5-16 死の剣
壊れてしまった。
大切なものが。
頭部の潰れた無残な少年の身体。それが自分に寄りかかってくるのを、思わず受け止めていた。少女の白い肌とドレスに、おびただしい量の血が付着する。その赤い温もりを感じながら、少女の目は虚ろである。
壊れてしまった。
心が。
少女の胸の中で、何かがひび割れ。音も無く砕け散った。
死ぬよりも辛い痛みが心臓の奥に生じ、全身の細胞の末端まで、余すことなく駆け抜けていくのを感じた。肺は詰まり、呼吸ができない。喉も詰まり、嗚咽すら漏らせない。燃えさかるように熱い涙がこみ上げ、双眸を溢れさせた。
「ああ……ああああああああああああああ!!」
顔をクシャクシャにゆがめ、子供のように泣きじゃくる。
大事そうに、死体を精一杯に抱きしめ、その場でヘタリ込んだ。
辛すぎて。苦しくて。もはや立ってなどいられない。
生まれて初めて経験する、喪失の痛みと絶望。
そのあまりにも強い感情のせいで、もはや理性など働いていない。
敵に囲まれ、凶悪な敵を目の前にしていてる窮境だというのに、その驚異に怯える気持ちなど、どこかに消え去ってしまっている。ただ悲しくて。悲しすぎて。それだけだった。
また失ってしまった――――。
不思議なことに、そんな奇妙な考えが脳裏をよぎる。
過去……いつか遠いどこかで。自分は同じようなことを経験したことがあるとでも言うのだろうか。あり得ないはずの記憶。それが何だったのか、少女には思い出せない。今は少年のことで頭がいっぱいだった。
死んでほしくない。死んだなどと認めたくない。
死なせたりしない。救わなければならない。戻さなければならない。
死なせない。
死なせない。死なせない。
死なせない。死なせない。死なせない。
まとまらない、支離滅裂な思考に埋め尽くされた少女の中で、何かが目覚める。小さな身体には収まりきらない、膨大な負の感情。その灼熱の想いが、マグマのように渦巻いている。その暴れ狂う奔流を吐き出すかのように、少女の頭部から生え出た赤い花は、強烈な光を放ち始めた。
◇◇◇
アデルの身体が、フワリと虚空へ浮かび上がる。
物理法則を超越し、人体が宙で静止するのを、その場の誰もが目撃した。
「何だ……!?」
唖然とする思いで、アキラは呟いてしまっていた。
呆気にとられているのは、アキラだけはない。
アデル同様に、涙してケイの死を悲しんでいた、イリア。
壁から這い出ようとしている、リーゼ。
そして闘技場を取り囲み、遠目にアデルの姿へ注目していた帝国騎士たちも同様だ。
淫乱卿でさえも、事態を把握できていない様子で戸惑っていた。
アデルの頭上に――――燦々と輝く“赤い光の輪”が出現した。
「!?」
淫乱卿の頭上に、光の王冠が現れた時の現象に似ていた。だがそれは王冠の形状ではなく、淫乱卿の時のように、アデルがそれを戴冠することもない。ただアデルの頭上に浮かび、漂い、夜の闇を赤く染め上げるほどの、強い光を放っている。
あまりの目映さに目が眩み、とても直視していられなかった。
それは、まるで小さな太陽だ。
「天使の輪……なのか?」
目を細めたイリアが、苦しげな表情で呟いた。
「馬鹿な……! あれではまるで……“設計者”の光輪だ……!」
初めて驚いた顔を見せている淫乱卿が、呟くのが聞こえた。だが今は、それに構ってなどいられない。イリアは、アデルの異変の方に注目する。
アデルの頭上の光輪は、輪の中心に向かって凝縮されていく。
見る見る間に、その形状は輪の形から、十字架の形へと変わっていた。
完全に変形が終わった段階で、その大きさはアデルの身の丈ほどもある大きなサイズになる。
そこで、赤い光は唐突に消失した。
「…………?」
光が消えた後。残されたのは、一振りの“剣”である。
輝く十字架に見えていたものは、光の輪を素材に形成された、剣だったのだ。
燃えさかる炎のように。
滾る赤い血潮のように。
紅蓮の色をした剣身。
無から光と共に生じ、アデルの頭上に浮かんだまま、宙に留まっている。
完全に物理法則を無視している、得体の知れない剣である。
その剣は突如として――――勢いよくケイの死体の心臓へ突き刺さった。
「!?」
誰もが目を丸くする。
少女が生み出したと思われる謎の剣は、自然落下したのではない。
見えない何者かの意思によって、意図的に少年の死体の上に落ち、突き刺さった。
そうとしか見えない、不自然な軌道で動いたのである。
剣が死体に刺さるのと同時、アデルは糸が切られた人形のように、地面へ落下した。
その場に倒れ伏し、動かなくなる。気絶してしまった様子だった。
……動かなくなったアデルと、胸に剣の刺さった少年の死体。
淫乱卿は困惑しながら、それらを交互に見た。
「…………いったい、今のは……?」
不思議なことに、その場が静まり返った。
先ほどまで、淫乱卿の独壇場だったはずの雰囲気が、どういうわけか一変してしまっている。空気の質が変わり、ヒリついくような緊張感さえ漂っている。誰しもの胸中に、妙な胸騒ぎが生まれていた。まるでこれは、嵐の前の静けさである。何か強大な気配が近づいてきているような……焦燥からくる、気色の悪い汗が滲んだ。
死んだはずの少年の身体が――――動き出した。
イリアは目を剥き、自然の摂理に反した、その超常の現象を目撃する。頭部が潰れた少年。その首から下の身体は、自らの胸を貫く、赤い剣の刃を握った。ゆっくりとそれを、心臓から引き抜いていくではないか。
「冗談だろう…………?!」
少年は赤い剣を右手に提げ、フラリとその場に立ち上がった。淫乱卿によって握りつぶされた頭部は、圧壊したはずだった。だがまだ、かろうじて人とわかる形状を留めており、ひび割れた頭蓋骨と眼球が剥き出しになったままである。文字通り、動く屍である。
少年の持つ、赤い剣の剣身が、徐々に輝きを放ち始めていた。剥き出しの眼球で、ギロリと淫乱卿の方を睨んでくる。
背筋に寒気がした。
少年と目が合った淫乱卿は、表情から血の気が失せている。
何が起きているのかわからない。
なぜ殺したはずの相手が、再び立ち上がっているのか、見当も付かない。
わからないことだらけだが、無意識の本能が、全力で告げているのだ。
――――ここで殺しておかなければまずい!
