第4話 集合
「止めないと」
口から漏れた声は、自分でも驚くくらい乾いていた。
美桜は黙ったまま、俺を見ている。逃げ道のない目だ。
やがて美桜がゆっくり近づいてきて、手を握った。
指先があたたかい。ぎゅっと握られるだけで、胸の奥のざわつきが少しだけ形を変える。
「止めるだけだよ」
自分に言い聞かせるみたいに言うと、美桜が小さく頷いた。
「もちろん」
俺はすぐに、愛ちゃんに電話をかけた。
呼び出し音が二回、三回――。
『あ、朱音ちゃん? ごめんね。本当は巻き込みたくなかったんだけど、私どうしたらいいのか分からなくて……』
愛ちゃんの声は早口で、息が上がっている。
電話越しなのに、焦りがそのまま伝わってくる。
「ううん、大丈夫。教えてくれてありがとう。それと――集合場所、時間、人数。相手と約束した時間と場所、食事の店。あと、誰が知ってる? その情報はどこから――」
思いつく限りが、口から一気に出てしまう。
止まらない。頭の中が勝手に整理を始めてしまう。
電話の向こうで愛ちゃんが詰まった。
『え、え? ちょ……待って、え?』
隣から、美桜が俺の腕を軽くつつく。
「朱音、一気に聞きすぎ」
「……ごめん」
俺は一度息を吸って、声の温度を落とした。
相手は愛ちゃんだ。中学生で、警察官じゃない。
「えっと、順番でいい。分かるところから教えて」
『うん……』
愛ちゃんは小さく返事をして、それからぽつぽつと話し始めた。
インスタのグループチャット――“仲良し2組”に、神田さんが書き込んだのがきっかけらしい。
iPhoneをもらうから、助けてくれる人募集。
そんな軽い言い方で。
――場所は、駅に隣接したショッピングモール。
レストラン前に、昼の十一時集合。神田さんはその男と、そこで落ち合う。
それとは別に、見守り役の中学生たちは三十分前に現地集合。
話し合いの結果、一年二組が四人。そこに二年生の先輩が二人加わって、合計六人が来ることになった。
作戦はこうだ。
食事中にiPhoneを受け取ったら、「トイレ行ってくる」と言って席を外し、そのまま逃げる。
その間、みんなは少し離れた場所に隠れて大人を監視。
神田さんが抜けられたら、合流して、サポートしながら一緒に逃げ切る――。
――浅はかだ。
胸の奥が冷える。
“逃げる”って言葉が、子どもの遊びみたいに軽い。
でも相手は大人だ。大人の手が、そう簡単に離してくれるわけがない。
愛ちゃんに、
「私たちが何かするからもう大丈夫。安心して。」
と言い、電話を切った。
俺は時計を見た。時間は10時過ぎ……。
今から自転車で行けば、ぎりぎり十一時に間に合うかもしれない。
電話を切ると、美桜が一歩近づいて、俺の目をまっすぐ見た。
「お願い、神田を助けたい」
俺も、美桜の目をまっすぐ見返す。
しばらく沈黙が続く。
「……わかった」
美桜は一拍置いて、同じ目で頷いてくれた。
それから口元に人差し指を立てる。
「でも絶対、無理しないこと。私も一緒に行くからね」
本当は危険なことに巻き込みたくない。
でも、俺一人じゃ何もできない現実がある。
それでも――何かあったら、美桜だけは守る。
そう心に決めて、俺は手を強く握り返した。
「うん、ありがとう」
そう言って、二人で急いで準備を始めた。
土曜の施設は静かだ。
その静けさを、俺たちの動きだけで乱れていく。
急いでいるのに、ふと姿見に視線が引っかかった。
鏡の中の俺は、怖い顔をしていた。
緊張で眉が寄って、唇が薄くなっている。
そして――着ている服が、ガーリーすぎた。
白いフリルのブラウス。胸元のリボン。黒のジャンパースカート。膝上の裾にレース。
今さら、顔が一気に熱くなる。
俺の休日は基本、施設の中で過ごしている。
少女になった反動で心臓が悪く、走れない。だから外に出ること自体が少ない。
施設の中なら、この恥ずかしい服でも何とかやり過ごせる。
でも行き先はショッピングモールだ。しかもクラスメイトも来る。
――今から着替える?
