6-7 空中学術都市ザハル
エリーに連れられ、ドクターの研究室を後にした。
そうして部屋を出た先は、左右に長く続く廊下だ。
リノリウムのような色の、乳白色の床。通路の向こうまで、金属製の自動扉が点々と並んで見えた。他にも研究室が、無数に存在しているのではないかと思えた。そのことよりも、ケイは窓の向こうの景色に驚いた。
太陽の光が差し込んでくる方角。そこにあるのは、正確には窓ではない。
廊下の天井と、部屋の扉が並んでいる対面の壁は、ガラスのような透明の壁になっている。まるで水族館の、水槽の壁のようだ。その向こうに見える景色は――――“雲海”ではないか。
「雲……?」
眼下に望む、雲の海。地平線の向こうまでそれが続いている。それこそ飛行機の窓から見えるような景色だ。目の前の景色を見るに、ここは雲の上に存在している場所。かなりの高度だ。雲の下からポツポツと、いくつか白い石の大樹のようなものが突き出ているのが見えた。おそらく白石塔だろう。
「ここ、山の上だったのか……?」
「フフフ」
驚いている様子のケイへ、エリーは微笑みかける。
すると備え付けのスピーカーから、ふと機内アナウンスの女性の声が告げた。
『ご搭乗の皆様へご連絡です。まもなく当機は、雨雲の中へ突入します。機体の振動や、気圧の変化などが予測されますため、ご準備をお願いします。通過までの予測時間は、1時間です』
唖然とした顔でアナウンスを聞き終えたケイは、改めて外の景色を見やる。目の前に広がる雲海。眼下の雲は、右から左へ、素早く流れているではないか。おそらく、ここは高山などではない。ケイのいる建物自体が今、空の上を推進しているのだ。
「ウソだろ?! この建物、まさか“空を飛んでいる”のか!」
「ここは“ザハル”という街でございます」
「街……?!」
「はい。ザハルは、巨大な飛空挺の中に作られた街ですよ」
にこやかに説明するエリーに、ケイは唖然としてしまった。
エリーは日傘を差して、燦々と陽光の差し込んでくる廊下を歩き始める。
置いていかれないように、ケイもその背に続いて歩を進めた。
「かつてまだ人類が、他の種族と、この星の主導権を巡って争っていた太古の時代。その当時に起きた世界大戦を“星壊戦争”と呼びます」
「星壊戦争……?」
「はい。その当時に建造された、弩級空戦艦ザハル。退役後には、こうして空を漂い続けていて、そこに住み着いた人々によって、いつしか街が形成されました。今ではこう呼ばれております。空中学術都市ザハル、と」
「学術都市……学者とか研究者たちが大勢、住んでいる街ってことか? しかも空を飛んでる?」
「そのようですね。私は住人ではありませんので、実際のところを存じていませんが。こうした学術都市は、帝国内にいくつか存在しています。ザハルはその中でも、トップ3に入る屈指の名門でございます。帝国の各地から、あらゆる知識人や学徒が集まり、昼夜を問わず様々な研究が行われています。先ほどお会いしていただいたドミニクのように、変わった住人も多いようですね。研究施設ごと移動ができるので、このザハルは現地調査などの効率が良いらしく、学者たちの間では人気なのだそうですよ」
「じゃあ、この艦内に、他にも大勢の人がいるってことか」
「ここは上級学者の研究層ですから、ご覧の通り閑散としています。ここにいるのは、みんな研究室に籠もるのが好きな方たちばかりですので。これから向かう居住層には、学生や一般市民の姿を見られると思いますよ」
「……」
これまで見聞きしたことのない、アークの歴史や社会の話だ。しかも空飛ぶ船の中にある街の話ときている。興味深い情報であるのは間違いない。だが、いつまでもそれを呑気に聞いているわけにはいかないのだ。語るエリーの背を見ながら、ケイは懸命に、状況を整理しようとしているところである。
エリーがドクターへ依頼し、淫乱卿と戦って殺されたはずの、ケイの命を助けてくれた。実際にこうして生きているのだから、それが事実なのだとは思っている。
だが……なぜ助けたのか。
エリーは何者で、信用して良い相手なのか。まだわからない。
アデルやイリア、リーゼはどうなったのだろうか。
仲間の安否も、自分を取り巻く状況も。わからないことが多すぎるのだ。
今は、なるべく事を荒立てず、エリーから情報を引き出していく必要があった。
ケイを助けたことが、何かしらエリーの利益になっているのは間違いないだろう。そうでなければ、見ず知らずのケイの命を、エリーが助ける理由などないのだ。問題は、その理由が何かである。気になることは様々にあったが、まず1番最初に確認したいことは、決まっている。
