表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/17

第17話 鞄


 中学生になって、二週間ほど経った。


 今日は体育の時間があった。校庭での体力測定だ。

 春の空は青いのに、地面はまだ少し冷たくて、土の匂いが湿っている。運動靴が砂を踏む音、遠くで笑ってる声、ホイッスルの乾いた音が混ざって、校庭全体がざわざわしていた。


 俺は「無理をしてはいけない」ということで、先生の補助だった。

 走らない。跳ばない。息を上げない。

 頭では分かってるのに、みんなが駆け出すのを見ると、胸の奥がちょっとだけ疼く。


 先生がタイムを読み上げる。

 俺はその数字を、クリップボードに挟んだ記録用紙へひたすら書き込んでいく。


「次、相澤! 位置つけー!」

「はいはい、余裕っす!」


 相澤亨《《あいざわとおる》》。

 声が大きくて、返事が軽い。クラスの男子の中心みたいなやつだ。運動ができて、明るくて、悪ふざけもするけど、みんなが笑ってしまうタイプ。


 百メートル走が終わり、休憩になった。


「あっ、田中。クラスからボールペン持ってきてくれるか?」


「分かりました」


 俺は一人で、ゆっくり教室に戻った。

 校舎の中は外よりひんやりして、汗をかいた肌に冷気が貼りつく。廊下には部活勧誘のポスターがまだ残っていて、紙の角が風でかすかに揺れていた。


 教室のドアを開ける。

 空っぽの教室は、体育中の熱気が嘘みたいに静かだった。蛍光灯の白い音と、窓から入る風の微かな音だけ。


 先生の机のほうへ歩きかけた――そのとき。


 目の端に、人影が入った。


 そこにいたのは、相澤亨だった。

 体育の休憩中だったはずなのに、教室にいる。

 しかも、相澤くんが立っていた場所は、別の男子の机の前だった。


 鞄が開いている。

 相澤くんの手が、鞄の中に入っている。


 相澤くんは固まって、口をあんぐり開けたまま俺を見た。

 時間が一拍、止まったみたいに感じた。

 俺も声が出ない。


 ――何してる。


 視線を外せないまま数秒。

 相澤くんはようやく血が巡ったみたいに動き出した。


「……まだ盗ってねぇからな。盗ってねぇから」


 焦った声。言い訳が先に出たみたいな声。

 相澤くんの手は鞄の中だが、財布を掴んでいるのが見える。

 相澤くんは財布を、慌てて“元に戻す”みたいに押し込み、鞄を元の形に整えた。ファスナーを閉める音がやけに大きい。


 それから、俺を睨んだ。

 睨むというより――必死で圧をかけてくる目。


「誰にも言うなよ」


 低い声。

 相澤くんはそれだけ言って、教室を出て行った。


 ドアが閉まる音が、がちゃん、と響いた。


 ――相澤くんは、他人のお金を盗もうとしていた。


 胸の奥が、冷える。

 怒り、というより、嫌な現実を見た感じ。

 “こんなこと、身近にあるんだ”っていう、あの生々しい感触。


 俺はボールペンを取って、校庭に戻った。

 先生に渡して、また記録係に戻る。


 紙の上の数字は増えるのに、頭の中はずっとさっきの教室の光景が残っている。

 相澤くんを見ると、こちらを睨んでいるように見える。


 ――告げ口するなよ、ってことだ。


 俺は、先生にこのことを言うつもりはない。

 確かにやろうとしたことは悪い。

 でも、今回見つかったことで“もうしない”なら、それが一番いい。


 ……そう思いたい。

 思いたいだけかもしれない。


 体育が終わってからも、昼休みも、授業中も。

 ずっと視線を感じた。


 休み時間、前の席の愛ちゃんがくるっと振り向いた。

 髪が揺れて、机の上に影が落ちる。


「ねね、朱音ちゃん。相澤くんにめっちゃ見られてない?」


「……そ、そうかな?」


「朱音ちゃん可愛いから、好きなのかもよ?」


 愛ちゃんが妙に楽しそうで、口元がにやけている。

 こっちは笑えないのに。


「ち、違うと思うよ」


 だって相澤くんが見ているのは、俺が告げ口しないか見張っているだけだ。


 俺はわざと相澤くんを見ながら、愛ちゃんに耳打ちする。

 愛ちゃんも乗り気で、ぐっと耳を寄せてくる。


 近づいた瞬間、愛ちゃんの髪から柑橘みたいな甘い匂いがふわっとした。

 胸の奥が、変なところで跳ねる。

 恥ずかしくて身を引きそうになるのに、引いたら怪しまれる気がして、変に動けない。


 俺はそのまま、わざと意味のない声だけ出した。


「……ごにょごにょごにょ」


 愛ちゃんが一拍置いて、俺を見て笑う。


「なにそれー?」


 その瞬間。


 ガタッ、と椅子が鳴った。

 机が擦れる音も一緒にして、空気が一気に固くなる。


 相澤くんが立ち上がって、まっすぐこっちに向かってくる。

 愛ちゃんもびくっとして、相澤くんを見る。


 相澤くんは俺の真横まで来て、怒った顔で言った。


「な、何話してるんだよ!」


 近い。

 男子の体温と圧が、目の前にある。

 俺は反射で肩が強張る。


「ど、どうしたの? 相澤くん」


 愛ちゃんは本当に何も知らない顔をしている。

 それが逆に不思議だったのか、相澤くんの勢いが少しだけ落ちた。


 俺は落ち着いた声を作って言う。


「何も話してないよ。安心して」


 相澤くんは、じっと俺を見た。

 その目の奥に、焦りが見える。

 脅してるつもりなのに、怯えてる目。


 相澤くんは何も言わず、踵を返して自分の席へ戻っていった。


 ……相当、警戒している。

 でも今ので「俺が話す気はない」ってことが、伝わってくれたらいい。



 放課後。帰ろうとした。

 部活は来月からだから、今は何もせずに帰宅だ。運動部は体験入部で、もう活動しているところもある。


 教室を出ると、美桜が待っていた。

 廊下の光の中で、黒いショートカットがすぐ分かる。


 美桜は俺の手を取って、当たり前みたいに繋いだ。

 その瞬間、胸の奥のざわつきが少しだけ落ちる。


 二人で校舎を出て歩き出した、そのとき。


「田中朱音さん。ちょっと話があるんだ」


 背中に声が刺さる。

 振り向くと、相澤くんだった。


 顔が真っ赤で、目が少し潤んでいる。

 怒ってる赤じゃない。恥と焦りが混ざった赤。


 隣で、美桜が握る手に力が入った気がした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