第7話 免許
俺は車に近づく。
白いプリウスは何もなかったように無言で佇んでいる。まるで「関係ない」とでも言いたげに、こちらを煽ってくるみたいだった。
車の後ろ側――死角になっている位置で、男が美桜に馬乗りになっていた。
「美桜から離れて!」
叫んだ瞬間、自分の声が駐車場に反響して戻ってくる。
でも返事はない。
美桜はうつ伏せに倒れて動かない。髪が床に散って、肩が小さく震えたようにも見えたけど、確信が持てない。
何をされたのか分からない。
視界の端が、じわっと滲む。焦点が合わなくなっていく。
男がゆっくり振り向いた。
こちらを見る目が、嫌に落ち着いている。
「……まだいんのかよ。しつけぇな。邪魔すんな」
吐き捨てて、男が立ち上がる。
こっちへ歩いてくる。靴音が、やけに大きい。
身体で勝てる相手じゃない。
俺は小さい。走れない。力もない。
じゃあ今できることは何だ。
時間を稼ぐ。目撃者を呼ぶ。音を出す。逃げ道を塞ぐ――。
男が口元を歪めた。薄い笑いが、ねばつく。
「何人呼ぼうがムダだって。お前らガキ、世の中ナメすぎ」
「……お前もさ、ちっちゃいのにいい顔してんじゃん。こっち来いよ」
軽い声。場を支配したつもりの、余裕の笑み。
胃の奥がむかつくほど冷えた。
俺は咄嗟にスマホを取り出して、男に向けた。
カメラ。写真。手が震える。けど、止めない。
圧迫された空間の中にカメラのシャッター音だけが響く。
「……なに撮ってんだよ」
男が目を細める。
「今さら撮ってどうすんの。スマホ奪って終わりだっつの」
「神田ちゃんみたいに、ガキ同士でコソコソ作戦会議? かわいそうだな。現実っての教えてやるよ」
確かに。
写真を撮っただけじゃ、逃げて見せることができない。
でも――逃げない前提なら、やりようがある。
俺は画面を見せないまま、男を睨みつけた。
「……今、送信押して、グループに送る」
俺の声は思ったより低かった。
駐車場の空気が、一瞬だけ止まる。
男の足が、ぴたりと止まった。
「は?」
「愛ちゃんと、クラスの子。あと先輩にも届く」
「後ろの美桜も、車のナンバーも入ってる。逃げても足がつく」
ここまでは言える。
でも正直、半分はブラフだ。俺はインスタのグループには入っていない。送れるとしたら、電話番号で繋がってる相手にだけ。
そんな操作している暇はない。
目の前の男から目が離せない。
それでも――止めるには、今は“言い切る”しかない。
「これ以上近づいたら、送る」
男の顔から、笑みが少しだけ薄れた。
その代わり、苛ついた熱が浮いてくる。
「……は? 脅し? ガキが背伸びしてんな」
「ナンバー? 撮ったってムダだよ。警察でも追えねぇから。分かってねぇんだよな、そういうの」
男が、また一歩踏み出す。
距離が縮まる。こっちの喉が勝手に固くなる。
俺は一歩だけ下がった。
背中が柱に当たりそうで、嫌な汗が出る。
――ナンバーが意味ないって、どういうこと?
