表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

熱中症で倒れた女性配信者を助けたら、目を覚ました彼女に「わいせつされた」と通報された

作者: 熾星
掲載日:2026/08/19

 人命救助をした翌朝、大学時代の友人・拓海から一本のメッセージが届いた。

「直人、お前、ずいぶん派手なことになってるぞ」


 送られてきたニュース記事には、俺が女性の胸元に手を伸ばしているように見える写真が載っていた。


 【現役医師、意識を失った女性配信者にわいせつ行為か】


 相手は、向かいの部屋に住む人気配信者・星野莉奈。


 屋上で熱中症を起こして倒れた彼女を、俺は救急科医として助けただけだった。


 だが、目を覚ました莉奈は俺を殴り、そのまま警察へ通報した。


 数日後、俺は病院から自宅待機を命じられ、ネットでは「性犯罪者」として叩かれていた。


 そして一週間後の深夜。


 玄関のドアを激しく叩く音がした。


「高橋先生! お願い、開けて! 母が倒れたの!」


 ドアの向こうにいたのは、俺を犯罪者にした張本人だった。



1



 あの日、神奈川県には熱中症警戒アラートが出ていた。


 連続していた夜勤がようやく終わり、久しぶりの休日だった。俺の住むマンションには住民が利用できる共用の物干しスペースが屋上にあり、外壁工事の影響もあって、その日は洗ったシーツをそこまで干しに行っていた。


 最後の洗濯ばさみを留めたところで、少し離れた場所から鈍い音がした。


 振り返ると、ヨガマットの上に女性が倒れている。三脚に固定されたスマートフォンはそのままで、ライブ配信も切れていなかった。


 倒れていたのは、向かいの部屋に住む星野莉奈だった。


 二十三歳。TikTokやInstagram、YouTubeで美容やトレーニング、日常生活に関する動画を発信している。半年前に引っ越してきてから何度か廊下ですれ違ったことはあったが、軽く会釈する程度の関係だった。


 俺はすぐに駆け寄り、肩を叩いた。


「星野さん、聞こえますか?」


 反応はない。


 皮膚は異様なほど熱いのに、顔色は悪くなり始めていた。呼吸を確認したが、胸や腹部に正常な動きは見られず、脈もはっきりとは触れない。


「誰か119番を! 一階のAEDも持ってきてください!」


 階段のほうから返事が聞こえた。


 俺自身もスマートフォンをスピーカーにして119番へ住所と状況を伝え、そのまま胸骨圧迫を始めた。三十回圧迫したところで気道を確保し、人工呼吸を行う。


 屋上にはほとんど日陰がなく、床は焼けるように熱かった。俺は心肺蘇生を続けながら、駆けつけた住民に水や濡れタオル、保冷剤を持ってきてもらった。


 莉奈は体に密着するスポーツトップとコンプレッションレギンスを身につけていた。このままでは十分に体温を下げられないため、上着を緩め、管理人が救急箱から持ってきたレスキューシザーでレギンスの外側を一部切り開いた。