でも時間がない。
廊下の向こうから、美桜の気配が近づいてくる気がする。
迷ってる暇はない。
俺は拳を握って、鏡の自分から目をそらした。
このまま行く。
恥ずかしさより、嫌な予感のほうが重い。
玄関を出た瞬間、外の光がやけに強く感じた。
春のはずなのに空気は冷たくて、頬のあたりがきゅっと締まる。
美桜が先に自転車を引っ張り出す。鍵の金属音が短く鳴って、施設の静けさが少し割れた。
「はい、ヘルメット」
美桜が差し出してくる。
俺は受け取りながら、自分の服を見下ろした。
フリル。リボン。レース。
こんな格好で自転車に乗るの、正気じゃない。
「朱音?」
俺の葛藤に気づいたのか、美桜が眉を寄せて声をかけてきた。
――迷ってる暇はない。
俺はヘルメットの紐を留め、ペダルに足を乗せる。
漕ぎ出した瞬間、スカートの裾がふわっと持ち上がって、慌てて押さえた。恥ずかしさが熱になって、首まで上がる。
「……朱音、前見て」
「み、見てる……」
美桜が隣で、いつもより少しだけ速度を落としてくれている。
俺に合わせる、っていうより――俺が無理をしないように見張ってる。
自転車の車輪がアスファルトを撫でて、風が頬を切る。
呼吸は乱れない。走ってない。大丈夫。
それでも胸の奥は落ち着かなかった。
「神田が行く」っていう事実が、何度も頭の中で反響する。
駅前の交差点が見えてくる。
車の音、人の声、店のBGM。施設の静けさとは別世界だ。
ショッピングモールの看板が視界に入った瞬間、俺の喉が乾いた。
「……着いた」
自転車置き場の列に停める。
鍵をかける手が、少しだけ震えた。気づかれないように深く息を吸って、呼吸を整える。
時間は10時55分だ。
なんとか間に合った。
美桜が俺の手をそっと掴んで、握り直してきた。
「私、いるから。無理なら、すぐ言って」
「うん」
その言葉だけで、足元が少しだけ安定する。
モールの入口は、土曜の昼前らしく人が多い。
ベビーカー、買い物袋、学生の群れ。匂いも混ざってる。パン屋の甘い匂いと、フードコートの油の匂い。
俺たちは人波に紛れるように、エスカレーターへ向かった――
そのとき、手首を掴まれた。
反射で振り返る。
そこにいたのは、愛ちゃんだった。
制服じゃない。薄い色のパーカーに、スニーカー。髪はいつものサラサラロングのままなのに、私服だと雰囲気が違って、一瞬、誰か分からなかった。
「……愛ちゃん、来たの?」
思わず声が上ずる。
「うん」
愛ちゃんは、息を少し切らしながら頷いた。
いつもの明るさはあるのに、目の奥だけ落ち着かない。
「見てるだけで終わりたくなかったの」
「ほんと、ごめんね……」
そう言って、愛ちゃんは俺の手を強く握ってきた。指先が冷たい。
「ううん。教えてくれてありがとう」
俺も握り返す。
手のひらの温度が重なって、胸のざわつきが少しだけ現実に戻る。
美桜が愛ちゃんを見て、小さく頷いた。
“来てくれた”ことを、ちゃんと受け取った顔だった。
俺は、愛ちゃんの手を握ったまま、声を落として聞いた。
「今、状況どうなってる?」
「神田さんたち、もういる? 大人の男は?」
愛ちゃんは唇を噛んで、周りをちらっと見回した。
モールの喧騒の中で、俺たちだけが別の時間を生きてるみたいだった。




