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真実の愛が悪いのではなく、貴方が悪かった。

「ブランシュ・ド・アルヴィエ! お前との婚約を破棄する!」


 夜会で私にそう言ったのは婚約者ナルシス・ド・ボードレール。

 彼の側にはジュリエンヌという男爵令嬢がいた。


「お前のような可愛げのない女が婚約者など、やってられるものか! 俺はお前なんて愛していないんだ」


 そう言いながら彼はジュリエンヌの肩を抱き寄せる。

 私だって貴方の事は愛しておりませんとも。

 私は心の中で呟いた。


 不仲だったとか、そういう問題ではない。

 いや、彼の性格や考え、価値観は何もかも私の好みではなかったけれど。

 けれど、婚約というのはそういうものだ。


 好きでも何でもない相手……場合によっては苦手とする相手と一生を添い遂げる事になる。

 我欲ではなく、家の繁栄と存続を優先する。

 それが貴族として生まれた私たちの使命……義務だ。


「俺は真実の愛を見つけた。ジュリエンヌと結ばれるべきなんだ!」


 にも拘らずナルシスは、その義務を大衆の前で堂々と放棄する宣言をし、あまつさえまだ書面上は婚約が続いている身でもありながら別の女とべったりくっつく始末だ。


(くだらない)


 少し考えたら自分が如何に愚かな行いをしているのかくらいわかるはずなのだ。

 にも拘らず、『真実の愛』とやらに目覚めた私の婚約者は、その事実にすら気付けない。


 私が如何に魅力のない人間か、そしてジュリエンヌを如何に愛しているのか。

 それを懸命に主張する彼の言葉を聞き流しながら私は思う。


 彼の言う『真実の愛』とやらが、自分が貴族であるという事すらおざなりにしてしまうようなものであるならば、そんなものはない方が良い。

 ――『真実の愛』とやらは呪いのようなものなのだろう、と。



***



 こうしてナルシスとの婚約が白紙になったのが一年前。

 勿論その後の彼は社交界で大きなバッシングを受け、完全な笑い者に成り下がった。

 その事に、彼とジュリエンヌだけが気付いていない。


 ボードレール侯爵夫妻も嫡男には手を焼いているようで、一度こっそり『やはりもう一度愚息と婚約してはくれないか』なとどいう厚かましいにも程がある手紙が来たので、私はそれを破り捨てて暖炉に放った。


 さて。

 あの事件から一年が過ぎた今、私には新たな縁談が舞い込んで来た。


 ヴィクトル・ロートレック公爵との婚約だ。

 我がアルヴィエ伯爵家は公爵家と釣り合いがとれる程の爵位は持ち合わせていないと言えど、政界での影響力をどんどん伸ばしている家。

 一般的な侯爵家と同等か、それ以上に目を引く存在というのが客観的な意見だろう。


 それに加え、ヴィクトル様は前公爵が流行り病でお亡くなりになり、遺言に従って急に公爵の座に就いたお方。

 とても若く在られる彼は私とも年が非常に近かった。

 更には我が家もヴィクトル様も、現在の政界で無視できない王位継承権争いに置いて第一王子を支持する派閥の家。

 第一王子派の結束を強固なものにする為にも、私との婚約にはメリットがある。


 ……というのが、恐らくはヴィクトル様のお考えだろう。


 つまるところ、政略的な婚約。

 貴族令嬢として当たり前の未来。安定の未来。

 おまけにお相手はこれとない優良物件。万々歳である。


 ついでに言うのであれば、ヴィクトル様は氷の様に冷たいお方との噂まである。

 夜会で何度かお見掛けしたり挨拶をした事はあるけれど、確かに不愛想なお方だった。

 そんなお方であれば少なくとも『真実の愛』とやらに現を抜かす事はないだろう。

 そういう意味では私にとってこれ以上なく安心できる婚約相手だった。



***



「お前を愛する気はない」


 顔合わせのお茶会で彼は開口一番そう言った。

 カップに口を付け、お茶を楽しんでいた私は顔を顰めそうになるのを何とか堪えた。


「だから、間違ってもこちらには期待しするな。俺が求めるのは公爵としての体裁と、世継ぎだけだ。そちらとて、我が家との繋がりがあれば充分な利益になるだろう。それ以上を望む事はするな」


