IV.制圧へ Infection Control ? or Fight against Zombies?
西病棟302号室
俊介はフェイスシールドを下げ、PPEの最後のバックルを締めると、静かにドアの前に立った。看護師が小さくうなずく。扉の向こうでは、ベッドの金属フレームを殴る金属音が、まるで鉄琴のように反響していた。
「ロック解除。入ります」
電子錠がカチリと鳴り、俊介はゆっくりとドアを開いた。
漂ってきたのは、汗と血と、鉄さびのような匂い。室内の空気は重く、酸素濃度がやや低い。
そこにいたのは、かつて「患者」と呼ばれていた存在。
筋張った腕には点滴のルートが引きちぎられた痕があり、口元には乾いた唾液と血がこびりついていた。満が言ったように、まさにホラー映画で見た”生きている”zombieかGhoulとういのが表現として適当に思えた。
瞳孔は異様に開き、焦点は合っていない。そのまま、俊介の姿を認識した瞬間――
「オオオアアアアアアァァァ!!」
獣のような咆哮とともに突進してきた。まだ知性が多少あるようだ。我々が敵に見えているのであろう。
俊介は冷静に半歩後退し、電動式のスタンガンを前に突き出す。
バチンッという音と閃光。
患者の体が一瞬ビクンと震えたが、止まらない。痛みを感じていないのか、筋肉が暴走しているのか――
「ダメか、通常出力じゃ……!」
俊介は腰から折りたたみ警棒を抜き、咄嗟に肘関節へとスナップを効かせて一撃を入れた。
骨がきしむ手応え。だが相手は呻きもせず、そのまま彼に組みつこうとする。まるで痛みを感じていないかのように。
「……ッ!!」
床に倒れ込むようにして避け、患者の足を払う。患者はバランスを崩し、ベッド脇の床に倒れ込んだ。
しかし、俊介の右腕に爪がかかった。
「——咬むなよ、絶対に」
自らの腕を差し出さないよう、体を捻る。PPEのスリーブが裂けた。
「先生ッ!」
防護服姿の若い看護師が声をあげ、転送型ワゴンに載せられていた麻酔スプレーを放り投げた。
俊介は片手でそれをキャッチすると、倒れた患者の鼻腔に一瞬だけ隙を突いて噴霧する。
——シューッ。
数秒後、ついに患者の全身が弛緩し、うめくように崩れ落ちた。
荒く呼吸をする俊介。その額には冷や汗が滲んでいた。
「ちょっと見てくれ……咬まれてないか?」
「大丈夫です。スリーブだけです。皮膚は無事」
看護師がスキャンセンサーを当てて確認し、胸を撫でおろした。
その場にいた全員が沈黙する中、俊介は静かに言った。
「……いまのあれ、“患者”って呼んでいいのかな」
「ゾンビ.......みたいでしたよね」
室内のセンサーが再度赤く点滅し、警報音が短く鳴った。
微細な飛沫によるウイルス濃度の上昇を示していた。
俊介はつぶやいた。
「間違いない。これはもう、治療じゃない。——戦いだ」
そして、無線機のスイッチを入れる。
「こちら神経内科・柊。302号室、対象制圧。ただちにレベル4の隔離対応を要請。これより、弟とウイルスの挙動確認に入る」
その声は静かだったが、明らかに何かの“臨界”が近づいていることを、誰もが感じていた。
患者は暴れていた。看護師に咬みつき、ベッドの金属フレームを殴っていた。
「柊先生! このままだと他の患者が!」
俊介は冷静に視線を送った。呼気に含まれるウイルス濃度を測る簡易センサーが、赤く点滅している。
「暴力行為だけなら拘束だが……この数値、感染性が高すぎる。完全隔離対象だ。病棟のzoningを頼む!」
後方からfull PPE (Personal Protective Equipment個人用防護具)の感染症看護師がつぶやいた。
「この人、満先生のいってた、あれに感染したのでしょうか?」
俊介は頷いた。
弟・柊満――ALSで体を動かせないが、天才的な頭脳と研究ネットワークを駆使し、自宅のVRブースからウイルス解析を続けている。満は予見していた。NRV-7には脳を狙う変異体があると。
VRブース内での満との会話が蘇る。
「兄さん、来たか……やっぱり始まったな。嗅神経経由で扁桃体に到達してる」
「これが、あの“神経型NRV-7”か?」
「治療法は……」
「あるとすれば、抗ウイルス薬じゃない。中枢移行阻止剤と免疫反応の調整だ。それと、兄さん。もうひとつ言っとく。
「”あれ”、もう人間じゃないから。“まだ自分を保ってる”うちに自死を選ぶ方が、誠実な選択になるかもしれない.........と、僕は思うのだけど........」
俊介は目を閉じた。弟がそんなことを言うなんて――いや、だからこそ現実なのだ。