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第13話 素因数分解

 俺は中学に行く。

 施設から歩いて行ける距離にある、ごく普通の公立中学校だ。


 今日は入学の準備をする日――と言っても、だいたいのことはもう終わっている。

 バッグも、上履きも、体操着も、ほとんどがお下がりだ。


 新品を選んで買う、なんて当たり前はここにはない。

 児童養護施設は、とにかくお金がない。

 新品でもらえたのは文房具くらいで、それだって無駄にはできない。ノートはもらう冊数が決まっていて、誰が何冊使ったか、ちゃんと書いて残る。


 だから――今日のメインは、物じゃなくて、頭の準備。


 ホールのテーブルにノートを広げていると、美桜が早速うなった。


「あぁ、意味わかんない……」


 鉛筆の先が、ノートの余白をむりむりと落書きしている。

 いつもは礼儀正しい美桜が、明らかに不機嫌だ。


「だからぁ~、最大公約数を求めたらいいの」


 教えてくれているのは、ゆかりだ。声だけはやたら元気で、空気をぐいっと持ち上げる。


「その最大公約数って、どういう意味?」


「う~ん……みんなの一番大きいのを求める感じ?」


 ……ゆかり姉、言い方がふわっとしてる。

 なんか怪しいぞ。


「じゃ、45と60の一番大きい数字って、45?」


 美桜がゆかりを見上げて聞く。

 ゆかりは一瞬、目が泳いだ。


「いやぁ~、違うんだよね~。なんか、ほら」


 そう言いながら、テーブルの下でスマホを触っている。

 美桜が気づいて、じとっとした目でゆかりを見た。


 俺はたまらず口を挟む。


「小さい数で割って、共通する数を集めれば……良かったような?」


 ゆかりが、あんぐりした顔でこっちを見た。


「そうそう! それそれ! 朱音ちゃん頭いいー!」


 勢いだけは百点だ。

 美桜は呆れながらも、鉛筆を動かしはじめる。ゆかりも「そうそう」って頷きながら、今度は堂々と解説している“ふり”をする。


 しばらくして――


「もう完璧~」


 ゆかりが両手を上げて、やり遂げた顔をした。

 美桜も、さっきまでの不機嫌が少し抜けて、肩の力が落ちた。


「やっぱり私の教え方がうまいか~。うんうん」


 ゆかりが胸を張る。


 美桜はゆかりをじっと見て、薄く笑って言った。


「朱音のおかげが大きいけどね~」


「ぐはっ」


 ゆかりが胸を押さえて、わざとらしく倒れ込む。

 その芝居に、美桜が小さく吹き出した。


「次行こ次! えーと……美桜ちゃんが苦手なのは……」


 ゆかりがテキストをめくって、急に指が止まる。


「……で、電流の流れ!」


 言った瞬間、ゆかりの手がわなわな震えだした。

 テキストを縦にしたり横にしたり、まるで角度を変えれば答えが見えるみたいに。


「直列と並列は、えーと……」


 ぶつぶつ呟く声が、だんだん小さくなる。


 俺はというと、ページを一目見ただけで、だいたい思い出せた。

 もともと数学と理科は得意だった。


 逆に、社会の年号は全然だめだ。

 だって正直、大人になっても使う機会がなかった。覚えても、生活は何ひとつ助けてくれなかったから。


 でも――今は「大人」じゃない。

 中学生になる俺には、また違う形で必要になるのかもしれない。


 ゆかりが泣きそうな顔でページを睨む横で、俺は鉛筆を持ち直した。

 今日の準備は、まだ終わらない。


 夕方は、ゆかりから「中学生の心構え」を叩き込まれた。


 ホールのテーブルに、ゆかりが小さな紙を広げる。

 お姉さんぶった顔でそこに目を落として、こほんと咳払いをした。


「よし。二人とも、聞けー!」


