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ガリバーと老人文学

掲載日:2026/03/02

 

 半蔵門の駅を出ると、皇居の森の気配を含んだ夜風が尾井田を包んだ。肌を刺すような寒さは無い。近くにある千鳥ヶ淵の桜は蕾を開き始めた。半蔵門駅の界隈はいつもより人通りが多かった。一足早いお花見客なのであろうか。その人の流れと逆の方向に足を早めた。

 行く先は平河町にあるバーだ。そこは読書バーと呼ばれ読書会が毎日のように開催されている。特に、月に一度の古典文学を読む会は、都内の有名私大の教授が講師役をボランティアで務めてくれていた。今日はその日にあたる。

 目指す建物に着くと、尾井田は階段を降りて、木製の重い扉を開けた。店内は薄暗く、壁一面の書棚に並んだ本の背表紙が鈍く光っていた。カウンターの奥では、マスターがアイスピックで氷を割っていた。

「こんばんは」

 挨拶を交わすと、奥の方の席に座った。

 それを合図とするかのようにマスターが皆の方を向いた。

「皆さん、読書バー『KAYO』に、ようこそお集まりいただきました。本日のテーマは、ジョナサン・スウィフトの『ガリバー旅行記』です。ただし、絵本とかで馴染んでいる小人の国や巨人の国の話ではなく、第四篇のフウイヌム国――理性的な馬たちの国の話を読み解いてゆきます。本日の講師は、K大で英文学を教えている白石教授先生です」

 拍手をした。

「先生、お忙しいところ、ありがとうございます」

「いや、入試も無事終わり、入学式まではそんなに忙しくないので、むしろ私の方こそ、入試で何もできなくて、頭が鈍っていたところなので、新学期に向けてのいい頭の体操だと思って楽しみです」

 白石教授は、六十前後くらいの風貌で、細身で、銀縁眼鏡の奥の目がいたずらっぽく光っていた。

 今日の参加者は10名くらいだった。

 まずは自己紹介を順番にした。

 尾井田は最後から2番目だった。

「尾井田といいます。昨年、四十年以上勤めた会社を定年退職しました。若い頃は文学青年でしたが、大学を卒業してからはずっと文学とは離れていました。定年後は再び文学に浸っています」

 そう自己紹介した。

「さて、では始めましょうか」

 白石教授が手にしていたワイングラスを置くと語り始めた。

「『ガリバー旅行記』といえば、子ども向けの冒険譚だと思われがちですが、第四篇はむしろ徹底した人間嫌悪、あるいは理性崇拝の風刺です」

 白石教授は店内の参加者に目を向けた。

 今日の参加者は若い大学院生風の女性、出版関係者の中年男性、そして尾井田のような年配の常連客たちだった。

「フウイヌムという理性を体現した馬たちの国。そこでは虚偽も、欲望も、争いもない。一方、人間は『ヤフー』と呼ばれる、卑劣で欲深い存在として描かれる。ガリバーはやがて、自分がヤフーであることを恥じ、馬に憧れ、帰国後は人間を嫌悪して馬と暮らす」

 教授は、わずかに口角を上げた。

「フウイヌムは理想郷に見えて、実はデストピアです。なぜなら、そこには情念も、矛盾も、赦しもない。完璧な理性は残酷でもある」

 尾井田はその言葉に小さく頷いた。

 まるで、定年後の自分ではないかと思った。四十年間、会社という巨大な仕組みの中で理性を装い、数字と論理で生きてきた。だが、退職した途端、社会は彼を必要としなくなった。会社は冷静に、理性的に彼を送り出した。それは決して悪意ではない。ただの制度だ。だがそれはフウイヌムの理性に似ている。定年後、何者でもなくなった自分の現実はある意味、残酷でもあった。