「オレの仲間たちは……アデルは助かったのか?」
その質問を投げかける。
エリーは背後のケイを見ず、日傘をクルクルと回して優雅に語った。
「今のところは無事。とでも言っておきましょうか」
「あの城から全員、脱出できたって考えていて良いのか? イリアやリーゼも一緒に」
「そうですね。ベレル城の崩落が起きたせいで、帝国騎士団は彼女たちの追跡どころではありませんでした。大怪我を負った淫乱卿の守備が優先されたこともありますが、その隙に彼女たちは、奪った飛空挺で脱出し、今はどこかに潜伏中のようです。私がケイ様をお救いできたのも、そのどさくさに紛れてのことでしたから」
「じゃあ、オレを城から連れ出してくれたのは、エリーだったのか」
「ええ。現状、淫乱卿は再生治療中で身動きが取れませんし、今は実質、ご長兄の四条院キョウヤ様が陣頭指揮をして、血眼で彼女たちの行方を追っているところですよ。耳に入る限りの情報では、この2週間くらい、お仲間の行方は補足されていないようでございます。ご安心ください」
「ま、待ってくれ! 城が崩落して、淫乱卿が大怪我を負っただって?! オレがやられた後、いったい何がどうしたって言うんだよ!」
「……全て、ケイ様がやったことでございます。憶えていらっしゃらないのですか?」
「なっ! オレが?!」
「そうでしたか。考えてみれば、無理もございません。あの時のケイ様の脳は、完全に破壊されている状態に見えましたから」
何か重大なことを憶えていない。
エリーと話をしていて、ケイはそれを確信した。
記憶に残っている最後の光景は、淫乱卿が虚空を掴むような動作をした瞬間である。あの動きと共にケイの意識は途絶え、その後に起きたことは、何一つとして憶えていない。エリーの話では、ケイが何かをしたことで浮遊城が崩落し、淫乱卿が負傷したようだが……いったいどうすれば、そんなことができたと言うのだろうか。
ドクターが言っていた「赤い剣」というものが関係しているのかもしれない。
記憶では、自分はそんなものを持っていなかったはずだ。
やがてケイたちは、小ホールのような場所に出る。床に奇妙な幾何学図形が描かれており、中央には下を指す矢印のホログラムが浮かんでいた。その前にエリーと並び立つ。
「居住層へ」
『居住層へ転移します』
エリーが告げると、女性の機械音声が応答を返した。床の図形が発光する。
周囲を光の壁に囲まれたかと思った次の瞬間、ケイたちは別の場所に転移していた。
「……?」
いきなり自分を取り巻く景色が変わり、ケイは目を丸くしてしまう。
そこは天井が高い、かなり広大な空間である。元はおそらく、格納庫だった場所ではないかと思われた。色とりどりのテントが並び立っており、屋台や露天商が、数え切れないくらいに犇めいている。見渡す限り、人だらけ。客の呼び込みをしている商人や、通行人たちでごった返していた。喧騒でにぎわう、まるで繁華街の雰囲気である。
「ここは……市場か?」
「ザハルの外からやって来た、旅の行商人たちが集まっている格納庫エリアですね。居住区は、この先にあります。あっという間に景色が変わって、驚きましたか? 船内は広いので、移動には“転移装置”が欠かせないのですよ。全長3キロメートルはある空戦艦ですから」
「空間転移する技術ってことか……そう言えば、白石塔と白石塔を繋ぐ、ワープゲートのような、光の壁みたいなのもあったな」
「ケイ様は白石塔のご出身でしたね。あの光の壁についても、すでにご存じの様子。短距離しか移動できない、こういった転移装置とは異なる、もっと大がかりな装置ですが、あれは転移門と呼ばれております」
「帝国がそういうテクノロジーを持っているだろうと予想はしていたけど……エレベータとかエスカレータくらいの扱いで、こうも普通にテレポートする装置が置かれていると、すぐには理解が追いつかないと言うか……」
「フフ。アークにいれば、すぐに慣れますわ」
人混みの中を、再びエリーの後について進む。
すれ違う人々の格好は、先日に立ち寄った、ラヴィスの村の浮浪者たちより、明らかに上等だった。あまり見たことのないデザインの衣服だったが、シャツやパンツと言った、服装の基本構成は、ケイたちの社会で見るものと大差ないように見える。ただし、エリーの服装だけは高価そうで、身につけているアクセサリや小物にも宝石が含まれているのを見るに、一般人よりも裕福なことが窺える。振る舞いからもわかるとおり、エリーの身分は高いのだと思われた。
道中にあった屋台から、香ばしい良い匂いが漂ってきた。