 周囲の住民にも手伝ってもらい、首や脇などを保冷剤で冷やし、濡らしたタオルと送風で体温を下げていく。


 五回目の胸骨圧迫の途中で、莉奈が突然むせた。


 すぐに手を止めて状態を確認する。


 呼吸が戻っていた。


 まだ浅いが、正常な呼吸が確認できる。俺はそのままそばで意識と呼吸を観察し、数分後、莉奈はゆっくりと目を開けた。


 最初はぼんやり空を見上げていた視線が、やがて俺の顔へ向く。そして自分の体に目を落とした。


 スポーツウェアの襟元は緩められ、レギンスの片側は切られている。そのすぐ横に、俺が膝をついていた。


「パァン!」


 何が起きたのか理解するより早く、頬に鋭い痛みが走った。


 莉奈は服をかき集めるように押さえながら、後ずさった。


「何してるの! 近づかないで!」


「さっき意識を失って、正常な呼吸もなかったんです。俺は医師です。救命処置をしていました」


「救命処置で、どうして服をこんなにする必要があるの?」


「重度の熱中症では、すぐに体温を下げる必要があります。それに、あなたは――」


「触らないで!」


 莉奈は三脚のそばに落ちていたスマートフォンをつかんだ。そこで初めて、ライブ配信がまだ続いていることに気づいたらしい。


 だが、過去の映像を確認することもなく、そのまま110番した。


「横浜市内です……意識を失っている間に男に体を触られました。服も切られてます。相手は向かいの部屋に住んでる人です」


 俺はそれ以上近づかなかった。


 十数分後、救急隊と警察官が相次いで到着した。莉奈は救急隊に引き継がれ、そのまま病院へ搬送された。


 現場には警察官が残り、屋上の状況や、集まっていた住民から事情を確認していった。そのうちの一人が俺のところへ来た。


「高橋さん、もう少し詳しく事情を伺いたいので、警察署までご同行いただけますか?」


 任意同行だった。


 手錠をかけられたわけでも、逮捕されたわけでもない。


 それでもパトカーのドアが閉まった瞬間、容疑をかけられるというのがどういうことなのか、初めて実感した。


 警察署では、その日の出来事を最初から説明した。


「俺は救急科医です。呼びかけに反応がなく、正常な呼吸も確認できませんでした。行ったのは一次救命処置と、熱中症に対する緊急の冷却です」


 事情聴取を担当した中村刑事は判断を口にせず、時間、場所、どのような身体接触を行ったのか、なぜ服を切る必要があったのかを何度も確認した。


 数時間後、俺は帰宅を許された。


 翌朝、病院から呼び出しがかかった。


 会議室には藤原院長と事務部門の責任者が座っていた。机の上には、ネット記事を印刷した紙が何枚も置かれている。


 院長は一晩ほとんど眠っていないような顔をしていた。


「高橋君。現在も警察が確認を続けている段階で、病院として君に不適切な行為があったと判断したわけではない。ただ、性的な被害を訴えられていて、氏名や勤務先まで広まっている。患者さんへの影響と君自身を守る意味も含めて、事実関係が確認できるまで救命救急センターの勤務から外れてもらう。しばらく自宅待機だ。懲戒処分ではない」


 俺はしばらく返事ができなかった。


 医学部を卒業し、医師国家試験に合格した。二年間の初期臨床研修を終えた後、救急科の専門研修へ進み、救急医療に携わり続けてきた。


 十年近く積み上げてきた医師としての生活が、人を助けたことで止まるとは思ってもいなかった。


 会議室を出ると、ナースステーションが妙に静かだった。


 何人かのスタッフと目が合ったが、すぐに視線をそらされた。廊下の角を曲がったところで、小さな話し声が聞こえてくる。


「ニュースの人、本当に高橋先生なの?」


「相手が警察に届けたんでしょ?」


「向かいの部屋に住んでたらしいよ。屋上では二人きりだったって」


 俺は振り返らなかった。



2



 帰宅してから、初めてネット上の反応をまともに見た。


 Xのトレンド上位には俺の名字が出ていた。莉奈の配信から切り取られた画像が大量に拡散され、その中でも特に広まっていたのが、拓海から送られてきた一枚だった。


 俺の手が莉奈の胸元にあるように見える。


 もう一枚は、人工呼吸のために顔を近づけている瞬間だった。


 前後の経緯は何もない。


 その夜、莉奈は病衣姿でライブ配信を始めた。


 顔色は悪く、目元も腫れている。しばらく何も言わずにカメラを見つめたあと、ゆっくり口を開いた。


「家の近くに住んでいる人なら、普通は信じていいと思っていました。でも、目を覚ましたら服を開けられていて、レギンスまで切られていたんです。その人が私の体のすぐ上にいて……今はあのマンションに戻ることさえ怖いです」


 コメント欄が一気に流れ始めた。


 【最悪。】


 【こんな人が医者なの?】


 【名前を公表すべき。】


 【絶対に示談しないで。】


 決定的だったのは、その直後に公開された短い映像だった。


 俺がスポーツウェアの襟元を緩めるところから始まり、レギンスを切り、最後に人工呼吸のため顔を近づける。


 わずか数十秒。


 胸骨圧迫も、119番への通報も、周囲へ助けを求めているところも、他の住民が集まってきた場面も、すべて切り落とされていた。


 そこに重たいBGMとスローモーションまで加えられている。


 事情を知らなければ、別の意味に見えてもおかしくなかった。


 俺は途中で音を消した。


 間もなく、莉奈が所属するインフルエンサー事務所も公式Xで声明を出した。担当マネージャーの佐伯真紀名義だった。


「弊社は所属クリエイターを全力で守ります。女性の身体と尊厳を侵害する疑いのある行為を決して容認しません。現在、星野本人による警察への届け出を支援しており、今後も捜査に全面的に協力してまいります」


 それから、俺の携帯番号や勤務先、住んでいるマンションまで次々と特定された。


 罵倒、嫌がらせ、脅迫じみたメッセージが止まらない。


 両親にも影響が及んだ。


 母から電話が来たとき、声はいつもより低かった。


「直人、本当は何があったの?」


「救命処置と関係ないことは何もしてない」


 しばらく沈黙が続いた。


「だったら、一人で抱え込まないで。弁護士が必要なら、ちゃんと頼みなさい」


 電話を切り、もう一度パソコンを開いた。


 莉奈のフォロワー数は目に見えて増えていた。二日も経たないうちに数十万人単位で伸び、企業案件、ネット番組への出演依頼、取材の申し込みが次々と届いているらしい。


 次のライブ配信では、佐伯が画面の外に同席していた。


 莉奈はカメラに向かって頭を下げた。


「信じてくれた皆さん、本当にありがとうございます。こういうことを話すのは恥ずかしいし、怖いです。でも、私の経験が一人でも多くの女性に自分を守ることの大切さを伝えられるなら、それだけでも意味があると思っています」


