6-8 歪んだ血族
緑色の液体で満たされた、円筒形の巨大水槽。
その中に、傷ついた裸身の男が眠り、漂っていた。
肩口から袈裟斬りにされた傷口は深く、痛々しく骨肉を露出させている。無数のケーブルで機械に繋がれており、人工呼吸器を挿管された口元から、いくつもの気泡が漏れ出ていた。
七三分けの黒髪。洒落たメガネをかけた、狡猾な眼差し。
ストライプスーツにネクタイ姿の青年は、水槽の前に佇み、傷ついた男を見上げている。
「無様ですね、父上」
メガネの位置を指先で整えながら、男は憐れみの言葉を投げかける。
その言葉に、傷ついた男は反応すら示さない。
佇む男の背後から、足音が近づいてきた。
金髪。青い目。黒シャツに赤ネクタイ姿の、モデルのように美形な少年だった。
古風なデザインの片手剣を帯剣している。
「…………兄上」
「アキラ。お前も、父上の見舞いに来たのですか?」
男は少年、弟のアキラを振り向くこともせずに尋ねた。
アキラは兄の隣に並び立ち、兄と同じように、水槽の傷ついた男を見上げた。
その表情は険しい。緊張しているのか、額には汗まで浮かべている。
「今なら……父上を殺せるのではないでしょうか」
「……」
父親殺し。
非常識で大それた提案をしてくる弟。
だが動じた様子など微塵もなく、兄はアキラへ微笑んで返事をする。
「ああ、アキラ。弟よ。わかっているでしょう? 今ここで父上を殺すことができたとしても、それには何の意味もありません。恐ろしい怪物が1人、この世から消えるだけのこと」
男はアキラの両肩に手を置き、子供を優しく諭すように忠告した。
「企業国王は不老です。その命が自然に尽きることはありません。事実、歴代の企業国王たちの末路は、皆、自死。飽きるまで生きて、飽きたら死ぬ。その繰り返しですよ。後継者は任命方式で、王冠の戴冠を経て、初めて次の王となれるのです。今このまま、父上に死なれては、私が“次の企業国王”に任命されないでしょう?」
兄は穏やかな態度だった。
家族の殺害を提案されてもなお、その穏やかさを保っているのは、どこか狂気じみている。
微笑みかけてくる兄の目を見て、アキラは苦心の思いで進言した。
「ですが……父上が生きている限り、私も兄上も、いつ“廃棄処分”と称して殺されることか」
「大丈夫です、アキラ。私たちは廃棄されず、この歳まで生き延びてきました。父上の機嫌を損ね、殺されていった、他の愚かな兄弟たちとは違います」
「……」
アキラはまだ何か言いたそうだったが、言葉を飲み下した様子だった。
自分たちの身を守るために、父親を殺せる時に殺しておきたい。
弟の意図は透けて見えていたが、それをわざわざ指摘するつもりもない。
男は再び、水槽に漂う無残な男の醜態を眺めた。
そうして嘲りの笑みを浮かべる。
「企業国王を殺せる剣。そんなものがあったとは、まったくもって驚きです。それならもしや……真王にも届き得るかもしれません。素晴らしい力ですよ。何としても手に入れなければ。父上から王冠を“奪い取る”ことすら容易いかもしれませんから」
企業国王――――。
絶対無敵。反逆不可能。恐怖の暴君だ。
それが今にも息絶え、傷ついている様を見ているのは、実に心地よかった。
胸にわだかまっていた鬱憤が解放され、爽やかに拡散していくような思いである。
アキラは兄弟としての会話を止め、兄の忠実なる部下として、振る舞うことにした。
男の横顔へ敬礼をし、報告をする。
「剣を生み出した雨宮アデルは、エレンディア家の者に連れられて、現在は姿を消しているようです。四条院企業国の騎士団が総出で捜索を続けていますが、行方不明です。市民からの通報によれば、手配書の特徴に合った集団を3日前に見かけたとの情報があります。東京白石塔方面へ向かったようですが……情報の真偽を、まだ確かめているところです」
