第12話 面談
食べ終えた皿を持って、シンクに置く。
水の音に混じって、陶器が触れ合う乾いた音がした。
「あー、中学生になったらさー、お皿洗いも手伝ってもらうからねー!」
背中越しに、ゆかりの元気な声が飛んでくる。
毎日、あの人は変わらない。変わらないことが、どれだけ救いになっているか。
「……うん。分かった。」
美桜が小さく言って、俺の袖をちょん、と引いた。
その仕草だけで、胸の奥の緊張が少しだけほどける。
洗面台で歯を磨きながら鏡を見る。
やはり、この顔はまだ見慣れない。受け止めたつもりでも、目の奥が「嘘だろ」と言っている。
美桜と一緒に面談室へ向かう。
廊下の床は、朝の冷えをまだ残していて、靴下越しにもひんやりした。
美桜は心配そうにこっちを見る。
目だけで「大丈夫?」と聞いているのが分かる。
「……たぶん、いつものだから」
そう言ってみせると、美桜はしばらく迷ってから、そっと手を離した。
その温もりが離れるだけで、胸の奥が少し寒くなる。
美桜は扉の前で立ち止まり、俺の袖を軽く掴んだまま小さく頷いた。
面談室の前で立ち止まり、深く息を吸う。
ノックをする。
「失礼します」
声が少し硬い。意識していなくても背筋が伸びてしまう。
元警察官の癖が、こういうところで出る。
千夏は、椅子に座って待っていた。
机の上には書類。けれど、すぐには目を落とさない。先に俺を見る。
「座って」
短く言われて、椅子に腰を下ろす。
座った瞬間、心臓が一拍、強く打った。
今日は空気が違う。
怒られる、というより――見られている。
「朱音ちゃん。心臓の調子はどう?」
視線が逃げ場を与えない。
「いつもの病院の薬、ちゃんと飲んでる?」
一瞬、胸に手を当てたくなる。
俺は小さくうなずいた。
「はい……美桜が、いつも止めてくれるから……」
言い方を選ぶ。
止めてくれるから、心臓に負担がかかることはしていない。そういう意味で。
「走ったり、無理なことは……してないです」
「……そう」
千夏は小さく頷いた。
「美桜ちゃんがいないと、あなた、本当に何するか分からないからね」
冗談じゃない言い方だった。
胸の奥がきゅっと縮む。
千夏は一度、書類に視線を落とす。
紙を整え、ペンを置き直す。時計の秒針が、やけに大きく聞こえる。
――沈黙が痛い。
「児童相談所に来る前の記憶は、ないって言ってたよね?」
来た。
胸の奥がざわりと波打つ。
言えない。
言った瞬間に終わる、という感覚がある。終わるのは俺だけじゃない。美桜の居場所も、今の暮らしも、全部。
ただ、身体が勝手に動いてしまう瞬間がある――それを言えるはずもない。
元警察官として、傷つきそうな人がいると助けてしまう。止めたいのに、止まらない。
その癖が、俺の心臓を追い詰める。誰にも言えない理由として。
だから、いつもの言葉を選ぶ。
「気がついたら……白衣の人に追いかけられてて……」
声が少しだけ掠れる。
「なんで追われてるのかも、分からなくて……怖くて……」
“白衣の人”という単語を出す。 俺が臨床実験で少女になったことから、被検体として追っかけてきた研究者。
海外に連れて行かれるかもしれない――あの恐怖。
今はもう、現実としては違う。けれど、この言い方なら、説明が短く済む。余計な筋に触れない。
「警察署に行ったけど、怖くなって逃げて……行く場所がなくて、児童相談所に……」
顔を上げる。
千夏の目が、俺の目から外れない。
嘘かどうかを量っている目じゃない。
“なぜ言えないのか”を見ている目だった。
「……ふーん」
小さく息を吐く。
「それで、納得すると思ってる?」
疑っている。
けれど、本当のことは言えない。
「あなたが話さないと、私たちも助けられないのよ」
千夏はそこで、言葉を止めた。
長い間が落ちる。秒針の音だけが進む。
千夏は俺の手元を見る。
指先が、机の端を無意識に掴んでいる。自分でも気づかないほど強く。
「……でも」
声の調子が変わる。
「今は、言えない事情がある顔してる」
胸の奥が、わずかに緩む。
責められているのに、救われるみたいに。
「ちゃんと言えるようになったら、話しなさい」
目が、優しい。
「私たちは、あなたを信じてる」
「……はい」
小さく答える。
信じてくれているからこそ、苦しい。
千夏は、俺をしばらく見ていた。
何かを言いたい顔をして、でも言わない。
その“言わなさ”が、逆に重い。
そして、千夏は話題を切り替えた。
切り替える前に、もう一度、俺の表情を確かめるように間を置く。長めに。
「分かった」
優しい声。
「もう、詳しくは聞かない」
少しだけ、微笑む。
「でも、何があっても、私たちは朱音ちゃんの味方だから」
「思い出したら、話して。待ってる」
「それとね」
声に、少しだけ棘が戻る。
「……あなた身体悪いのに無茶しがちだから、私が見てきた中で一番“心臓に悪い”わよ」
言い切りだった。
「ごめんなさい……」
頭を下げる。
ここを失うのが怖い。美桜と離れるのも嫌だ。
でも、同じことがあったら、また身体が動くかもしれない。止めたいのに。
沈黙のまま固まっていると、千夏の手がそっと重なった。
自分が両手を強く握りしめていたことに、その時気づいた。
千夏は、俺の手を引っ張って椅子から立たせた。
空気が、少しだけ軽くなる。
「はいはい。お説教はここまで」
その言い方が、いつもの千夏だった。
「今日は中学生の準備があるでしょ」
「……はい」
面談室を出る。
廊下の向こうから、朝の生活音が戻ってくる。皿の音、誰かの笑い声、ゆかりの大きな声。
そこに戻れることが、ありがたい。
俺は小さく息を吐いて、ホールの方へ足を向けた