 俺はそこで配信を閉じた。


 翌日、同じマンションの一つ下の階へ向かった。


 そこに住んでいるのは黒川修司。五十代の弁護士で、横浜で長く弁護士業をしている。


 以前、マンション管理組合の問題で少し話したことがあり、そのときに連絡先を交換していた。


 黒川先生は玄関に立つ俺を見ると、ネットの記事については何も言わず、黙って部屋へ通してくれた。


 俺は一連の出来事を最初から説明した。


 黒川先生はメモを取りながら聞き終えると、いくつか確認した。


「屋上に防犯カメラは?」


「出入口にはあります。設備側にあるかどうかは分かりません」


「彼女はライブ配信中だったんだな?」


「はい」


「元の配信データは残っている?」


「公開アカウントからは消えています。今出回っているのは切り抜きだけです」


 黒川先生は手帳を閉じた。


「いいか。これからネット上では一切反論するな。DM、脅迫、記事、本人や事務所が出した投稿は全部保存する。マンションの映像は俺から管理会社に連絡して、すぐ証拠保全をかける。それと、本人やマネージャー、事務所の人間から連絡があっても、一人では会うな」


 その日のうちに、黒川先生は管理会社へ正式なデータ保存要請を出した。


 俺は何も発信せず、待つことにした。



3



 自宅待機の日々は、想像していた以上につらかった。


 夜勤もない。救急外来もない。院内PHSが鳴ることもない。


 朝起きてスマートフォンを開けば、目に入るのはまた同じ話だった。


 莉奈は何度も取材を受け、佐伯は複数の配信番組への出演を手配していた。数日おきに、これまで出ていなかった「新しい話」が追加される。


「前から視線を感じることがあったんです。エレベーターで一緒になったときも、なんとなく見られている気がして。昔は気にしてなかったんですけど、今思い返すと、本当に怖くて……」


 証拠はない。


 それでも、世論を燃やし続けるには十分だった。


 やがて、マンションの周辺に張り込む人間まで現れた。


 ある日の午後、宅配便を受け取りに一階へ下りると、エントランス付近にいた若者数人に囲まれた。一人がスマートフォンを向け、別の一人が俺に気づいた瞬間、持っていたミルクティーを投げつけてきた。


「こいつだ! こんな奴が医者やってていいのかよ! ここから出ていけ!」


 紙コップが肩に当たり、甘ったるい液体が服を伝って落ちる。続いて、生卵がすぐ横の壁にぶつかって割れた。


 管理人と警備員が駆けつけるまで、俺は手を出さなかった。


 部屋へ戻り、ミルクティーまみれの上着を洗濯機へ放り込んだ。


 鏡に映った自分の顔はひどく疲れていた。


 証拠さえ残っていれば、いつか終わる。


 そう思い続けていた。


 だが、そのとき初めて分かった。


 ネット上で誰かが軽い気持ちで書いた「クズ」という一言が、現実の世界ではどんな形になるのか。


 夜九時を回ったころ、黒川先生から電話が来た。


「映像が見つかった。屋上の設備管理区域に広角カメラが一台ある。事故のあと、管理会社が規定に従って元データを保存していた。お前たちがいた場所も映っているし、タイムスタンプも途切れていない。環境音もかなり拾えている。原本には触らせず、デジタルフォレンジックの業者にも保全を頼んだ。明日、警察が正式に取り寄せる」