咄嗟にプレートを見る。
品川 315
わ 1123
ひらがなが「わ」だ。
レンタカーだ。
万が一逃げても足がつかないように、最初からそれを選んだ。
そういう準備をしてるってことは――偶然じゃない。遊びじゃない。
でも、だからこそ。
「……《《品川315わ1123》》。レンタカーだよね」
男の目が、わずかに動いた。
ナンバーを見ただけでそこまで気づくとは思ってなかった、そんな顔。
「……へぇ。そこまで見て分かんのか。生意気だな」
「レンタカーだろうが何だろうが、ガキに何ができんだよ」
「ナンバーから会社が分かったところで、終わりだろ。痛いめあいたくなかったらスマホを渡せ」
やたら饒舌だ。
今まで、そうやって少年少女を丸め込んできたのかもしれない。
でも、俺は乗らない。
「借りるとき、運転免許証出したでしょ」
「会社に照会がいけば、借りた人が分かる。時間の問題」
男は少し考えたあと顔色が、すっと変わった。
血の気が引くのが分かる。
俺は息を吸って、声を張った。
「ここ、《《ららぽーと桶山七階の駐車場》》!」
「《《中学一年を連れて行こうとしてる》》! それ、《《誘拐》》だから!」
男の顔に血色が戻り、怒りが増えていく。
「ふざけんな! 誘拐じゃねぇ!」
「神田は自分から来たんだよ! 都合いいときだけ被害者ぶってんじゃねぇ!」
「金だけ取って逃げようとして、マジ舐めてんだろ!」
助手席――車の中にいる神田さんが、俯いたまま首を横に振っていた。
俺の胸が、きゅっと縮む。
間に合え。間に合ってくれ。
男は唾を飛ばす勢いで叫ぶ。
「いい思いしたんだから、その代金払ってもらうんだよ!」
「中坊のくせに調子乗りすぎなんだよ。いい薬だろ」
「誘拐じゃねぇよ。俺は“連れてってやる”だけだ」
言いながら、男は一瞬だけ神田さんをちらっと見た。
そしてこっちを向き直ったとき――顔には、気持ち悪いほど作り物みたいな笑顔が貼りついていた。
男はふっと視線を外し、背中を向ける。
助手席の前を通り過ぎ、倒れている美桜のほうへ歩いていく。
「動かないで! 送信するよ!」
俺が声を張ると、男の肩がわずかに揺れた。
でも止まらない。ゆっくり、ゆっくり、美桜の横に立つ。
美桜はうつ伏せのまま動かない。
呼吸があるか分からない距離が、一番怖い。
俺はスマホを握りしめ、送信できる“ふり”を崩さないまま、男に近づいた。
足を出すたび、心臓が喉元にせり上がる。
男は振り返らずに言った。妙に穏やかな声で。
「送んな。……送んないなら、この暴力に何もしねぇよ」
そう言って、男は美桜の横腹を、靴の先でコツコツと蹴った。
軽い音なのに、胃がひっくり返る。
「やめて! 美桜に触らないで!」
俺は声を上げながら、助手席の横まで来た。
神田さんを一瞬だけ見る。
……視線を戻せない。
神田さんは、手首が結束バンドで固定されている。白い結束バンドが、細い手に食い込んでいた。その結束バンドも締められたシートベルトと結束バンドで繋げられていた。
これじゃ降りられない。
切るものがないと――。
「……ひどい」
漏れた声が、震えた。
男は笑みを深くして、しゃがみ込む。
そして、美桜の頭を撫でた。優しいふりの動作が、気持ち悪い。
「スマホ、出せ。今すぐ」
声が低い。
交渉ができる温度じゃない。
男は立ち上がり、ゆっくり近づいてくる。
これ以上、近づかれたら終わる。
俺はスマホを胸の高さで構えたまま、必死に声を作る。
「美桜と……神田さんを……解放して」
大きい声を出そうとするが、声が上手く出ない。
俺の指も動かない。
恐怖で身体が言うことをきかない。冷たい汗で手が滑りそうになる。
――まずい。
次の瞬間、男の手が伸びた。
スマホが、するりと奪われる。
俺の手は、スマホを握っていた形のまま固まっていた。
男は奪ったスマホを一瞥して、鼻で笑う。
「……画面消えてんじゃん。ロックか」
「ま、あとで開けりゃいいわ」
そう言って、俺のスマホをポケットにねじ込んだ。
男は笑顔で俺を見下ろしている。勝った顔だ。
そのとき――
「朱音ちゃーん!」
遠くから、女の子の声が飛んできた。
愛ちゃんの声だ。切れるみたいに高い。
呼んでいる。
男の顔が、さっきのニヤつきから一気に苛立ちへ戻る。
「……まだ増えんのかよ。マジでウゼぇ」
さらに愛ちゃんの声が続く。
「あ、あっちをお願いします! 警備員さん!」
複数の足音。
速い。靴底が床を叩く音が、駐車場に増えていく。
――間に合う。
間に合わせる。
俺は、息を吸った。
声を出す準備をする。今度は“助けを呼ぶ声”を――




