Another story:柊満の午後
土曜の午後、都心のフレンチレストラン「Étoile Blachne」の個室には、初夏の光がカーテン越しに差し込んでいた。アンドロイド義体で現れた満は、ダークグレーのスーツに控えめなネイビーブルーのネクタイを締め、エレガントな佇まいでテーブルに座っていた。
向かいには、真紅のワンピースを身にまとった葛城美鈴。シンプルながら曲線を際立たせるそのドレスは、彼女の成熟した色香をより引き立たせていた。
「今日は“人間モード”なのね」
「うん、犬じゃこの店、入れてくれないからね」
「まあ、犬型でも、うちの看護師たちはきっと歓迎してくれるけど……」
クスッと笑う美鈴の仕草に、満はわずかに目を細めた。食前酒代わりのノンアルコールシャンパンを満が口に含んだ瞬間、ふと眉をひそめる。
「ん?……あ、味覚センサー、調子悪いな。シャンパンの香りがノイズみたいにブレる」
「また調整し忘れたの?ふふ……もう、私の舌貸してあげようか?」
美鈴はグラス越しにこちらを覗き込み、唇を少し濡らしながらいたずらっぽく言った。
「……うん、それ、あとでお願いする」
「ダメ。あとじゃない。今よ」
彼女が身を乗り出し、満の手を握る。義手の中枢に走るフィードバック回路が微細な圧を感知し、体内のセンサーに温度が伝わる。手のぬくもり、それだけで心が波打つ。
「この体でも、あなたは……私を満たしてくれる。心も、からだも」
美鈴の視線はまっすぐで、熱を帯びていた。ディナーの余韻が残る部屋に、二人だけの深い沈黙が降りた。
——そして、夜。
ホテルの一室。柔らかな間接照明に包まれたベッドサイドで、満は美鈴の背中に手を添え、そっと抱き寄せた。センサーの感度は、彼女の肌のきめ、髪の匂い、指先の震えまでも鮮やかに拾い上げる。
「ほんとに……感じるのね。ここが、あなたの一部だってわかる」
美鈴は頬を染めながら、満の胸に指を這わせる。アンドロイドであるはずのその体が、まるで生身の温もりを宿したように、彼女を包み込んだ。
「僕も……君がここにいてくれる、それが一番の感覚だよ」
キスは甘く、長く、そしてどこか切ない祈りのようだった。
数日後。
柴犬型アニマトロニクスとなった満は、新宿総合病院の廊下を軽快に走っていた。白衣の袖をまくった看護師たちが、その後を追いかけている。
「またアイス持ってきたの!?院内ルール違反だってば!」
「でもほら、院長のところにもお土産あるよ〜って言ってるよ、このワンコ!」
子供たちが遊びに来る小児病棟では、満が描く床の絵文字に皆が笑い、老年病棟ではベッドサイドで「賢い犬の昔話」を朗読。老人たちは目を細めながら、彼の毛並みをそっと撫でた。
「おまえさん、本当にロボットかい?」
「ええ、でも中にいるのは、本物の研究者でね」
「へぇ……それなら安心して話せるねぇ。昔、看護婦さんだったのよ」
そんな会話を交わすたび、満の中に、生命という曖昧で、それでいて美しい感情が灯る。
——ところがその夕方、美鈴の機嫌は少し違っていた。
「ねえ……最近、看護師たちにモテてない?」
「え、犬で?」
「だって昨日、谷口が“満先生、柴犬モードの方がかわいい〜”って言ってた」
「……それ、嫉妬?」
「うん、ちょっとだけ。別に……私があなたの“飼い主”ってわけじゃないけどね」
いたずらっぽく肩をすくめる美鈴の耳たぶに、満はそっと鼻先を寄せた。
「じゃあ今日の夜は、“ご主人様”にお仕えしないとね」
「ふふ……もう、ほんとに口が達者になったわね」
笑い合う二人の背後に、夕陽が差し込む。
この病院に、戦火が訪れようとも、彼らの時間だけは、確かに“生きていた”。
——それが、機械の体であろうとも。