 その言葉を聞いた瞬間、何日も胸につかえていたものが少しだけ軽くなった。


 翌朝、俺は黒川先生と再び警察署へ向かった。


 会議室のモニターで、映像が最初から再生された。


 莉奈がまだカメラに向かって笑いながら動いている。途中から足元がふらつき、何度か膝に手をついているのに、それでも配信を止めていなかった。


 そして突然、倒れる。


 映像の中の俺が洗濯ばさみを放り出して走っていく。


 意識確認。


 助けを呼ぶ。


 119番。


 胸骨圧迫。


 人工呼吸。


 AEDと冷却用品を持ってくるよう周囲に頼む。


 服を緩める。


 レギンスを切る。


 全部が途切れることなく映っていた。


 音声も残っている。


「AEDをお願いします!」


「保冷剤はここに!」


「囲まないでください、少し離れて!」


「救急隊、あとどれくらいですか!」


 映像が終わると、会議室はしばらく静まり返った。


 中村刑事がモニターから俺へ視線を移した。


「高橋さん。この映像については、救急搬送記録、119番通報の記録、現場にいた住民の証言と合わせて確認します」


 数日後、中村刑事から連絡が来た。


 警察は、俺が行った身体接触は緊急の救命処置の一環であり、性的な目的による行為を示す証拠はないと判断した。


 同時に、捜査の向きが変わった。


 問題になったのは、莉奈が目を覚ました直後に抱いた誤解と、その後警察へ届け出た内容に違いがあったことだった。


 警察が確認したところ、莉奈は退院後、自分のライブ配信の元データを見ていた。


 そこには、俺が助けを呼んでいる様子も、救命処置を続けているところも残っている。


 それにもかかわらず、数日後、莉奈は切り取られた映像を警察へ提出し、事情聴取でも元映像と一致しない説明を加えていた。


 資料に目を通した黒川先生は、一言だけ言った。


「ここからは、情に流されるな」



4



 警察の確認結果は、まだ公表されていなかった。


 莉奈も、そのことを知らない。


 その夜、彼女はフォロワー百万人突破を記念するライブ配信をしていた。今後得られる賠償金の一部を女性の安全を支援する活動に使うと発表し、画面には投げ銭や祝福のコメントが絶え間なく流れていた。


 俺は数分見ただけで配信を閉じた。


 夜十一時を過ぎたころ、突然、玄関のドアが激しく叩かれた。


「高橋先生! お願い、開けて! 母が倒れたの!」


 玄関へ行き、ドアスコープをのぞく。


 莉奈は裸足だった。髪は乱れ、メイクも崩れている。


 何度もドアを叩く姿には、普段カメラの前で見せていた余裕など少しもなかった。


「お願い、来て! 母が浴室で急に倒れて、呼んでも反応しないの。脳卒中かもしれない!」


 俺は鍵に手をかけなかった。


「119番は?」


 莉奈の動きが止まった。


「まだ……先生が向かいにいるから、先にこっちに……」


 俺はすぐにスマートフォンを取り出した。


「今すぐ119番して。俺からも救急に連絡する。勝手に動かさないで、まず正常な呼吸があるか確認して。あとは指令員の指示どおりに」


 外から発信音が聞こえ始めた。


 俺も119番し、マンションの住所、患者のおおよその年齢、突然意識を失ったことを伝えた。


 通話を終えると、莉奈がまたドアを叩いた。


「出てきて診てくれないの? 先生、医者でしょ! 前のことは私が悪かった。でも母は関係ないの。お願い、何でもするから、助けて!」


 俺の手はドアノブにかかったままだった。


 これまで急患を前にして、迷ったことはほとんどない。


 だが、この扉の向こうにいるのは、数十万人の前で俺を性犯罪者だと訴えた本人だった。


 しかも黒川先生からは、捜査が終わるまで第三者のいない場所で彼女と接触しないよう強く言われている。


「救急隊はもう向かってる。119番の指示に従って。俺は今も病院から自宅待機を命じられていて、あなたからの性的被害の訴えもまだ正式には決着していない。第三者も医療設備もない状態で、一人であなたの部屋には入れない」


 直後、ドアに重い衝撃が走った。


 蹴ったらしい。


「それでも医者なの? お母さんに何かあったらどうするのよ!」


 俺は扉越しに答えた。


「呼吸を確認し続けて。救急隊が来たら、いつ倒れたのか、普段飲んでいる薬、高血圧や持病があるか、全部伝えて」


 その後、外の声は少しずつ小さくなった。


 十数分後、廊下を駆ける足音が聞こえ、救急隊が到着した。


 俺は玄関を開けたが、向かいの部屋へは入らなかった。自宅のドアの前に立ち、隊員たちの動線を空ける。


 間もなく一人の隊員が追加の器材を取りに出てきた。


 室内からは短い指示が飛び交っている。


 血圧は著しく高く、意識レベルも低い。左右の瞳孔にも差があり、救急隊は脳出血を強く疑っていた。


 必要な処置を行ったあと、莉奈の母親はストレッチャーに固定され、そのまま搬送された。


 莉奈も一緒にエレベーターへ駆け込んでいった。


 扉が閉じると、廊下は再び静かになった。


 俺はしばらくその場に立ってから、玄関を閉めた。


 仕返しができたという爽快感はなかった。


 勝ったとも思わない。


 ただ、彼女が切り取った映像を使って嘘を続けると決めたあの日から、俺たちの間に残っていた最低限の信頼まで、自分の手で壊してしまったのだと思った。



5



 翌朝、立て続けに鳴る電話で目が覚めた。


 一番最初は拓海だった。


「直人、ニュース見ろ」


 スマートフォンを開くと、複数の主要メディアが一斉に事件の続報を出していた。


 神奈川県警は、防犯カメラ映像、119番の通話記録、救急搬送記録、現場にいた住民の証言などを確認した結果、俺によるわいせつ行為を裏づける事実は確認されなかったとした。


