VI. 香坂祐の決断 The victim and her decision
香坂祐の看護師日誌(抜粋)
3月18日(木)AM02:15 3病感染病棟ナースステーション
PPE装着時間:4時間45分。トイレを我慢して2回目のラウンド。視界は曇り、額には汗。マスク内の呼気が眼鏡を濡らす。
病棟患者数:16名(疑い例含む)
主な症状:嗅覚過敏10名、幻覚3名、異常言動5名。
本日の異常行動:
・305号室・小川三郎、ベッド上で「足音がする」と叫ぶ。
・302号室・佐藤圭太、廊下を裸足で疾走。壁に頭突き、自傷行為。
柊俊介医師へ、感染症内科・柊満医師からの報告。神経侵襲型NRV-7の疑いとの示唆ありと。
03:10。
フェイスシールドを拭いながら、祐は廊下を見下ろす。棟3階は感染症専用に転用されたフロアだ。かつては回復期病棟だったが、JCIの病院機評価をきっかけに、COVIDの経験も経て、ずいぶんむかしに陽圧と陰圧の切り替えが可能な設備に改修されたと聞く。
東側のAブロックが汚染区域。北側通路を経て、西側Bブロックがクリーンゾーン。
患者は原則Aブロックで管理し、職員導線と物品導線を分離。
だが、その整然とした構造は、"あの音"で崩れることになる。
「ガンッ! ガンガンガンッ!」
金属を叩く音。廊下の突き当り、305号室。
祐が駆けつけると、そこには血まみれの防護服があった。若手看護師・南雲ひかるだった。
ゴーグルは外れ、右腕からは血が滴っていた。
「佐藤さんが……急に噛んできて……!」
南雲の瞳は見開かれ、言葉にならない震えが伝わってくる。
病室の奥では、患者・佐藤がベッド柵に頭を打ちつけていた。
「出してくれ……いるんだよ、壁の中に……」
祐はインカムで即時コール。
「305号室、暴力行動。感染看護師一名、咬傷あり。緊急対応チーム、直行して」
数分後、防護服に身を包んだ4人の応援スタッフが到着。
佐藤氏を鎮静処置し、個室に隔離。南雲は汚染除去室へ搬送。
だが、問題はそれでは終わらなかった。
15分後。
汚染除去室内の南雲が、突如笑い始めた。
「……あはは……いい匂いがする……看護師長さん……あなた……おいしそう……」
祐の背筋が凍る。
「鎮静剤、用意! 陰圧室に隔離! 今すぐ!」
香坂祐の看護師日誌(追記)
AM04:20
南雲看護師、軽度発熱と瞳孔不同あり。
幻覚、視覚過敏、嗅覚異常、攻撃性。
すべてのPPEプロトコルを守っていたが咬傷により感染成立。NRV-7は従来型より皮膚粘膜感染効率が高い可能性あり。
職員間に動揺あり。心理的トリアージの導入を検討。
祐は判断を迫られた。南雲を助けるのか、隔離するのか。
「香坂師長、どうしますか?」
若い主任、葛城みゆきの声。
祐は震える声で言った。
「私がやる。あの子の腕、縛って。しっかり拘束して。すぐにライン確保して持続でプロポフォール。……あと……隔離。B4へ。……私がすべての責任を取る」
誰も反論しなかった。ただ、静かに、背中に手が添えられた。