第2話 約束
その後の授業は、何事もなかったみたいに進んだ。
黒板の字はいつも通りで、先生の声もいつも通り。教室の笑い声も、休み時間のざわつきも、さっきの空気なんて最初から無かったことみたいに流れていく。
――でも、私の歯車だけが外れていく。
俺はノートを取るふりをしながら、さっき神田の目が一瞬だけ揺れたのを思い出していた。
「行かない」って言葉の軽さ。
あの場を終わらせるためだけの、雑な蓋。
授業が一区切りついたタイミングで、愛ちゃんがふっと俺の机に近づいた。
目が合う。愛ちゃんは何も言わないけど、困った顔をしている。
俺は、周りに聞こえないように小さく声を落とした。
「……さっき、ごめん。巻き込んで」
愛ちゃんは「ううん」と首を振って、それでも口を尖らせる。
「朱音ちゃんさ、ガチで勇気あるよね。私にないところ」
笑ってるのに、心配の色が混じってる。
俺は「ごめん」ともう一回だけ言った。
今日は午前授業だけで、昼前には下校になった。
帰りのチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気にほどける。椅子を引く音、机の脚がこすれる音、カバンのファスナー。みんなが「放課後」へ向かって流れ出す。
俺はその流れに遅れないように、ノートと教科書の角を揃えてから鞄に入れた。
揃えても、胸の中までは落ち着かない。
昇降口に行くと、下駄箱の前に美桜がいた。
人の波の向こうで黒いショートカットが揺れる。美桜は俺を見つけると、目立たないくらいの小さな手振りをした。
「お待たせ」
「ううん」
声の温度が、少しだけ戻る。
二人で並んで歩き出す。
校門を出た瞬間、学校のにおいが薄れて、道の匂いになる。アスファルトの熱と、草の湿った香り。春の光は明るいのに、影はまだ冷たい。
美桜は、しばらく何も言わない。
でも歩幅がほんの少しだけ、俺に合わせてある。
施設までの道の途中、信号が赤になって立ち止まったとき。
美桜が横目で俺を見た。
「朱音。今日、なんかあった?」
どきっとする。
言わなくてもバレそうな目をしてる。いつもの、逃がさない目。
俺は口を開けて、閉じる。
「……美桜、その……」
美桜の目が細くなる。
「また、何かに首突っ込んだの? ちゃんと言ってね」
逃げ道を塞ぐのが上手い。
俺は観念して、神田のことを全部話した。休み時間のこと、インスタのスクショのこと、「先生に言う」って言ったこと。神田の顔が変わったところまで。
話し終える頃には、信号は青に変わって、また赤に戻っていた。
二人だけ、時間が止まってるみたいだった。
「朱音……」
美桜は呆れた顔をして、長いため息を落とした。
「朱音が悪役になる必要、ないじゃん」
「先生に言えばよかったのに」
「でも……先生に言っても、神田さんは躱して終わりだと思う」
美桜は口を結んで、俺の横顔を見ている。
その視線が痛い。
俺は続けた。
「それに、どうせ犯人探しになる」
「愛ちゃんが疑われるの、嫌だった」
美桜の眉が少しだけ動く。
納得と、もどかしさが混ざった表情。
「……本当に行きそうなら先生に言うつもりだった」
美桜は小さく息を吐いて、俺の手をぎゅっと握った。
その力が、ちょっと強い。
「でも、朱音が嫌われちゃう」
「大丈夫だよ」
そう言いながら、俺自身が一番「大丈夫じゃない」ことを知ってる。
美桜は視線を落とし、少しだけ間を置いて言った。
「朱音って、そうだもんね」
その一言が、妙に優しい。
「……ごめんね」
「謝らなくていい」
「でも、そういうとこに救われたんだよ」
美桜が体を寄せてくる。
頭が、こつんと俺の頭に乗った。髪の匂いがする。シャンプーの甘い匂いと、外の風の匂い。
「お、重いよ〜」
「うん、ごめんね」
美桜は笑って、でもすぐ真面目な声に戻った。
「絶対、一人で動かないでよ」
それは命令じゃない。
お願いの形をした、約束だ。
施設に帰り着いたころには、太陽はまだ高かった。
昼の光が、玄関の影を短くしている。
その夜。
いつも通り、美桜は俺のベッドに潜り込んできた。布団がふわっと持ち上がって、冷たい空気が一瞬だけ入り込む。
「ねえ、神田のやつさー……マジでムカつく」
「てか愛もさ、止めるなら止めるで、なんか中途半端だし」
ぷんぷん怒りながら言ってるのに、手は俺の服の裾を掴んで離さない。
怒ってるのに、離れたくないみたいに。
「でもさ」
美桜が声を落とす。
布団の中で、さらに近づいてきた。
「朱音に救われたし、そういうとこ大好きだけど……」
「もうちょい空気読んでよ」
そのまま、抱きついてくる。
腕の力が思ったより強い。
「傷つけられたら、私、許さないよ」
美桜には、児童相談所のときからずっと支えられている。
なのに最近、ちょっとくっつきすぎじゃないか、とも思う。
それを口にしたら、美桜の顔が曇るのも分かってる。
でも、美桜の胸の中は暖かく、全てが許されるような気持になる。
――と思った、その直後。
美桜が抱きついていた力を、ふっと弱めた。
布団の中で身じろいで、俺の髪を指先でそっとすくう。前髪をかき上げるようにして、耳にかけた。
目が合った。
何か言いかけて、言葉が出ないまま、数秒だけ見つめ合う。
近すぎて、呼吸の間が分かる。
「……明日、また早いよね。おやすみ」
美桜はそう言って、目を閉じた。
吐息が届くほどの距離に、美桜の顔がある。
俺は、いつもこの距離感に慣れなくて――勝手に胸がどきどきしてしまう。
目を閉じても、さっきの視線の温度が残ったままだった。




