V. 封じ込め失敗 Failure of Zoning
――病院は、封じ込めに失敗した
新宿総合病院 感染病棟(N棟)3階
看護師長・香坂祐は、フェイスシールドの内側で汗を拭った。
頭にはN95マスク、ヘッドキャップ、ゴーグル。防水のガウンに手袋二重、シューズカバーも2枚重ね。すでに6時間以上、無補給で病棟を動き回っていた。
「祐さん、物資搬入ルート、もう一度確認を」
若い看護師が手袋の上からスマートウォッチを操作する。
「南エレベーター経由でPPE搬入、北側廊下を陽圧ゾーンとして使う。Aブロックが汚染区域、Bがクリーンゾーン。患者導線と物品導線が交差しないように」
病棟のゾーニング。それはCOVIDで何度もやった。だが今回は異質だ。感染者の精神症状が常軌を逸していた。
院内カンファレンス室(隔離病棟隣室)にて。
俊介はフェイスシールド越しに、厚労省感染症班から来た男と向き合っていた。
「報告によると、患者3名が“幻覚を見た”“声が聞こえる”と言って暴れた。だが統合失調の既往はない。全員、初発症状は嗅覚過敏です」
感染症班の男はあからさまに苛立った。
「精神症状? ストレスじゃないのかね。君ら、ちょっと過敏すぎるよ。メディアが騒いだらどう責任を取る?」
俊介は拳を握り締めた。
「責任? 医療従事者がやるべきことは“騒がない”ことじゃない、“守る”ことだ」
N棟ナースステーション。
患者の一人が隔離室から飛び出した。
「ヤメテ! 近寄らないでっ!」
悲鳴とガラスの割れる音が重なる。
男は白目を剥き、喉から動物のようなうなり声を漏らしていた。職員を突き飛ばし、廊下を這うように進む。香坂祐はすぐにレッドゾーン切替のスイッチを押した。
「廊下封鎖! 全員、陽圧区域に退避!」
PPEを着た看護師がひとり、男に取りつかれた。腕に噛みつかれる。すぐに警備隊が鎮圧するが、血の臭いと悲鳴が、ナースステーションを戦場に変えた。
SNSの爆発。騒ぎを病棟で見ていた患者もしくは、考えたくはないが職員が配信したのだろう。
数分後、事件の動画がさらにSNSで拡散される。ハッシュタグが踊る。
#新宿総合病院
#新種ウイルス
#バイオテロ
#ゾンビ
#院内感染
「新宿総合病院やばい。患者が職員噛んだって」
「新型狂犬病? 神経やられるウイルスじゃね?」
「病院行くな。もうあそこは地獄だ」
やがてメディアも飛びつく。「院内感染か? それともバイオテロか?」
病院前にはカメラと抗議者が集まり始め、救急搬送の妨害が発生する。
祐と俊介
ナースステーションに戻ってきた俊介は、香坂祐と目を合わせた。PPE越しでも、彼女が泣きそうになっているのがわかった。
「もう、抑えきれない……私たち、ちゃんとやってたのに……」
俊介はそっと、彼女のフェイスシールドに手を添える。触れられない代わりに、その手に込めた。
「お前のゾーニング。指示は完璧だったと思う。だけどウイルスは、それ以上に狡猾だった。感染はもう病棟を超えた。今、封じるべきは――“人間の恐怖心”の方かもしれない」
祐は短く頷いた。
「わかってる……でも私、もう怖いよ、俊介。あの子たち、私の手を見て、“肉が見える”って言った
次の瞬間、Bブロック(クリーンゾーン)で緊急アラームが鳴った。
「"Code Black" "Code Black" 患者が病室から脱走! Bブロックに侵入!」
――もはやゾーニングは意味をなさなかった。