第8話 逃走
愛ちゃんと警備員が、こっちへ駆けてくるのを感じる。
足音が増える。人の気配が増える。
――間に合う。あと少し、あと少しだけ時間を稼げれば。
そう思った瞬間、男が俺の視界にぬっと入ってきた。
「おい、車乗れ。今なら揉めずに済む。さっさとだ」
声が軽い。軽すぎる。
なのに目だけが冷たい。
笑ってるのに、笑ってない。
腕が伸びてくる。
逃げろ、と頭は叫ぶのに、身体が動かない。
自分の手足が、他人のものみたいに遅い。
――やばい。近い。
「いいから来い。逆らうな。面倒くせぇことにすんな」
俺の左腕に何かが触れた。
次の瞬間。
世界が白く弾けた。
「あぁぁぁっ!」
声が勝手に出た。
左腕に、焼けた釘を押し込まれたみたいな激痛。
息が止まる。視界が跳ねる。歯が噛み合わない。
ジジジッ――
耳の奥まで震える音。
男の手には、黒い長細いものが握られていた。
スタンガン。
理解した瞬間、胃の底がひっくり返った。
美桜も――これを食らって倒れたんだ。
「ほら、効いてんだろ。大人しくしとけ。無駄に粘んな」
男の声が、やけに楽しそうに聞こえる。
ふざけるな。
怒りで身体を起こそうとして――膝が抜けた。
俺はその場に崩れ落ちる。
腕が痙攣して、指が勝手に縮む。涙が滲む。勝手に出る。
「車だ。乗れ。……乗らねぇなら、もう一発くれてやる」
男が言った瞬間、今度は右足に激痛が走った。
「――っ!!」
右足が、硬い棒みたいに固まる。
痛い。痛い。痛い。
叫びたいのに、息が喉に詰まる。涎が出る。情けない。
遠くで声がした。
「朱音ちゃん!?」
愛ちゃんだ。こっちに気付いた。
でも距離がある。まだ届かない。
足音も聞こえる。警備員もいる。来てる。近づいてる。
男が俺の腕を掴んで引きずろうとする。
でも俺は、身体を丸めることしかできない。抵抗じゃない。反射だ。
「チッ……使えねぇな。素直に来りゃいいもんを」
男が舌打ちした。
そして、視線を愛ちゃんたちに投げた。
――焦ってる。
男は、俺を諦めた。
代わりに、トランクへ向かった。
金属音。トランクが開く音。
視界の隅で男の腕が美桜の身体に回るのが見える。
美桜が持ち上げられる。
力なく揺れて、髪が垂れて――
「やめて……!」
声が掠れる。喉が痛い。
動け。動け。動け。
頭の中で何度叫んでも、右足は硬直したままだ。
男は美桜をトランクに押し込み、ためらいもなく閉めた。
――連れて行かれる。美桜が。
男は運転席へ回り込む。
ドアが閉まる。
「……じゃ、撤収だ」
身体の芯が絶望で染まる。
プリウスは、ハイブリッド特有の音もほとんど立てずに、すっと動き出した。
静かに。あまりにも静かに。
美桜が、消えていく。
視界が揺れた。
現実味がない。
そのとき、愛ちゃんが俺のところへ駆けつけた。
「朱音ちゃん!! 大丈夫!?」
愛ちゃんが背中をさすってくる。
警備員が無線で叫んでいる。短い言葉が飛び交って、空気が一気に現実へ引き戻される。
でも、俺の中は一つしかない。
追いかけなきゃ。
逃がしたら、終わりになる。
美桜が――あのトランクの中で、何もできないまま――。
俺は歯を食いしばって、なんとか上体を起こした。
右足が鉛みたいに重い。痺れが残っていて、膝が笑う。
「……追いかけなきゃ」
声が震えた。
怒りか、恐怖か、悔しさか、もう分からない。
俺は硬直した足を引きずって歩き出す。
一歩ごとに足が痛む。腕が焼けるみたいに痛む。息が切れる。
愛ちゃんが俺の手を掴んで、肩を貸した。
「……あの車だよね。110番する!」
愛ちゃんは歩きながらスマホを耳に当てた。
声が真剣で、震えが混じっている。
「……スマホ、貸して」
俺は息を切らしながら言って、電話を代わった。
自分の声が、自分じゃないくらい低い。
「《《ららぽーと桶山》》です」
「男はプリウスで、《《駐車場を出ました》》。今、出入口へ向かっています」
「《《助手席とトランクに女の子を乗せてます》》」
言い切って切る。
愛ちゃんはスマホを受け取り、呆然と俺を見た。
「朱音ちゃん……今の……」
「急ごう」
涙も鼻水も、よだれも、全部ぐちゃぐちゃで、顔が熱いのに冷たい。
痛みと悲しみと怒りが混ざって、まともに息ができない。
でも止まれない。止まったら、終わる。
俺と愛ちゃんは、プリウスが降りていった出口へ向かった。
「朱音ちゃん……追いかけても、もう……」
分かってる。
分かってるのに、認められない。
もしかしたら。
まだ間に合うかもしれない。
坂道を下っていく。
一歩ごとに足が痛む。腕が痛む。
それでも俺は、前だけを見ていた。