弟の口から聞かされる、帝国騎士団の、ここ2週間ほどの捜索活動報告。その活動が、いまだ実を結んでいないことを聞かされ、男は胸中でだけ、僅かに落胆する。それと同時に、聞き捨てならない家名が出てきたことで、メガネの奥の眼差しを陰らせた。
「エレンディア家か……。他国の王族が関わっているとは、厄介ですね。なら剣の存在は、すでに他国にも知られていると考えるべきでしょうか。なるべく“奪い合い”になる事態は避けたいところですが」
「確認を取りましたが、イリアクラウス・フォン・エレンディアは、本家から家出中の身のようです。ほぼ絶縁に近い状況と聞きますので、エレンディア企業国に剣の情報は伝わっていないかと」
「それは好都合。今のところ、剣の争奪戦には我々が1番乗りというわけです」
良い報告を聞き、男は気を取り直してニヤついた。
もう1つの気がかりについても、アキラへ尋ねる。
「それで? 剣を手にして、父上を打ち負かしたと言う下民の死体は、見つかりましたか?」
「……いいえ。死体も剣も、まだ見つかっていません。崩落したベレル城は湖に水没しましたので、まだ捜索中と言うのが実態です。水中で瓦礫に埋もれているとすると、発見にはまだ時間がかかるかと」
「良いでしょう。そのまま捜索は続けなさい。必要なら、水の制御が得意な、上級魔導兵を何人か駆り出しても構いません」
「承知しました、兄上」
「フフ。世界を変える可能性を秘めた赤い剣。そしてそれを生み出した少女。どちらも必要ですが、今すぐに手に入る見込みがありそうなのは、少女の方ですかね。たしか、父上の支配命令が効かない、特異な存在だと言う報告でした。くまなく身体を調べる必要がありそうです」
男の胸中では、すでに野心の炎が大きく燃え始めている。これまでは不可能だと諦めていた、企業国王への反逆という、新たな選択肢が生まれつつあるのだ。その興奮たるや、尋常ではない。踊り出したくなるような、高揚感さえあった。
「東京白石塔方面へ向かう怪しい連中がいると言っていましたね。その情報を当たってみましょうか。ユエに出撃命令です。私と共に来るよう、伝えておきなさい」
「兄上が直々に出向くのですか……?!」
「ええ。不確かな情報でも構いません。これは、そうするほどの事態だと言うことですよ」
水槽に踵を返し、その場を去って行こうとする男。
その背中に向かって、アキラは声をかけた。
「お待ちください、兄上。……その……」
言いづらそうに口ごもっている様子のアキラを、男は奇妙に思った。
アキラは少し頬を赤くし、視線を泳がせながら恐る恐る進言した。
「アデルを……どうか傷つけないでください。私はその……彼女と子を成すよう、父上から仰せつかっているのです。企業国王の命令には、逆らえませんので」
少女の身を案じている様子の弟。
その意外な願いに、男は少し呆気にとられてしまう。
だが、声を出して笑ってしまった。
「ハハハ。これは驚きました。我が弟も色恋を知る年頃ですか。子を成せなど、どうせ父上の戯れであるというのに、真に受けるとは。まさか下民の娘に、本気で恋をしてしまったのですか?」
「そ、そう言うわけでは!」
普段は下民の首を平然と斬り捨てる冷徹な弟が、年相応な悩みで、困惑している姿は新鮮だった。
男は再び、アキラの両肩に手を置いて、言い聞かせるように告げた。
「あとは、全て私に任せておきなさい」
「兄上……」
微笑みかけ、弟を安心させる。
弟の顔にも笑みがこぼれる。
そうして男は、その場を後にした。
治療室を出た先の通路を1人で歩き、クツクツと腹底を震わせ、呟く。
「ああ、アキラ。浅はかで愚かな、我が弟よ。父上のお気に入り。次期王の最有力候補。私からすれば、父上よりも先に死んで欲しいのは――――お前ですよ」
顔に浮かべた表情は、いつも通りの温厚な笑顔だ。
だがメガネの奥の双眸には、おぞましい殺意がにじみ出ている。
「我が一族は呪われている。血の繋がった、四条院の者同士、いずれ殺し合わなくては」
その呟きを聞く者は、他にいない。
ただいつまでも、男は本心を偽った微笑を浮かべ続けていた。