畳の上に敷かれた布団の上で寝かされていた。
どれ位、眠っていたのだろうか。照明は消されていて、窓から差し込む月の光がだけが、座敷の中を照らしていた。
「うぐっ!」
帝はゆっくりとその身を起こすが、軋むような痛みが全身を貫き、思わず布団に身をうずめた。その時帝は初めて、自分の体の至る所に包帯が巻かれている事に気が付いた。
現状が全く理解出来ず、帝は記憶を辿ろうと試みる。
「私は・・・・・・はっ!」
―――そうだ、自分は神社の近くの林の中で、あの白き麗獣・・・・・・白夜と戦っていたはずだ。
それで、どうなった・・・・・・?
記憶にもやがかかっていて、どうしてもそれ以上のことは思い出せない。
だが、一つだけ。
帝の脳裏に鮮明に刻み付けられた、ある光景が浮かび上がった。
―――それは『斬鬼丸』が砕け散った、最期の瞬間。
敗北の瞬間であった。
「・・・・・・『斬鬼丸』が、負けた・・・・・・。」
確かめるように、帝は自らそう口にした。
―――けれど、何故だろう。そこには、こみ上げて来るはずの屈辱感や失望感といった感情はなく、その心は清々しさすら感じられる開放的な気分で、自分でも驚くほど平静で居られた。
ふと、部屋の窓の縁に腰掛ける人影に気付く。巫女装束に身を纏っている少女を見て、一瞬立花かと思ったが、彼女より背が随分低く、髪の色も目の覚めるような白だ。
「気が付いたか?」
そこには、巫女装束を纏った白夜の姿があった。