 貴族の家を継ぐ者として当然の主張。

 ただし……それを婚約相手に包み隠さず話すのは聊か礼儀知らずというものだ。

 受け手がどう捉えるか、何を思うかくらいは汲むべき事だと、私は思う。


 ……という正論はさておき。

 元々愛されるつもりも、愛すつもりもなかった私は、何故か自分が心を寄せられる事を前提に考えているヴィクトル様のお言葉が大層癪に障った。


 確かに彼はすれ違う異性の視線を奪う程に美しい容姿を持っている。

 おまけに若くして公爵に上り詰めた実績もある。

 恐らくはそれを自覚しての発言なのだろうが……そんな彼の発言が、まるでナルシスのような者と同等に見られている様な気がして少々不愉快だった。


 それでも私はそれを態度に出す事無く微笑を貼り付ける。

 これぞ淑女教育の賜物。


「畏まりました。勿論、問題ありませんわ」


 あっさりと承諾する私を見て、何故かヴィクトル様は驚いたように目を瞬かせる。

 貴方が言った事でしょうに、と私は内心で呟きながら続けた。


「ヴィクトル様は私を愛さない。私もヴィクトル様を愛さない。これで問題ありませんわね」

「あ、ああ」

「当然のお話でございますわ。だってこれは、政略的な婚約。愛などという感情は不要なのですから……ねぇ?」


 あまりにあっさりとした返答をしたからか、ヴィクトル様は唖然としたまま私を見ていた。



***



 それから、私達は婚約者として必要最低限の事は全て押さえた。

 定期的な顔合わせ、互いの記念日に贈り物をする、夜会に共に出席する、などなど。

 ヴィクトル様と過ごす時間は必然的に増えていったが、私達の関係が深まるような事はあまりなかった。


 強いていうならば、互いの事はある程度理解できたかもしれない。

 けれどそれによって距離が縮まることはなかった、という話だ。


 ヴィクトル様は相も変わらず仏頂面な上、ぶっきらぼうな物言いばかりしたし、一方の私もそれを軽く聞き流し、作り笑いを貼り続けていた。


 とはいえ、この淡々と割り切っている関係が、私にとってはそれなりに居心地の良いものだった。

 彼の変わらない温度感は、ナルシスの時のようにはならないという証拠のように思えたから。


 そんなある日の事。

 私とヴィクトル様は共に街まで出ていた。

 交際相手と外出する事は往々にしてある事なので、何も珍しい話でも、特別な話でもない。


 私達は普段通り話しながらお店を回り、カフェでお茶をした。

 そしてそろそろ戻ろうかと馬車を停めた場所まで向かう時、広場で行われている大道芸に私は目を奪われた。


「気になるのか」

「え? あ、まぁ……でも、お気になさらず。ヴィクトル様の足を止める程ではありませんから」


 私が普段通りの笑みでそういえば、ヴィクトル様は何故か呆れたように溜息を吐いた。


「俺が婚約相手の気持ちも汲まずさっさと帰る男のように思っているのか?」

「違うのですか?」


 思わず本音が漏れれば、ヴィクトル様ががくりと肩を落とす。


「お前が俺を失礼な目で見ている事だけはよくわかった」

「だって、愛する事はないのでしょう?」

「邪険にするつもりだ、等と言った覚えはないが? ……まぁいい。さっさと行こう」


 ヴィクトル様はそう言うと私の手を取り、大道芸が見える位置まで近づく。

 私を導くその仕草が優しいものだったので、私は少し不思議な気持ちになった。


 確かに彼は邪険にするつもりだとは言っていない。

 それに仏頂面且つぶっきらぼうというのは何も私に対してという訳ではなく単に彼の性格の問題だという事も理解している。


(もしかしたら、そんなに疎まれてはいないのかもしれないわね)