「私はガリバーの悲劇は、人間社会の不完全さを受け入れられなくなったことだと思います。理性の国を知ってしまった。だからもう戻れない」

 若い女性が手を挙げた。

「先生。理性の国って、本当に理想なんでしょうか。感情がないって、やっぱり不自然ですよね」

「ええその通りです。スウィフトは、理性万能主義をも風刺している。完璧な理性は、人間を排除する」

 尾井田はつい口を開いた。

「では、ガリバーは、帰国後、どう生きればよかったのでしょうか」

 店内の視線が彼に集まったが、質問を続けた。

「理性を知りながらもヤフーとして生きる。そんなことが可能なのでしょうか」

 白石教授は興味深げに尾井田を見た。

「難しい問いですね。私は、ガリバーは“折り合い”をつけられなかったのだと思います。人間の不完全さとどう共存するか。それが彼にはできなかった」

「折り合い、ですか……」

 尾井田は俯いた。自分は、折り合いをつけられているだろうかと思った。ガリバーの姿は老いという現実や衰えゆく身体とどう向き合うかに悩む自分と重なった。

 議論は、いつしか「これからの文学」に移った。

 出版関係者らしき男性が発言した。

「最近は若い読者が減っているので、これからの読書市場は高齢者が支えていくかもしれません」

 白石教授が頷いた。

「私は、これからは『老人文学』の時代だと思っています」

「老人文学?」と、誰かが繰り返した。

「老い、病、死。これを真正面から描く文学です。若者の成長譚ではなく、衰退と終焉を引き受ける物語です」

 尾井田の胸に微かな反発が芽生えた。

 老いと病気と死を語る文学――それは、美しいのだろうか。

 若い頃、彼が憧れた文学は、もっと激しく、眩しかった。恋と革命と、自己発見。未来へ向かう物語。

「失礼ですが、老人の話はどうしても暗くなる。病院や葬式や、過去の後悔。そんなものを読みたいと思うでしょうか」

 白石教授は、静かに微笑んだ。

「では、尾井田さん。老人は何も語らない方がいいのでしょうか」

「……そういうわけでは」

「老いは、誰もが通る道です。にもかかわらず、私たちはそれを物語にするのを避けてきた。美しくないから。希望がないから。しかし、そこにも希望はあるのではないでしょうか」

「希望?」

「ええ。終わりを知っている者の希望です。若者の希望は、無限の未来への期待。しかし、老人の希望は、限られた時間の中で、何を選び、何を捨てるかという、切実な希望です」

 尾井田は言葉を失った。

 限られた時間。

 定年退職の日、同僚から花束を受け取ったとき、彼は初めて、人生が残り少ないことを実感した。あと二十年あるかどうか。いや、健康で動けるのは、もっと短いかもしれない。その限られた時間の中で自分は何を書けるのであろうか。

 会は終盤に差しかかり、参加者たちは自由に意見を交わし始めた。

 若い女性が発言した。

「私は祖母の介護をしています。正直、辛いと思うこともあります。でも、祖母の昔話を聞くと、不思議と救われるんです。戦争の話や、恋の話。老いの中にも、物語があると思います」

出版関係者の中年男性がその言葉を受けて発言した。

「私も高齢者のリアルな、きれいごとではない痛みを伴う声を描いた文学には一定の需要があると思っています」

 白石教授は尾井田に視線を向けた。

「尾井田さんは、何か書いておられるのですか」

 その言葉にドキリとした。

「どうして、そう思われるのですか?」

「そういう目をしていらっしゃるからです」

一瞬、ためらいがあったが、尾井田は正直に答えた。

「その通りです。若い頃、文学に憧れていたので定年を機に、書いてみようかと思い。小説のようなものを書いています」

「素晴らしい」

「しかし、何を書けばよいのか分からなくなってきました。若者の恋愛を書くには感覚が遠すぎるし、さりとてミステリーやファンタジーを書く力量も勇気もない」

「では、ご自身のことを書いてみては?」

「老いや死に怯える醜悪な老人の生活に書くことなどあるでしょうか」

「醜悪ですか……。ですが、老いを美化する必要はありません。醜さも、弱さも、そのまま書けばいいのです。ガリバーは理性に憧れすぎた。だが、私たちは不完全であることを引き受けねばならなりません」

 不完全であることを引き受ける。

 尾井田の胸に奇妙な安堵が広がった。若さを装う必要はない。未来が無限であるふりをする必要もない。老いと病と死を恐れながら、それでも今日を生きる。それが、今の自分に書けることではないか。

 会が終わり、客たちは三々五々帰っていった。

 尾井田は最後まで残り、カウンターで白石教授と並んだ。

「先生」

「はい」

「老人文学というのは、絶望を書くだけではないのですね」

「もちろんです。絶望の中の微光を書くのです」

「微光……」

 白石教授は笑った。

「たとえば、今日こうして、見知らぬ者同士が一冊の本をめぐって語り合う。それもまた、老いの時間の使い方でしょう」

 尾井田は、店内を見渡した。

 カウンターの奥に並ぶ書棚、静かな音楽、この場所、この時間。定年退職してから彼は自分が社会から切り離されたように感じていた。だが今、彼は誰かとつながっている。それは小さなことだが確かな微光だった。

 

 店を出ると、夜風が頬を撫でた。皇居の森の闇が、遠くに広がる。ガリバーは人間社会を嫌悪した。だが自分は、まだ嫌悪しきれていない。愚かで、欲深く、騒がしい人間たち。それでも、その不完全さがどこか愛おしい。

 尾井田は歩きながら、心の中で文章を紡ぎ始めた。

 だがそれは、終わりの物語ではなかった。限られた時間の中で、何を語るかという、始まりの物語だ。

半蔵門の交差点で信号を待ちながら、ポケットから小さな手帳を取り出すと一行を書きつけた。

「老人の文学とは、終わりを知った者の最初の一歩である」

 尾井田は静かに微笑んだ。

 物語は、ようやく始まったのだ。



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