IX. 選択の夜明け Difficult choices
院内の一角。臨時に設けられた感染観察ユニットの中で、俊介はモニターを食い入るように見つめていた。観察対象は、数時間前に噛まれた看護師・南雲ひかる。まだ意識は明瞭で、受け答えにも支障はない。だがその目は、どこか遠くを見ていた。
「嗅覚……さっきから、すごく鋭くなってきてるんです……。先生の香水、今日変えました?」
「いや……南雲、それは——」
嘘をつけなかった。彼女の脳がすでに侵され始めている。
満のアバターが、モニター越しに現れる。
「兄さん、ウイルスの神経侵襲が始まったな。嗅球から扁桃体、そして……理性の座、前頭葉へ。」
「まだ会話はできる。まだ、間に合うかもしれない」
「兄さん……理性があるうちに、自分で選ばせてあげた方がいい」
満の言葉は、決して冷たいものではなかった。むしろ、それは誰よりも患者に寄り添う者の決意の表れだった。
俊介は机を強く叩いた。
「ふざけるなよ、満! お前ならわかるはずだ。俺たちは……見捨てるんじゃなくて、救うためにいるんだ!」
数秒の沈黙ののち、満の声が穏やかに返ってくる。
「だからこそ。見捨てないために、苦しまずに終われる選択肢も必要なんだ。——俺は、自分自身がそうなる前に、それを選びたかったよ」
俊介は何も言えなかった。
モニターの中、ひかるの口元がわずかに歪んだ。その直後、ガラス越しに看護師に向かって叫ぶ。
「水が……水が腐ってる!飲めない!全部毒だ!あなた、誰!?」
防護服の看護師が後退する。
俊介は思わず走り出しそうになるが、香坂が彼の腕をつかんだ。
「ダメです、先生。あの子は、もう……」
「まだ“あの子”だろ……!人間だろうが……!」
そのとき、院内放送が警報を鳴らす。
「“Code Red”発動。正面玄関にて暴徒化した市民が押し寄せています。警備員は緊急対応を」
ネットで拡散された“感染者は殺せ”という虚偽情報。それに煽られた一般市民が、病院へと向かってきていた。
駐車場から、犬型アニマトロニクスが一斉に出動する。満の操作するその機体たちは、人間に危害を加えないよう制御されながらも、盾のように玄関前に並ぶ。
「兄さん、外は僕が守る。中は……兄さんに任せた」
そう言って、アバターの満は消えた。
病室の前。俊介はゆっくりと中へ入る。ひかるの目が、まるで別人のように俊介を睨んでいた。
「お前も、化け物だ……そうだろ……?」
「ちがう……俺は——君を救いたいんだ」
ひかるが震える手を伸ばしてきた。俊介は、その手を強く握った。
「まだ間に合う。必ず、治す。だからお願いだ……自分を、見失わないでくれ……」
そして、南雲ひかるの状態は、ついに“閾値”を超えた。
拘束具で固定されたままの彼女が、大事な仲間が、夜半、誰にも気づかれないタイミングで、食事用スプーンの柄を分解し、頸部に押し当てたのだ。わずか数秒で、血液が床を濡らし、命の灯は消えた。
彼女の最後の言葉は、「見られてる……全部見られてる……」だった。
俊介はモニターの前で崩れ落ちた。
満のアバターは沈黙したまま、ただその死を見届けた。
「……間に合わなかった。兄さん、これが現実だ」
「……俺が、甘かった。正しさと優しさを履き違えていたのかもしれない」