 そんな事を考えは、大道芸を目の当たりにするうちに段々と薄れていき、私は目の前で繰り広げられる魔法のようだけれど、現存する魔法では説明がつかない大技の数々に目を奪われた。

 そして最後は水魔法による演出と共に大技が決まり――魔法で生まれた水が飛沫を放って私達へ降り掛かる。


「きゃあ!」

「な、ブランシュ」

「やだもう、冷たいわ!」


 私は自分の顔を腕で庇う。

 その途中でヴィクトル様の驚く声がした私は彼の方を見た。


 ――満面の笑みで。


 目が合った瞬間、しまったと思う。

 私はこの時、すっかり彼に心を許してしまったのだ。


「も、申し訳ありません。少々はしゃいでしまって」

「…………いや」


 その後、私達の間には気まずい沈黙が訪れる。

 私達はそれから暫く互いに口を開かないまま馬車へと戻った。


 揺れる車内でも、私は暫く口を閉ざしていた。

 何となく居心地が悪くて、掛ける言葉が浮かばなかったのだ。

 けれどそこで、ヴィクトル様が口を開いた。


「普段は」

「はい?」

「……普段は、取り繕っているのか」


 何を言っているのかがよくわからず首を傾ければ、深い溜息が吐かれた。


「先程のが素なんだろう」

「ああ」


 漸くヴィクトル様の言わんとしている事を私は理解する。

 自分の前では取り繕っているのか、と彼は言っていたようだ。


「そうですね、多少は」

「何故?」

「何故って……」


 本当は取り繕ってばかりなのだが、そこは少々濁して答えれば更に問い詰められる。

 私からすれば、彼こそ何故そんな事を気にするのかと疑問ではあったのだけれど。

 問われたからには答えるべきだろうと判断し、私は素直に自分の考えを明かした。


「ヴィクトル様は、他者から……少なくとも異性から距離を詰められる事が得意ではないのでしょう。会ってすぐの婚約者相手に愛するつもりはないと言うくらいですから」

「それは……そうだが」


 肯定しつつも、何故か不服そうな様子をヴィクトル様は見せる。

 それが少し気になりながらも私は続けた。


「私も別に愛などというものは求めておりませんし、であるならばそう捉えられるような言動をするのはヴィクトル様を不安にさせるだけで何の意味もない……と、思いまして…………」


 私の言葉は途中で途切れる。

 ヴィクトル様が額に手を当てたまま大きく項垂れたからだ。


「……ヴィクトル様?」

「俺達は……これから先、生涯を添い遂げる関係だよな?」

「ヴィクトル様からお断りがない限りは、そうですね……?」

「お前はこの先何十年と、そうしているつもりだったのか」

「はい」


 これまた長い長い溜息が漏れた。

 どうやら私の返答は何かが間違っていたようだが、生憎心当たりがない。

 お陰できょとんとしていると、低い声が聞こえた。


「…………いや、俺のせいか」


 何やら一人で呟き、納得した様子のヴィクトル様。

 彼は暗い面持ちのまま俯いた。


「確かに異性に言い寄られるのは得意ではない。だがそれは当然のように求められる愛情とやらや、下手に出れば好いてもらえるだろうという下心に辟易としているだけだ。……同じ熱意を返せる保証もないからな。だが、何も婚約者の幸福を制限したい訳ではない。……が、俺の言い方が悪かったのだろう」


