第11話 春
――これは、あの事件より少し前の朝の話だ。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいた。
春の光は柔らかいはずなのに、今日はやけにまぶしい。まぶしさが、布団の中の温度差を余計に際立たせる。
目は覚めた。
けれど、身体がついてこない。
この身体は、どうにも目覚めが悪い。眠気に逆らおうとすると、内側からじわりと重くなる。理性が身体の声に引っ張られていく。
――もう少しだけ。
布団の中でもぞりと身じろぐと、頬にあたたかい温もりが触れた。
薄く目を開ける。
美桜がいた。
同じ布団の中で、静かな寝息を立てている。
長いまつげ。少しだけ乱れた前髪。
肩が上下するたび、布団が微かに波打って、呼吸のリズムがこっちにも移ってくる。
……そうだ。
昨日も、こうして一緒に寝たんだった。
栗原美桜。十二歳。今度、同じ中学生になる。
児童相談所で出会ってから、ずっと一緒だ。同い年ということになっているけれど、生活の中では、いつも美桜の方がしっかりしている。
俺が無理をしないように気を配ってくれるし、着替えや身支度も、さりげなく手伝ってくれる。
心臓の調子が悪い、と診断されてからは、なおさらだった。
美桜にも、過去はある。
男性が苦手なことだけは知っている。理由は義父からの性的虐待だ。良くなってきてはいるが、時々の固まることがある。
それでも美桜は、今ではちゃんと笑っている。――それが、救いだった。
「おっはよーーーっ! いつまで寝てんのーっ!!」
元気すぎる声と一緒に、ドアが勢いよく開いた。
空気が一気に入れ替わる。キッチンから味噌汁の匂いが流れ込んで、寝ぼけた脳の奥を叩いた。
「朝だよ! 朝! ほらほら、起きなさーい!!」
エプロン姿のゆかりが、お玉を掲げて立っている。
渡辺ゆかり。十四歳。中学二年生で、この施設のムードメーカー。
いつも明るくて、声が大きくて、細かいことを気にしない。
そのおかげで、場が救われていることも多い。
――きっと、この明るさも、生きるための形なんだ。
過去に傷を抱えていても、ゆかりは、毎朝こうやって場の空気を破ってくれる。
それでも俺は、まだ布団から出られずにいた。
頭では分かっている。起きなきゃいけない。今日は中学の準備もある。
でも、身体が言うことを聞かない。
起き上がろうとお尻を上げてみる。だめだ。まだスイッチが入らない。
ゆかりは腕を組み、にやっと笑った。
「じゃあさー……今日のサラダ、セロリたっぷりにしよっかな~?」
「それはダメ!!」
俺と美桜は、同時に布団を跳ね飛ばした。
前から思っていたが、セロリは美味しくない。サラダに入れられたら、一日中テンションが下がる。
「ごめん、ゆかり姉! すぐ着替える!」
美桜は慌ててベッドを降り、自分の部屋へ走っていった。
俺も布団を抜け出し、着替えを始める。
姿見の前に立つ。
映っているのは、十歳くらいに見える少女。細い手足に、まだ成長途中の身体。
――でも。
中身は、四十一歳の元警察官だ。
元・生活安全課。誰かが救いを求めている場面に出くわすと、理由なんてなくても身体が動いてしまう。
それは、直したくても直らない癖みたいに残っている。
危険な臨床実験を受けた。
そして、こうなった。
鏡の中の自分は、どう見ても「子ども」だ。
なのに、目だけが妙に落ち着いて見える瞬間がある。そこだけが、昔のままだ。
――そのとき、ポケットの中で小さく震えるものがあった。
スマホ。
俺は反射で画面を伏せたまま、震えを止める。
“通知”の音じゃない。体温計みたいな、淡々とした振動。
これがあるから、息をしていられる。
危険な臨床実験により、この少女の姿になった。
でも、急激な身体の変化により、月に一回の通院を落としたら、身体はさらに“幼く”なる。
心臓は弱くなり走ったり負担をかけると、心臓が先に音を上げる。
スマホは、臨床実験した研究所と繋がり、身体の変化を監視されている。
ゆかりは満足そうに笑い、
「はいはい、急いでねー! 冷めちゃうよー!」
そう言って、軽やかにキッチンへ戻っていった。
俺は、できるだけ急いで着替えた。
選んだのは、黒の少し大きめなズボンと、白いパーカー。目立たなくて、楽で、失敗しない組み合わせ。
俺は、服に興味はないと思っていた。
でも、違う。多分目立たない服を選んでいたのだと思う。
「またさー、可愛くないやつ~」
声のしたほうを見ると、もう美桜は着替え終わっていた。
黒のショートカットに、ボーイッシュな雰囲気。黒のロングTシャツに、黒のデニム。
……いや、美桜も似たような格好じゃん。
「朱音はさ、可愛いんだから、もうちょっと可愛いの選んだほうがいいよ。清美さんに買ってもらったの、あるでしょ?」
「き、今日は中学の準備だから……外出るときに着るんだよ」
「ふーん?」
美桜は納得していない顔で、俺を上から下まで眺めた。
確かに、清美さんに買ってもらった服がある。
白色のフリルブラウスに黒色のジャンスカだ。
――「見た目小学生なんだから、綺麗な服着て、盛れ!」
そう言われて渡されたやつだ。
一回着たことはある。恥ずかしくて、心臓が止まりそうになった。
正直、できれば着たくない。
美桜が、何も言わずに俺の手を取った。
「ほら。行こ。ゆかり姉に怒られるよ」
引っ張られるまま、ホールへ向かう。
ホールはもう朝ごはんの時間だった。
皿の音と話し声が混ざって、少しだけ騒がしい。
「おっそーーい!! お寝坊コンビ、やっと起きたーーっ!!」
ゆかりが、くるっと振り返りながら叫ぶ。
エプロン姿で、トングとお玉を持ったまま。
「ほらほら、突っ立ってないで! はいこれ! 運んでー!」
勢いに押されて皿を受け取る。
恐る恐る、サラダを見る。……セロリは、入っていない。
美桜と目を合わせて、同時に小さく息を吐く。
「よかった」の合図。美桜が、にこっと笑った。
食べ始めたところで、視界の端に影が落ちた。
「また、その格好?」
顔を上げると、清美さんが立っていた。
中村清美。もうすぐ高校三年生になる、口の悪い世話焼き。
言い方はきついけど、面倒見がいい。服も買ってくれるし、ご飯も奢ってくれる。
そのたびに、ため息と文句がセットで付いてくる。
「……あれは、休みの日に着ようと思って」
「今日だって冬休みでしょ。もう買わないからね」
「ご、ごめんなさい。もったいないと思って……ちゃんと着ます」
「駄目になったら買うから。ちゃんと着なよ」
そう言い残して、清美さんはホールを出ていった。
美桜が、小声で俺に言う。
「最近ね、清美さん。スマホ、あんまり見ないんだって」
その言い方がちょっと誇らしげで、俺はパンをかじりながらうなずいた。
――そのとき。
ホールの入口に、ポニーテールの大人が立った。
橋本千夏。ここで一番、空気の温度を変えられる人。
「朱音ちゃん。ご飯食べ終わったら、面談室に来てね」
声は穏やかだった。
でも、空気が変わるのが分かった。
……とうとう、来た。
皿の上のパンを見つめながら、俺は小さく息を吐いた。
今日から中学生。
そして、ここからが本当のスタートだ。