 当時の身体接触は、意識を失い正常な呼吸が確認できない女性に対して行った緊急の救命処置と冷却措置だった。


 一方、女性側が後日提出した映像や説明について、意図的な加工や虚偽の申告がなかったか確認を進めているとも報じられていた。


 数分後、藤原院長から電話が来た。


「高橋君。病院にも警察から正式な説明が来た。今日午前の臨時会議で、自宅待機は解除する。この間、本当に大変だったな」


 俺はしばらくスマートフォンを握ったまま黙っていた。


「明日から救命に戻れますか?」


 院長は少し間を置いて答えた。


「もちろんだ」


 その日の昼、病院の公式サイトに声明が掲載された。


 内容は簡潔だった。


 莉奈を非難する表現もなければ、まだ捜査中の刑事問題について断定する文章もない。当日の俺の行為が緊急救命処置を目的としたものであったことを確認し、通常勤務へ復帰させるという内容だった。


 数時間で、ネットの空気は完全に変わった。


 俺を罵倒していたアカウントが次々と投稿を削除し、DMには謝罪が押し寄せる。


 昨日まで病院へ解雇を要求していた人間まで、何事もなかったかのように警察の確認結果を拡散していた。


 【高橋先生、本当にすみませんでした。】


 【切り抜きだけ見て叩いてしまいました。】


 【前に書いたコメントは削除しました。本当にごめんなさい。】


 俺は一件も返信しなかった。


 午後になると、莉奈の所属事務所が緊急声明を発表した。


 内容を読む限り、佐伯は責任の大部分を莉奈本人へ寄せようとしていた。


「弊社はこれまで、星野本人が警察へ提出した資料の全容を把握しておりませんでした。映像編集およびその後の説明内容について、現在社内調査を進めております。本日付で星野莉奈の芸能・商業活動をすべて停止し、警察の捜査結果を踏まえて今後の処分を決定いたします」


 黒川先生からメッセージが来た。


「保存」


 それだけだった。


 その夜、黒川先生は弁護士名義で一本の記事を公開した。


 煽るようなタイトルはつけず、現時点で確認できる事実だけを時間順に並べていた。


 元映像。


 切り抜き映像。


 警察への申告。


 事務所による宣伝。


 SNS上での拡散。


 そして、それによって俺の仕事や日常生活にどんな損害が出たのか。


 最後には、もし本人が映像と事実が異なることを認識しながら、相手に刑事処分を受けさせる目的で虚偽の申告をしたと認定されれば、刑法上の虚偽告訴等罪に該当する可能性があること。


 また、虚偽の内容を公然と拡散し、名誉や業務に損害を与えた行為についても、刑事・民事双方の責任が生じる可能性があると記されていた。


 記事は瞬く間に拡散された。


 病院へ復帰した日、多くの同僚が俺のところへ来た。


 きちんと謝罪する人もいた。


 何を言えばいいか分からないのか、黙って肩を叩くだけの人もいた。


 藤原院長は大げさな歓迎などせず、俺が着替えを終えたところで、新しい勤務表を差し出した。


「今夜、夜勤だ。いけるか?」


「問題ありません」


 夕方、病院と黒川先生の法律事務所は、プライバシーに配慮したうえで屋上の映像を公開した。


 莉奈の身体が映る部分には処理が施されていたが、時間軸は一度も切られていない。


 倒れた瞬間から、救急隊が到着するまで。


 すべて連続していた。


 人々はそこで初めて、あの数十秒の「わいせつ動画」の前後に何があったのかを知った。


 焼けた屋上に膝をつき、胸骨圧迫を続ける俺の姿は、またたく間にネット上へ広がっていった。


 今度は、コメント欄を開かなかった。



6



 莉奈の母親は長期間、集中治療室で治療を受けた。


 一命は取り留めたものの、重い片麻痺と言語障害が残った。重度の脳出血では、それ自体が不可逆的な神経障害を引き起こすことがあり、もし別の対応をしていれば必ず結果が変わったなどと断言できる医師はいない。


 俺自身も、自分があのとき部屋へ入っていれば絶対に助けられたなどと誰かに言ったことはない。


 ただ、一つだけ確かなことがある。


 莉奈は母親が倒れたと知ったとき、119番するより先に俺の家のドアを叩いた。


 本来なら、その時間から救急医療へつなげることができていた。


 日本には公的医療保険や高額療養費制度があるとはいえ、長期のリハビリや介護、通院、住宅改修、家族が仕事を続けられなくなることによる負担まで、すべてなくなるわけではない。


 そこへ莉奈自身の収入減少が重なった。


 企業案件は次々と打ち切られた。


 SNSの更新も止まった。


 事務所からも活動停止を命じられ、莉奈は急速に人前から姿を消していった。


 だが、それで終わりにはしなかった。


 黒川先生の協力を得て、俺は横浜地方裁判所へ民事訴訟を起こした。


 被告は三者。


 莉奈本人。


 担当マネージャーの佐伯真紀。


 そして、二人が所属するクリエイターマネジメント会社だった。


 求めたのは、虚偽情報の削除、問題となった内容を発信した公式アカウントやサイトへの訂正文・謝罪文の掲載、休業損害や慰謝料を含む損害賠償、そして共同不法行為についての責任だった。