 ヴィクトル様は頭を下げる。


「すまなかった」


 想定外の事に、私は驚いていた。

 彼が異性を苦手とする理由自体は粗方察していた通りだったけれど、それが即ち、婚約者という近しい存在を煩わしく思う事に繋がる訳ではなかったらしい。


「異性に対する恋慕などについては保証しかねるが、同じ屋根の下で暮らす事になる者同士なのだから、相応の情は持つのが当然だろうし……互いに気を張らずに済む関係を築くべきだ。だから、今後はそんな事は気にするな。俺もお前が二度とそんな考えに至らないようには気を付けさせてもらう」


 私は少し拍子抜けしました。

 どうやら彼が氷の様だとか、婚約者という存在を面倒に思っているだとか、そんなことはないようだった。


「……そうですか」


 しおらしく頭を下げるヴィクトル様が随分小さく見えて、私は吹き出してしまう。


「おい、何を笑っている」

「お気になさらず。笑いたいので笑っているだけです」

「確かにそう在れるようにとは言ったが、それは俺を馬鹿にしているようにしか見えないのだが」

「気のせいですわ、ふふ」


 困ったように顔を顰めるヴィクトル様と、それを笑う私。

 この瞬間から、私達の関係は漸く変わり始めたのだった。



***



 それから、私はヴィクトル様の前で作り笑いをするのをやめた。

 それに、これまで彼を気遣って全て任せていた互いに関する決め事にも口を挟む事にした。


 ヴィクトル様もヴィクトル様で、少しずつ笑顔を見せてくれる時が増えた。

 それから、私達は良く軽口を言って互いを揶揄い合うようになった。


 ……定期的な顔合わせの他に、二人で会う時間も増えた。

 気が付けば、気兼ねなく共に在れる互いの傍が一番居心地の良い場所になっていたのだ。


 変化は、少しずつ、けれど着実に起きていた。

 ただ、私がそれに気付かないふりをしていただけ。

 嫌なものから目を逸らしたかっただけだった。




 ある日。

 街の大きな祭りを見に行った帰りの事。

 私は人混みに揉まれて足を挫いてしまっていた。


 けれどこの後はまだ共に回ろうと決めていた店があった。

 だからこっそり足の怪我を誤魔化して歩いていた。

 しかし……怪我をして数分と経たないうちに、私の手を取って先導していたヴィクトル様が振り返る。


「……ブランシュ」

「はい?」


 私が聞き返せば、ヴィクトル様が不服そうに眉を顰める。

 それから「失礼」と短く言うとしゃがみ込み、私の足を見た。

 怪我をした足を優しく持ち上げられるも、激痛が走って私は身を強張らせる。

 それに気付いたのだろう。

 ヴィクトル様は溜息を吐きながら立ち上がると、私の額を小突いた。


「阿呆」


 次の瞬間――ふわりと、私の両足は宙から離れる。

 ヴィクトル様が私を横抱きにしたのだ。


「え、ちょ、ちょっと……!」

「帰るぞ」


 そう言って前を向くとさっさと歩き始めるヴィクトル様。