それにつられて見れば、鉄板にひいた油の上で、瑞々しく焼けるヒレ肉が目に入った。
ケイの腹が鳴り、口の中に唾液が広がってしまう。よく考えれば、治療を受けていた2週間ほどの間、ずっと食事なんてしていなかったはずなのだ。ケイは自分が空腹であることに気が付いた。
「……お召し上がりになりますか?」
思わず足を止め、肉を凝視してしまっていたケイ。
それに気付いたエリーが、尋ねてきていた。
ケイは少し恥ずかしくなって、慌てて否定しようとする。
「あ、いや。その……」
「1つ、くださいませ」
屋台の店主にエリーが注文すると、「あいよ!」と威勢の良い声が返ってきた。
ヘラを巧みに使い、店主は慣れた手つきでヒレ肉を紙に巻いて、ケイへ手渡してきた。
エリーは紙幣を1枚、店主に手渡す。そうして釣り銭がいらないことを告げた。
「……良いのか? 奢ってもらっちゃって」
「構いません」
優しく微笑みかけてくれるエリーの好意に甘え、ケイは肉を頬張った。
「美味いな!」
「それは良かったです」
なんだか餌付けされているような気分だったが、ケイのエリーに対する好感度は上がってしまう。信用できる相手なのか、まだハッキリしていないと言うのにである。
ひたすら居住区へ向かって歩くエリーの背に続きながら、ケイは質問した。
「この人たちも、その……君たちが言う下民なのか? オレたち白石塔と同じ扱いの」
「いいえ。ここにいる人々は“市民”です。下民よりも、階級は上です」
「市民? 下民と何が違うんだ」
「元々は下民ですが、“市民権”を購入することで、市民の地位を得た中産階級ですわ」
エリーは、ケイの隣に並んで歩き始めた。
上品な微笑みと共に、穏やかな口調で解説してくれる。
「アークの社会の基本。それは“権利は買うもの”ということです」
「権利を買うだって?」
「ええ。人権をはじめ、生存権や結婚権などの様々な権利を、アークの人間は企業国から購入しなければなりません。企業国は7つあり、購入先の国から権利が与えられ、保証されるのです。それによって、所属する企業国も決定されますね。つまり、どれだけ人間らしく生きられるかは、個々人の資産量に全てがかかっています。貧しい者は下民同然に扱われ、裕福な者は貴族として生活ができるでしょう。だからです。誰もが少しでも多くのお金を得ようと、懸命に働いたり、商売をしているのです」
「企業国から権利を買う……もしかしてそうして集めた金が、税金として扱われてるとかか?」
「そうですね。集まったお金は、企業国が独自運営している騎士団や各都市の運営管理、公益にあてがわれていますから。税金と呼んでも差し支えないでしょう。アークにおける人の社会は、資産量こそが全て。そしてそれによって、どれだけ多くの権利を有しているのかが決まり、同時に社会における階級も決まるのでございます」
何もかもを金で買う社会。
金がなければ、まともに生きることさえできないというのは、ケイたちの社会と同じである。だが弱者救済などの仕組みは、聞いた限りではなさそうである。金がなければ人権もなく、殺されようが犯されようが「仕方ない」という仕組みなのだろう。ラヴィスの村に集まっていた浮浪者たちが、そうした人々だったのではないかと思える。
白石塔の裏口を使って商売していた男も、帝国騎士のレイヴンも、やたらと金にこだわっていたのは、そうした社会構造に起因しているのではないだろうか。
「帝国には階級制度があります。頂点には真王様が君臨し。その下に、各地の統治を委任された七企業国王たちがいます。さらにその下に、貴族、市民、下民がいるのです。下民と市民以外は“支配権限”を与えられていて、自分よりも下位の者たちに対し、絶対の命令権を有します。自分より下位の者に絶対服従を強いるシステムによって、個人の思想や信条など、容易くねじ伏せることができるのです。これによって帝国は、1万年以上の間、安定した治世を実現しているのですわ」
「……それを言うなら、1万年以上の“圧政”の間違いじゃないのか?」
「そうは仰いますが、星壊戦争以来……つまりは帝国の建国以来、アークで人間同士の戦争が起きたことはありませんよ。過去の大戦以降、この世界は帝国によって平定され、安寧の中にあり続けているのでございます」
「そうなのか……?」
「はい。そもそも、上位の者には、絶対に逆らうことができない社会構造ですから」
帝国の統治が始まってから、人間同士の戦争が起きていないというのは意外だった。たしかに支配権限による、上位者からの絶対的な統治が行われれば、逆らえる者などいないのだ。真王が1番強力な権限を持っているとするなら、真王とは完璧な独裁者である。