 元気よく言い切って、ゆかりは指で紙を押さえる。


「まずね。保護者は千夏さん。学校の書類とか連絡とか、全部千夏さんが窓口になる」

「で、先生たちは――うちらが施設から来てること、もう知ってる」


 そこまでは、俺も何となく想像がついていた。

 けど、次の言葉で少しだけ空気が冷える。


「でもね。クラスの子に、施設のことは……あんまり言わないほうがいい」


 ゆかりは、少しだけ声のトーンを落とした。


「変な目で見られること、あるから」

「噂ってさ、勝手に走るんだよ。面白がるやつもいるし」


 明るい顔のままなのに、その言葉だけが妙に現実味を持って刺さる。


「門限は午後七時。遅くなるときは絶対連絡。これ、マジで大事」

「スマホは渡されるけど、連絡用ね。SNSとかは保護がかかってて、ほとんど使えない」


 俺はうなずきながら聞いていた。

 自由になった気がするのに、ちゃんと線が引かれている。

 その線は窮屈でもあるし――たぶん、守るためでもある。


「部活は入っていいよ。でもさ……遠征とか、用具とか、お金かかるところは要注意」

「入るのは自由。でも、遠征行けないってなると……仲間外れっぽくなることも、ある」


 ゆかりは紙を見ながら、最後まできっちり言い切った。

 その姿が、今日はやけに“お姉さん”に見えた。


「はい、以上! 質問ある人ー!」


 勢いよく言って、ゆかりは両手を上げる。

 その場の空気を、また明るく塗り替えるみたいに。


 隣で美桜が、俺の方をちらっと見た。

 そして小さく、息みたいに呟く。


「……部活かぁ」


 俺はつられて聞いた。


「何か、やりたいのあるの?」


 美桜は首を振って、少し困ったように笑った。


「ううん。朱音と一緒だったら、何でもいいよ」


 ――その言葉に、胸の奥が温かくなるのと同時に、少しだけ痛くなる。

 美桜は、走れない俺に合わせようとしている。きっと自然に。


 でも、美桜は運動神経がいい。

 本当は運動部のほうが、絶対に合うと思う。


「……私に……。合わせなくてもいいんだよ」


 足かせになりたくない。

 そう思って言ったつもりだった。


 けれど、美桜の唇が尖って、顔が一瞬で不機嫌になる。


「……私は、朱音と一緒にいないと駄目なの!」


 思ったより大きな声になったのか、美桜ははっとして口を押さえた。

 ゆかりも目を丸くして固まっている。


 一拍、沈黙。


 その沈黙を破るように、ゆかりがすかさず二人の間に入り込んだ。

 そして、ぐいっと両腕で抱き寄せる。


「うんうん、二人は仲良しだ~!」

「ほら、部活なんてすぐ決めなくていいんだって。今日は疲れてたね!」


 ゆかりの声は、明るくて強い。

 場の空気を、無理やりでも“普通”に戻してくれる声だった。


 美桜の肩が、少しだけ落ち着く。

 俺も、息を吐く。


 ……助かった。

 そう思うのに、胸の奥の小さな引っかかりは消えなかった。



 その夜。


 就寝時間になって、俺は一人でベッドに入った。

 いつもなら美桜が隣に来て、同じ布団の端っこで小さく笑いながら、おしゃべりが始まる。


 でも今日は――来なかった。


 部屋の中が、妙に広い。

 掛け布団の重みだけが、いつもよりはっきり身体に乗ってくる。


 昼の「部活」のひと言が、まだ空気に残っているみたいだった。

 ほんの少しの気まずさが、二人の間に薄い膜を張ってしまった。


 目を閉じても、眠気が来ない。

 寝返りを打って、布団の端を引き寄せて、また手放す。


 美桜の、少し怒った顔が何度も浮かぶ。

 あの一瞬の尖った唇。言い切るみたいな声。


 時間はどれくらい経ったんだろう。

 時計を見ていないから分からない。