 請求額は一千万円。


 訴状が受理されてから間もなく、佐伯が訪ねてきた。


 一人ではない。


 会社の法務担当者と外部の弁護士も一緒だった。


 こちらには黒川先生が同席している。


 佐伯が和解案をテーブルの上へ置いた。


「会社として、二千万円を解決金としてお支払いします。条件は民事訴訟の取り下げと、今後、事務所内部の関与について双方が公に発言しないこと。それから、謝罪は莉奈本人が行います。高橋先生、この件をこれ以上長引かせても、お互いにメリットはありません」


 俺は一ページ目だけ見て、書類を置いた。


「誰の判断で、あの映像を切り抜いたんですか? 広告出稿費を承認したのは誰です? 同じ文面を何十ものアカウントから一斉に投稿した広告会社との契約を結んだのは?」


 佐伯の表情が固まった。


 法務担当者は書類に目を落としたまま、何も言わない。


 俺は和解案を押し返した。


「まだ調査中なんですよね。だったら、裁判で明らかにしましょう」


 佐伯は唇を結んだ。


「二千万円ですよ。こちらの金額は、そちらの請求額を大きく上回っています」


「俺にとって得かどうかは、俺が決めます」


 話し合いはそこで終わった。


 相手方の弁護士が和解案を回収し、三人が部屋を出ていった。


 扉が閉じると、黒川先生がぽつりと言った。


「一千万の請求に二千万出すと言ってきた。あいつらが怖がっているのは、賠償額じゃない」


 分かっていた。


 警察による莉奈の申告内容に関する捜査はまだ続いている。


 事務所がどこまで関与していたのかも、まだ何も終わっていなかった。



7



 民事訴訟の期日には、横浜地方裁判所の周囲に何人もの報道関係者が集まっていた。


 俺は取材には答えず、そのまま中へ入った。


 法廷には莉奈がいた。


 一か月あまり見ないうちに、ずいぶん痩せている。隣には佐伯、その後ろには事務所側の代理人弁護士が座っていた。


 実際の審理は、想像していた以上に静かだった。


 双方が一つひとつの証拠について、真正性、取得経緯、誰が発信したものなのか、それがどの損害につながったのかを争っていく。


 管理会社が保存していた屋上の元映像は、重要な証拠の一つになった。


 ほかにも119番通報の記録、救急搬送記録、住民の証言、莉奈のライブ配信元データ、事務所の内部企画資料、広告代理店との契約書、スタッフ間のチャット履歴などが提出された。


 中でも決定的だったのは、事務所内部から出てきた資料だった。


 莉奈が退院後に元映像を確認したあと、担当チームがオンライン会議を開いていた。


 その議事録には、あるスタッフの発言が残っていた。


「救命処置の全体を出すと、話題性が落ちる」


 その後、最も誤解を生みやすい部分だけを使用する方針が決められていた。


 佐伯側は、会社が行ったのはあくまで所属タレントへの危機管理対応であり、莉奈に警察への虚偽説明を指示した事実はないと主張した。


 黒川先生は法廷で大げさな言葉を使わなかった。


 時間の流れに沿って、事実だけを並べていった。


 莉奈が元映像を確認した日時。


 その後に取材を受けた時期。


 切り取った映像を提出した日。


 事務所がプロモーション費を支出した時期。


 ほぼ同じ内容の投稿が、多数のアカウントから短時間に発信されたこと。


 本人尋問で俺が話す番になった。


「俺は、医師だから無条件に信じてほしいなんて一度も思っていません。あの日に何が起きたかは、映像を見れば分かります。119番の記録も、救急隊の搬送記録もあります。証拠を最初から最後まで、そのまま見てもらえれば、それで十分です」


 一度言葉を切った。


「俺が求めているのは、実際に起きた侵害について、裁判所に判断してもらうことだけです」


 数か月後、判決が言い渡された。


 裁判所は、莉奈が後に公開・提出した内容の一部は客観的事実と明確に食い違っており、事務所や関係者も救命処置だったと判断するに足る資料を把握した後まで、誤解を生む内容を組織的に拡散したとして、共同不法行為を認定した。


