III. Out break of NRV-7
西病棟3階。302号室前の廊下は騒然としていた。
防護服姿の看護師たちが引き返し、床には飛び散った血痕と、割れた金属器具の破片が落ちていた。
「柊先生!」
一人の若い看護師が駆け寄ってきた。フェイスシールド越しに泣きそうな目をしている。
「このままだと、他の患者さんに危害が……咬まれたスタッフが一人。破傷風トキソイド打ちましたけど……この人、本気で殺す気で……」
俊介は無言で視線を送り、携行していた呼気ウイルス濃度センサーをかざす。
ディスプレイには鮮やかな赤いランプが灯っていた。
「……暴力行為だけなら拘束で済ませられる。けど、この数値じゃダメだ。完全隔離対象だ。病棟のZoning急いで、すぐ頼む!」
背後からfull PPEを着た感染症看護師が低くつぶやく。
「この症例、以前カンファレンスで柊満先生が言ってた“神経親和性変異型ウイルス”の症状と一致してるんじゃ……?」
俊介は静かに頷いた。満は先ほどの会議では「まだ断定できない」と慎重だったが、実際は予測していたのだ。NRV-7には、理性を食い破るような変異体があると。
病室の中で、患者はベッドの金属フレームを殴りつけ、口から泡を飛ばしながらうなっていた。壁には爪痕のような血の線がついている。もはや尋常の病状ではない。
俊介はVRゴーグルを取り出し、病院の壁面に供えられた局所LANを通じて満の自宅に設置されたVRブースへ接続する。
——サイバースペース内の研究室。
満がすぐに現れた。俊輔によく似ているがどこか神経質そうな目が、すでに画面の外の状況を把握していることを物語っている。
「兄さん、来たか……やっぱり始まったな。嗅神経経由でウイルスが扁桃体に到達してる」
「やはり、“神経型NRV-7”か?」
「ああ。感染初期のプロファイルを見た限り、Sタンパクの第3ドメインが変異してる。嗅神経に親和性があって、脳関門を突破してる。脳実質へ”直”でアクセスしてる可能性が高い」
「治療法はあるか?」
「抗ウイルス薬じゃ無理だ。中枢移行を防ぐ“経路遮断”と、免疫暴走を抑える免疫修飾剤。それと、もう一つだけ。兄さん、あれは……もう人間じゃない。
”生きている”zombieだよ。
“まだ自分を保ってる”うちに、自死を選ばせる方が、人として誠実といえるかもしれない。」
俊介は目を閉じた。
弟が、あの弟が、そんな言葉を口にするなんて——いや、ALSを発症した満だからこそ、現実なのだ。