 その真剣な面持ちが、私を思ってのものだという事はすぐに分かった。


 とくん、と鼓動が脈打つ。

 その速度がどんどん速く、激しくなっていく。

 そしてそれに合わせて顔に熱が帯び始めたところで私は漸く、自分の気持ちに気付いた。


 ――ヴィクトル様が好きだ。


 それと同時に覚えるのは鋭い胸の痛みだった。


 これは、ヴィクトル様が望んでいない感情だった。

 そして、自分自身が嫌悪して来た――愚かだと蔑んだナルシスと同じ病。


 この気持ちが溢れてしまえばヴィクトル様は私に愛想を尽かすかもしれない。

 そうなればこの関係は終わってしまう。

 何より、彼に嫌われるのが怖かった。


 この気持ちだけは、隠し通さなければ。

 早く止まって、と私は速鳴る心臓に念じたのだった。



***



 足の怪我が良くなって少し経った頃。

 ヴィクトル様との婚約から一年が経った頃だった。


 私達は王宮で開かれた夜会に出席する。


 同じ馬車に乗って会場へ向かう最中、ヴィクトル様は普段に比べてやけにそわそわとしていた。


「いかがされたのです?」

「何がだ?」


 ポーカーフェイスでそう返されるけれど、残念ながら首より下の動きが忙しないので、落ち着けていない事はバレバレである。

 彼がここまでわかりやすい事もそうそうないので、疑問は深まるばかりだったけれど……更に問い詰めるよりも先に私たちは会場へ到着する。


「ブランシュ」


 先に馬車を降りたヴィクトル様が手を差し出しながら私の名を呼んだ。


「はい」

「夜会後に、言いたい事がある」

「……? はい、畏まりました」


 改まって何だろう、と思いながらも私はそれに返事をした。

 そしてヴィクトル様のエスコートを受けながらパーティー会場へ足を運んだ。




 何曲かヴィクトル様とダンスを踊った後。

 飲み物を貰って来ると言い、ヴィクトル様がその場を離れた。

 その時だった。


「全く愛される事がないとわかっている婚約って、なんて惨めなんでしょうね?」


 そんな声が聞こえた。

 そちらを見れば、ある女性と目が合う。

 ジュリエンヌだ。

 彼女はナルシスと体を寄せ合いながら私を見て笑っていた。


「仕方ない。あんな奴を好きになる男なんている訳がないし……ましてや氷の公爵サマが相手だ。精々世継ぎの道具程度にしか思われないだろうさ」


 ナルシスも下品な声で笑う。


 二人は結局婚約したらしい。

 ジュリエンヌと添い遂げたいというナルシスの望みをボードレール侯爵夫妻はきっと拒絶した事だろうが、その頃には彼の悪評は広まっていたし、彼の婚約者に名乗り出るまともな貴族令嬢はいなかった事だろう。

 故に仕方なくの措置だろうが……ナルシスには優秀な弟がいたはずなので、恐らくジュリエンヌを婚約相手に認めたのと同時にナルシスに家を継がせる事も諦めたという事だと私は踏んでいた。