 三者には連帯して八百万円の損害賠償を支払うよう命じられた。


 さらに、虚偽の内容を掲載した投稿を削除し、主要SNSや事務所公式サイトに、判決で定められた範囲の訂正文および謝罪文を一定期間掲載することとなった。


 佐伯と事務所の責任者は、法廷を出るときまで険しい表情を崩さなかった。


 民事判決は、まだ一つ目の結論にすぎない。


 県警による虚偽申告と組織的な情報拡散に関する捜査は、引き続き進んでいた。



8



 判決が確定すると、事務所と莉奈の関係は完全に崩れた。


 契約は解除され、関連企業も次々とタイアップを打ち切った。


 事務所は上場企業の傘下にあったが、警察が関係先を捜索したとの報道が出ると親会社の株価は大きく下落し、一時ストップ安となった。


 そんな時期だった。


 ある朝、病院へ向かおうとマンションのエントランスを出たところで、莉奈の姿が目に入った。


 かなり前から待っていたらしい。


 俺の姿を見るなり駆け寄り、通勤途中の住民が見ている前で、その場に膝をついた。


「高橋先生、本当にごめんなさい。事務所からは契約を切られました。母は毎日リハビリが必要で、もう家も余裕がありません。賠償金だって、どうやって払えばいいのか……」


 一度言葉を切り、莉奈は俺を見上げた。


「警察の件も……弁護士から、虚偽の申告だと認められたら重い刑になるかもしれないって聞きました。警察に、もう和解したって言ってもらえませんか? 民事で和解しても刑事事件がなくならないのは分かっています。でも先生が情状を話してくれれば、何か変わるかもしれない。お願いです。刑務所には行きたくない……」


 俺は手を差し出さなかった。


 莉奈が俺のズボンに触れようとしたので、一歩後ろへ下がる。


「どうして、最初から全部の映像を公開しなかった?」


 莉奈はうつむいた。


「最初は……本当に、何かされたんだと思ったんです」


「そのあとは?」


 彼女は黙った。


 その後に何があったのかは、証拠でほとんど明らかになっている。


 莉奈は帰宅後、元の配信映像を見ていた。


 俺が助けを呼んでいたこと。


 119番したこと。


 胸骨圧迫を続けたこと。


 服を切ったのも冷却のためだったこと。


 全部知っていた。


 それでも、そのころにはフォロワー数が急増していた。


 テレビや配信番組から声がかかった。


 企業案件も舞い込んだ。


 事務所からは、今の流れを維持すればもっと大きな話題になると言われた。


 長い沈黙のあと、莉奈が小さな声を出した。


「そのときは……もうみんな信じてたから」


 俺は彼女を見下ろした。


「だから、そのまま信じさせた」


 莉奈の唇がわずかに震えた。


「……ごめんなさい」


 俺はその言葉には答えなかった。


「お母さんが倒れた夜、君は俺のところに来たよな。もし俺が部屋に入っていたら必ず回復したなんて、俺は言わない。そんなことを断言できる医者はいない」


 莉奈がゆっくり顔を上げた。


「ただ、人が突然意識を失ったとき、最初にするべきだったのは119番だった。あの日、君は救急車を呼ぶより先に俺の家に来た。性犯罪者だと訴えたばかりの医者でも、自分が困ったときには当然助けてくれると思ったからだ」


 莉奈の顔から血の気が引いていく。


「君が数字のために壊したのは、俺の名誉だけじゃない。人と人との間にある、最低限の信頼まで壊したんだ」


 莉奈は地面に座り込んだまま、何も言わなくなった。


 俺はその横を通り過ぎた。


 振り返らなかった。



9



 警察の捜査は、その後も数か月続いた。


 事務所内部からはさらに多くの資料が見つかり、会社は自らを守るため、佐伯を担当から外し、責任を当時の莉奈担当チームへ集中させようとした。


 佐伯はやがて業界を離れた。


 事務所の親会社も、刑事捜査、広告主の離脱、投資家からの信用低下によって経営に大きな打撃を受けた。


 事業再編の末、クリエイターマネジメント部門は競合企業へ譲渡された。


 莉奈の刑事事件にも結論が出た。


 横浜地方検察庁は、虚偽告訴等罪に当たる行為があったとして莉奈を起訴した。


 裁判所は、虚偽の資料を提出するに至った経緯、それを続けた期間、社会的影響、その後の態度などを考慮し、拘禁刑一年の実刑判決を言い渡した。


 莉奈が失ったのは、配信者としての仕事だけではなかった。


 一方、俺は民事訴訟で受け取った賠償金を、すべて自分のために使うつもりはなかった。


 ある日、黒川先生に聞かれた。


「使い道は決めたのか?」


「今回かかった費用の一部だけ残して、あとはネット上の誹謗中傷で困ってる人に使いたいと思ってます」


 黒川先生が眉を上げた。


「支援団体でも作るのか?」


「まずは一般社団法人にします。最初から大きくしすぎるつもりはありません。本当に必要な人に届けば、それでいい」


 黒川先生は笑った。


「今のお前らしいな」


 その後、俺たちは一般社団法人を設立し、ネット誹謗中傷被害者法律支援事業を始めた。


 民事賠償金の大部分を最初の資金に充て、法律面は黒川先生が担当した。何人かの弁護士も協力してくれるようになり、大規模なネット攻撃を受けながら弁護士費用を用意できない人に、初回相談や訴訟支援を提供していった。