「白石塔における貴方たちの社会では、人間たちが国家陣営に分かれて殺し合い、幾度となく悲惨な歴史を繰り返していますね。私も幼少の頃は、ドイツと呼ばれる国で過ごしていた時期がありましたから、その時に貴方たちの歴史も学んで、知っているのでございます」
「……」
「人々の自由意志こそが素晴らしいと考える、白石塔での価値観を信じるのは構いません。ですが、それが帝国よりも優れた統治システムであるとは、私には思えません」
「……そう言われると返事に困るな」
「フフ。ケイ様は、素直な方でございますね」
「けれど淫乱卿がやっていたみたいに、下民だからと言って、意味もなく道楽でオレたちを虐殺するのは許せないよ。帝国の統治システムが優れているからと言って、納得して殺されるわけにはいかないんだ」
「……」
ケイの意見を聞いたエリーは、笑むのを止めて、黙り込んでしまう。
少し、気まずい雰囲気になった。
ケイは、別のことも思い出していた。
たしかアトラスの話では……2500万年前に、真王と旧人類の戦争があったと言う。エリーの話を聞くに、星壊戦争とは、それよりもずっと後の時代に起きた、別の大戦と言うことになるだろう。人類と“他種族”の戦争であるようだが……他種族とは、具体的に何なのだろうか。
「星壊戦争で戦った、他種族と言うのは何なんだ? 機人族のことか?」
旧人類が滅びた後、真王は人類種の品種改良を行ったと聞いている。それによって製造されたのが、支配権限に縛られている、今のケイたち人類だ。てっきりこの世界には、真王が製造した人類しか、存在していないのだと思っていたら……リーゼのような機人に出会った。ケイが知っている限り、他種族とは機人族のことに思えた。
「歴史家ではございませんので……細かいことまでは存じておりません。ただ少なくとも、人類は主要3種族とは争ったようですね」
「主要3種族?」
「機人族。魔人族。そして獣人族です」
「……機人以外は、初めて聞く種族だ。どんな奴等なんだ?」
エリーは人差し指を顎に当て、頭上を仰ぎ考え込む。
「うーん。そうですね……。いずれ実際にお会いするのが1番だと思いますが、特徴だけを捉えて言うのなら。機人は“道具作り”に長けた種族で、魔人は“自然現象の操作”に長けていると言えるでしょう。そして獣人は“身体能力”が優れていて、私たち人類は“科学”に長けています。私のイメージですけど、そんなところでしょうか」
「へえ。まだみんな、存在している種族なのか?」
「ええ。星壊戦争に勝利したのは人類ですが、彼等も数を減らしたものの、まだ世界の各地でひっそりと生きています。真王様や七企業国王の強力な力を思い知った彼等は、過去の大戦以来、戦を仕掛けてくることはありませんでした。そうして今日まで、アークの世界の均衡は保たれてきたのです」
エリーはそこまで語り、苦笑する。
「ですがもう、その均衡は失われました」
「どうしてだ?」
「ケイ様はまだ、ご自覚がないようですね。ご自身が世界に与えた影響の大きさについて、よくご理解いただけていないようです」
「……?」
人混みを抜けたところで、エリーは歩みを止める。
そうしてケイへ向き直り、真顔で告げた。
「このアークにおいて、これまで階級制度と言うものは絶対でした。上位の者には逆らえず、反逆することすらできない。ましてや相手が企業国王ともなれば、抗ったところで、神にも等しい力によってねじ伏せられ、絶対に敵わないのです。そのはずだったのですよ――――貴方が現れ、淫乱卿に勝利するまでは」
「オレが……淫乱卿に勝った……?」
勝利の自覚も、記憶もない。
おそらくケイが瀕死の時に起きたという、無意識の戦闘のことを言っているのだろう。
半信半疑で、ケイはエリーの話に耳を傾けた。
「下民が企業国王を打ち負かした。この1万年間、起こり得なかった下剋上が起きたのです。アデル様が生み出し、貴方が振るった赤い剣。あれは企業国王を殺しうる強大な力。その存在が公にならないよう、今はまだ、厳しい情報統制が敷かれています。ですがいずれ人々は、その力の存在を知ることでしょう。その時、きっと誰しもがこう思うはずです――――世界の仕組みを変えられるかもしれないと」
「……革命が起きるって言いたいのか?」
「ええ。これから始まるのは、アーク全土を巻き込んだ“第二次星壊戦争”です」
エリーの笑みは、妖しいものへと移り変わっていく。
「我がシュバルツ家は、新世界の覇権を巡る戦いに、身を投じるつもりでございます。次の世の統治者になることを目指して」