表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/13

第2話 約束

 その後の授業は、何事もなかったみたいに進んだ。

 黒板の字はいつも通りで、先生の声もいつも通り。教室の笑い声も、休み時間のざわつきも、さっきの空気なんて最初から無かったことみたいに流れていく。


 ――でも、私の歯車だけが外れていく。


 俺はノートを取るふりをしながら、さっき神田の目が一瞬だけ揺れたのを思い出していた。

 「行かない」って言葉の軽さ。

 あの場を終わらせるためだけの、雑な蓋。


 授業が一区切りついたタイミングで、愛ちゃんがふっと俺の机に近づいた。

 目が合う。愛ちゃんは何も言わないけど、困った顔をしている。


 俺は、周りに聞こえないように小さく声を落とした。


「……さっき、ごめん。巻き込んで」


 愛ちゃんは「ううん」と首を振って、それでも口を尖らせる。


「朱音ちゃんさ、ガチで勇気あるよね。私にないところ」


 笑ってるのに、心配の色が混じってる。

 俺は「ごめん」ともう一回だけ言った。


 今日は午前授業だけで、昼前には下校になった。

 帰りのチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気にほどける。椅子を引く音、机の脚がこすれる音、カバンのファスナー。みんなが「放課後」へ向かって流れ出す。


 俺はその流れに遅れないように、ノートと教科書の角を揃えてから鞄に入れた。

 揃えても、胸の中までは落ち着かない。


 昇降口に行くと、下駄箱の前に美桜がいた。

 人の波の向こうで黒いショートカットが揺れる。美桜は俺を見つけると、目立たないくらいの小さな手振りをした。


「お待たせ」


「ううん」


 声の温度が、少しだけ戻る。


 二人で並んで歩き出す。

 校門を出た瞬間、学校のにおいが薄れて、道の匂いになる。アスファルトの熱と、草の湿った香り。春の光は明るいのに、影はまだ冷たい。


 美桜は、しばらく何も言わない。

 でも歩幅がほんの少しだけ、俺に合わせてある。


 施設までの道の途中、信号が赤になって立ち止まったとき。

 美桜が横目で俺を見た。


「朱音。今日、なんかあった?」


 どきっとする。

 言わなくてもバレそうな目をしてる。いつもの、逃がさない目。


 俺は口を開けて、閉じる。


「……美桜、その……」


 美桜の目が細くなる。


「また、何かに首突っ込んだの? ちゃんと言ってね」


 逃げ道を塞ぐのが上手い。

 俺は観念して、神田のことを全部話した。休み時間のこと、インスタのスクショのこと、「先生に言う」って言ったこと。神田の顔が変わったところまで。


 話し終える頃には、信号は青に変わって、また赤に戻っていた。

 二人だけ、時間が止まってるみたいだった。


「朱音……」


 美桜は呆れた顔をして、長いため息を落とした。


「朱音が悪役になる必要、ないじゃん」

「先生に言えばよかったのに」


「でも……先生に言っても、神田さんは躱して終わりだと思う」


 美桜は口を結んで、俺の横顔を見ている。

 その視線が痛い。


 俺は続けた。


「それに、どうせ犯人探しになる」

「愛ちゃんが疑われるの、嫌だった」


 美桜の眉が少しだけ動く。

 納得と、もどかしさが混ざった表情。


「……本当に行きそうなら先生に言うつもりだった」


 美桜は小さく息を吐いて、俺の手をぎゅっと握った。

 その力が、ちょっと強い。


「でも、朱音が嫌われちゃう」


「大丈夫だよ」


 そう言いながら、俺自身が一番「大丈夫じゃない」ことを知ってる。

 美桜は視線を落とし、少しだけ間を置いて言った。


「朱音って、そうだもんね」


 その一言が、妙に優しい。


「……ごめんね」


「謝らなくていい」

「でも、そういうとこに救われたんだよ」


 美桜が体を寄せてくる。

 頭が、こつんと俺の頭に乗った。髪の匂いがする。シャンプーの甘い匂いと、外の風の匂い。


「お、重いよ〜」


「うん、ごめんね」


 美桜は笑って、でもすぐ真面目な声に戻った。


「絶対、一人で動かないでよ」


 それは命令じゃない。

 お願いの形をした、約束だ。


 施設に帰り着いたころには、太陽はまだ高かった。

 昼の光が、玄関の影を短くしている。


 その夜。

 いつも通り、美桜は俺のベッドに潜り込んできた。布団がふわっと持ち上がって、冷たい空気が一瞬だけ入り込む。


「ねえ、神田のやつさー……マジでムカつく」

「てか愛もさ、止めるなら止めるで、なんか中途半端だし」


 ぷんぷん怒りながら言ってるのに、手は俺の服の裾を掴んで離さない。

 怒ってるのに、離れたくないみたいに。


「でもさ」


 美桜が声を落とす。

 布団の中で、さらに近づいてきた。


「朱音に救われたし、そういうとこ大好きだけど……」

「もうちょい空気読んでよ」


 そのまま、抱きついてくる。

 腕の力が思ったより強い。


「傷つけられたら、私、許さないよ」


 美桜には、児童相談所のときからずっと支えられている。

 なのに最近、ちょっとくっつきすぎじゃないか、とも思う。


 それを口にしたら、美桜の顔が曇るのも分かってる。

 でも、美桜の胸の中は暖かく、全てが許されるような気持になる。


 ――と思った、その直後。


 美桜が抱きついていた力を、ふっと弱めた。

 布団の中で身じろいで、俺の髪を指先でそっとすくう。前髪をかき上げるようにして、耳にかけた。


 目が合った。


 何か言いかけて、言葉が出ないまま、数秒だけ見つめ合う。

 近すぎて、呼吸の間が分かる。


「……明日、また早いよね。おやすみ」


 美桜はそう言って、目を閉じた。


 吐息が届くほどの距離に、美桜の顔がある。

 俺は、いつもこの距離感に慣れなくて――勝手に胸がどきどきしてしまう。


 目を閉じても、さっきの視線の温度が残ったままだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