 つまり、目の前の男は自分こそが勝者であると信じ切った愚か者なのだ。

 よって、彼の言葉は聞くに値しない。勿論、場と身分を弁えない男爵令嬢の言葉も。


 そんな事は、わかっている。

 ……はずなのに。


 私の胸は酷く締め付けられていた。


 私が正しい。

 『真実の愛』なんてない方が良い。

 例え抱いてしまっても、相手に求めるようなものではない。


 そう、わかっているのに。

 どうしようもなく苦しくて、目頭が熱くなった。


 ――その時だ。


 二人の頭に、シャンパングラスがひっくり返された。


「なぁっ!?」

「キャァッ」


 悲鳴を上げた二人が、慌てて振り返る。

 そこには二人を睨み付けるヴィクトル様の姿が。


「失敬、手が滑ってしまった様だ。後日弁償させて頂こう」


 シャンパングラスを空にした彼はそれを会場の者に預け、ずかずかと私の隣へとやって来る。

 私はと言うと、彼の顔を見れずに俯いていた。


 今顔を見られれば、きっと私の気持ちがバレてしまう。

 そう思っての事だった。


「ブランシュ? ――っ」


 けれどそんな私の顔をヴィクトル様は心配そうにのぞき込む。

 彼が息を呑む気配があって、ああ、見られてしまったと悟った。


 私は、今にも泣きだしそうな、情けない顔をしていた事だろう。


 けれど……驚く事に彼は、嫌悪を滲ませる事はなかった。

 彼は私を抱き寄せた。

 それから


「すまない」


 短く呟き、私の顎を持ち上げ――


 ――私の唇を塞ぐ。


 何が起きたのかわからなかった。

 ただ、唇に伝わる柔らかさと熱に頭が真っ白になっていく。


 そして私の頭が一切機能しなくなった頃、ヴィクトル様は顔を離し、呆然とするナルシスとジュリエンヌを見て鼻で笑った。


「お見苦しいものを見せたな。だが……俺がひた隠しにしてきたせいで愛する婚約者が愚弄されたともなれば、このくらいはしなければなるまい」


 彼は私を抱き寄せたまま続ける。


「ご心配には及ばない。これから妻となる彼女は、世界中で最も愛される女性となるだろう」


 ヴィクトル様はそう告げると、私の手を引いて騒然とした会場を後にした。

 私達は会場の外、人気のない場所で立ち止まる。


「……ブランシュ」


 ヴィクトル様は困った様な顔をしている。

 当然だろう。

 私は両目から涙を溢れさせていたのだから。


「嫌だったか?」

「っ、いいえ」


 ヴィクトル様がハンカチで顔を拭ってくれながら問うので、私は何度も首を横に振った。


「ただ……う、うれしくて」


 嫌われていない安堵と、愛する人からの口づけの喜びとで、私の心はぐちゃぐちゃになっていた。


「あの場限りのものだったとしても、良いと思えるくらい……」


 そんな私に優しく微笑んでくれていたヴィクトル様だったが、私の言葉を聞いた途端、彼の顔が強張る。

 それから彼は大きく肩を落とした。


「…………ああ、お前はそう思うだろうな。俺の婚約者はそういう女だった」

「え?」

「さっき、話があると言っただろう。


 何故肩を落としているのかが分からない私の額をヴィクトル様が小突く。

 それから彼は私の正面に丁寧な仕草で跪き、懐から小さなケースを取り出す。

 蓋を開けられたそこから見えたのは――美しいダイヤがあしらわれた指輪だ。


「俺と結婚してくれ」

「け、っこん……」

「愛している、ブランシュ」


 いつかは当然すると思っていた婚姻。

 けれどこんなプロポーズは想定していなかった。


 どうでもいい女に用意する物とは思えない美しい指輪に、普段の彼ならば口が裂けても言わないような、愛の言葉。

 それが証明だった。


 顔を赤く染めながら微笑むヴィクトル様がどうしようもなく愛おしい。

 そして同時に、気付く事があった。


 『真実の愛』というものを、きっと私は勘違いしていた。


 少し前の私はこれを、忌むべきもの――破滅の象徴のように思っていたけれど、きっとそうではないのだ。

 だって今の私には自分が不幸に落ちる未来が見えないから。


「――よろこんで」


 私は指輪を受け取り、ヴィクトル様へ抱きついた。

 それから私達はどちらからともなく唇を重ね合わせ――擽ったそうに笑うのだった。



***



 それからまた少しの時間が経った頃。

 ボードレール侯爵家の跡継ぎが正式に次男へと決定した。

 憤慨したナルシスを同情する声はなく、寧ろ皆が冷ややかな目を向けていた。


 そして更に数年後、次男が家を継ぐときに、ナルシスと、彼と結婚していたジュリエンヌは家を追い出されたらしい。

 領地経営の手伝いもせず『真実の愛』とやらの為に遊び惚け、散財していたというのだから当然の事だろう。




 ――『真実の愛』が悪いのではなかったのね。


 私は大きくなったお腹を撫で、隣に座るヴィクトルに寄り掛かりながら呟く。

 それから「何だそれ」という声に「何でもない」と笑って返すのだった。


 こうして、私達の幸福な未来は続いていく。

 今も、そしてこれからも――。

最後までお読みいただきありがとうございました!


もし楽しんでいただけた場合には是非とも

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それでは、またご縁がありましたらどこかで!

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― 新着の感想 ―
婚約している状態での真実の愛、人はそれを浮気と言う。 彼に教えてあげたいですね。
>あまつさえまだ書面上は婚約が続いている身でもありながら別の女とべったりくっつく始末だ。 慰謝料は???
感想一覧
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