 病院が俺を英雄扱いするようなことはなかった。


 年末の人事では、それまでの臨床経験、救急診療の実績、科内での評価を踏まえ、救急科の医長を任されることになった。


 生活は少しずつ元の軌道へ戻った。


 ただ、以前とまったく同じではなかった。



10



 一年後の夏、俺は病院と国際医療NGOが共同で行う海外医療支援に参加した。


 派遣先は、中東の長年武力衝突が続いている地域だった。


 数週間の活動を終えようとしていた最終日、医療拠点の近くで爆発が起きた。


 運び込まれたのは、外国人の女性記者だった。


 腹部を破片で大きく損傷し、大量出血によるショック状態に陥っていた。


 彼女は対立する側の地域から来た記者だった。


 現地では輸血用血液の備蓄が底をつきかけ、搬送経路も一時的に遮断されている。


 医療チームは極限状態での緊急輸血体制を取ることになった。


 責任者がスタッフを見回した。


「患者の血液型は確認できた。同型で、事前スクリーニングを済ませている登録者はいるか?」


 その場が静かになった。


 誰も彼女の国籍だけを理由に拒んでいるわけではない。


 問題は現地の治安だった。


 こちらが一方の側だけを優遇したと受け取られれば、医療拠点全体が危険にさらされる可能性がある。


 俺はストレッチャーの上の女性を見た。


 その瞬間、一年前の屋上が頭に浮かんだ。


 莉奈に頬を叩かれたこと。


 数十秒に切り取られた映像。


 その後、何度も聞かれた質問。


 もう一度同じようなことが起きても、また人を助けるのか。


 俺は袖をまくった。


「俺が適合します。スクリーニングも済んでます」


 責任者が俺を見た。


「いいんだな?」


「はい」


 緊急献血を終え、外科担当の医師たちが手術を続けた。


 三時間以上かかった。


 ようやく患者の循環が安定したころには、全員が疲れ切っていた。


 半月後、その女性記者は所属する国際メディアに記事を掲載した。


 俺一人を英雄として扱うような内容ではなかった。


 武力衝突のさなか、さまざまな国から集まった医療者が、運ばれてきた人間を区別せず治療し続けていたことを書いた記事だった。


 その中に、日本から来た一人の救急医についての記述があった。


 俺は最後まで読んで、スマートフォンを閉じた。


 一年前の出来事は、確かに俺を変えた。


 それでも、俺がなぜ医師になったのかまで奪うことはできなかった。



11



 海外医療支援を終え、横浜へ戻った。


 しばらくして、黒川先生から一人の弁護士を紹介された。


 小野寺綾香。


 初めて会ったのは、ごく普通のカフェだった。


 黒川先生は二十分もしないうちに適当な理由をつけて席を立ち、綾香は遠ざかる背中を見ながら笑った。


「黒川先生、分かりやすすぎません?」


 俺も笑った。


 それから付き合うようになり、やがて結婚した。


 綾香は、過去の出来事を理由に俺を「救われなければならない人」のようには扱わなかった。


 支援団体で難しい案件が出れば、ときどき黒川先生と一緒に手伝ってくれる。


 それ以外は、家に帰ればできるだけ仕事の話をしない。


 そんな生活になった。


 たまに、ニュースの片隅で莉奈のその後を目にすることがあった。


 刑期を終えてから、彼女が配信業界に戻ることはなかった。


 母親の長期リハビリや介護にかかる自己負担分を補うため、飲食店の厨房で働いたり、配送の仕事や短期のアルバイトをしたりしているという。


 だが、そうした話も少しずつ俺から遠ざかっていった。


 これから莉奈がどんな人生を送るのか。


 もう俺には関係のないことだった。


 ある週末の午後、綾香と一緒に古いパソコンのデータを整理していた。


 ハードディスクの奥に、一つのフォルダが残っている。


 当時保存した誹謗中傷のスクリーンショット。


 脅迫メッセージ。


 ニュース記事。


 そして、屋上の防犯カメラ映像のバックアップ。


 綾香が隣で画面を見た。


「まだ取っておく?」


 俺はしばらくフォルダを見つめた。


 それから選択し、削除を押した。


 確認画面が表示される。


 もう一度、クリックした。


 フォルダは消えた。


 後日、自分の個人ブログに二行だけ書いた。


「善意と無防備は、同じじゃない」


「一度、誰かを助けたことで傷ついたとしても、その人のせいで、これから出会うすべての人に手を差し伸べることまでやめたくはない」


 書き終えて、パソコンを閉じた。


 一般社団法人の活動はその後も続いた。


 数年の間に、ネット上の誹謗中傷や個人情報の晒し、大規模な攻撃に苦しむ多くの人を支援するようになった。


 実務の多くは黒川先生や綾香、ほかの専門家たちへ少しずつ任せるようになり、俺自身は再び救急医学と臨床研究に時間を使うようになった。


 人を一人助けたことで、俺は一度、世間中から裁かれる側に立たされた。


 それでも次に誰かが目の前で倒れたら、何をするべきかは分かっている。


 答えは変わらなかった。


 夕日がリビングに差し込んでいた。


 綾香がテーブルの上に置かれた古いハードディスクを片づけている。


 俺も立ち上がり、その手伝いをした。


 新しい生活は、そうやって静かに続いていく。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