 たぶん、30分も経っていない。

 なのに、もう何時間も経った気がする。


 胸の奥がざわざわして、落ち着く場所がない。

 焦っている。どうして焦っているのか、理由だけが分からない。


 ――俺のせいだ。


 そう考えた途端、息が浅くなる。


 そのとき、廊下のどこかで小さな軋みがした。

 次いで、扉がそっと開く音。


「朱音、入るね」


 美桜の声だった。


 心臓が、きゅっと縮まる。

 安堵と緊張が、一緒に押し寄せてくる。


 布団がわずかに持ち上がり、冷たい空気が入り込む。

 美桜の足が、俺の足に触れた。


 冷たくて、思わず小さく身じろぐ。

 美桜がもぞもぞと布団の中に潜り込んでくる。


 暗い中でも、美桜の輪郭は分かった。

 薄い月明かりが、頬の線を撫でている。


 俺が顔を向けると、美桜と目が合った。


「ごめん。起こしちゃった?」


 声が、いつもより小さい。


「ううん、寝れなかった」


 俺も同じくらい小さく答える。


「……私も」


 その一言が落ちて、部屋の中に静けさが戻る。

 でも、さっきまでの沈黙とは違う。


 美桜の体温が近くにあるだけで、胸のざわつきが少しだけほどけていく。


 美桜は布団の縁を指先でつまんだまま、しばらく黙っていた。

 言葉を探しているみたいに。


 結局、先に出てきたのは謝罪だった。


「……さっきは、ごめんね」


 美桜が小さい声で呟いた。


「……なんで謝るの?」


「部活のこと。私、変な言い方した。朱音は、私と一緒の部活は嫌なの?」


 美桜の目が、少しだけ揺れていた。

 悲しい顔をしている。


「嫌なわけない。美桜と一緒に部活できたら、嬉しいよ」


 正直な気持ちを、そのまま言う。


「ただ、美桜が、私に合わせて我慢するのだけは嫌だったの」


 美桜は口を結んだまま、俺を見ている。

 その視線がまっすぐで、逃げられない。


「……私はね。私がやりたいことをするの」


 言葉が、ゆっくり刺さってくる。


「朱音が勝手に“私のため”って決めるの、嫌だよ」


 胸の奥が痛い。

 たぶん、正しいのは美桜のほうだ。


「ごめん」


 俺が言うと、美桜は少しだけ目を伏せた。


「……私が朱音と一緒にいたいのは、優しいからじゃない」


 その声が、震えている。


「一緒にいたいの。朱音と。我慢じゃないの」


 ――ああ。

 それは、俺も同じだ。


「私も、美桜といたい」


 美桜が、ほんの少しだけ目を見開いて、それからふっと息を吐いた。

 緊張が抜ける音みたいに。


 美桜は布団の中で、俺の手を探ってくる。

 指先が触れて、すぐに絡む。


 冷たかった手が、少しずつ温まっていく。


「一緒に部活、決めよ」


「うん」


 それだけ言って、俺は目を閉じた。

 隣で美桜も、同じように目を閉じる気配がする。


 手を放すタイミングが分からない。

 暗いまぶたの裏で呼吸だけを数えていると、ふいに――唇の端に、柔らかいものが触れた気がした。


 心臓が一拍、変な音を立てる。


 次の瞬間、絡んでいた手がほどけて、美桜が反対側を向く気配がした。

 何も言わない。振り返らない。


 ……気のせいだ。

 そう思うことにして、俺もそのまま眠ることにした。


 さっきまでうるさかった心臓の音が、少しずつ遠くなる。

 眠気が、ようやく布団の中に降りてきた。


 美桜の呼吸が、ゆっくり整っていく。

 そのリズムに合わせるみたいに、俺の息も静かになる。


 暗い部屋の中で、手のひらの温度だけが、まだ残っていた。



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