淫乱卿は、危機感に突き動かされる。
少年に対して、すかさずネットワーク攻撃を仕掛けようとした。
すると、少年の脳が“死亡”状態であることが、改めてわかった。
攻撃を仕掛ける先の脳。つまり端末そのものが、ネットワーク上に存在していないではないか。これでは、支配命令を使った攻撃など、不可能な状態である。
それは当然のことなのだが……。
頭部が潰れたままだと言うのに、少年はまだ生きているように動いている。
「くっ……! 何なのだね、君は!」
淫乱卿は苛立った。
少年は構わず、ゆっくりと、敵に向かって歩き始める。
敵の注意が少年へ向かった影響だろう。気が付けば、イリアの手足を硬直させていた、淫乱卿の支配命令の効果が切れている。
「これは、チャンスか……!」
自由になった手足を見下ろし、イリアは意を決する。
淫乱卿に気付かれぬよう、こっそりと気絶しているアデルへ近づき、その軽い身体を背負った。そうしてリーゼの方へ駆けて逃げ出す。
なにが起きているのか、まだわからない。ケイは死んだ時に、無死の赤花たるアデルの傍にいた。それが影響して死に至らず、あのような状態になっているのかもしれない。正確なことはわからないが、ケイが淫乱卿と戦おうとしているのだと感じたのだ。ならば邪魔にならないよう、自分たちは離れていた方が良いはずだ。そう考えての、イリアの行動である。
「ネットワーク攻撃ができないとなると、面倒だが、物理攻撃しかないようだ」
淫乱卿は忌々しそうに呟いた。
細胞単位で、少年の肉体を塵1つ残さないように吹き飛ばすのだ。
微塵も残さず消し去れば、さすがにこれ以上、動き回ることはないだろう。
淫乱卿は、少年に向かって手のひらをかざした。
「醜い死人は、黄泉の国へ帰りたまえ!」
淫乱卿の手のひらの先の虚空。そこから暴流の滝のごとく、赤黒い光の光線が迸った。砲のような光の奔流。それが少年の正面から襲いかかり、肉や骨を焼き尽くそうと迫り来る。
だが少年は、赤い剣の切っ先を、光の塊へと向けて構えるだけだ。
光の奔流は、その剣先に触れた途端に霧散し、呆気なく消滅してしまう。
「何だと!?」
淫乱卿の放った光線を打ち消した直後、少年は剣を頭上へ掲げた。そうして淫乱卿の方へ向け、刃を勢いよく振り下ろす。その一撃は、間合いが離れた淫乱卿へ当たるはずなどない。だが構わず少年は、剣で虚空を斬り裂き、剣先を地面へ突き刺したのだ。
ブォン
そんな、虫の羽音のような音が聞こえた。
少年が剣で斬り裂いた虚空に、縦一文字の衝撃波が生じる。
血しぶきを思わせる、赤い光の粒子が混じった風。それが淫乱卿の傍を吹き抜けたかと思うと、次の瞬間、肩口から袈裟斬りにされていた。
「がっ! ぐあああああああああああああ!」
鉄壁の強度を誇っていた淫乱卿の胸部は、深々と斬り裂かれ、おびただしい鮮血が吹き出る。致命傷に近いダメージだった。数百年の間、傷1つ負わされたことのない淫乱卿にとって、その痛みは衝撃的なものである。堪らず両膝を折り、その場で傷口を抱えて蹲ってしまう。
絶対無敵の企業国王が、地面に膝をつくという、ありえない光景。
それを目の当たりにした息子のアキラは、信じられない気持ちで、呆気に取られていた。
だが我に返り、慌てて声を上げる。
「ち……父上を守れ!」
淫乱卿の醜態を目撃していた騎士たちも、アキラ同様に愕然としていた。だがアキラの檄を聞いて、慌てて我に返る。少年に向けて突撃自動小銃の一斉射撃を行った。
滝のような銃弾が少年の身体に穴を空けるが、少年は倒れない。
弾が少年の急所へ当たる度に、手にした赤い剣の剣身は、不気味に輝きを増していく。
「何だよ! 何なんだよ! アイツ! どうして動けるんだ!」
「化け物だ! 人間じゃねえ!」
「そこ、うるさいぞ! とにかく今は撃て! 弾がなくなるまで撃ちまくれ!」
帝国騎士たちが撃ち続ける銃弾の雨の中、少年は手にした剣を――――地に刺した。
「!」
重々しい地鳴りが起こり、剣の突き立った場所を起点に、大地が割れていく。激しく揺れ始める地面と共に、中央庭園の木々が枯れていった。地震の影響で、ベリル城の建物の外壁が、少しずつ崩れ落ちていく。まるでベリル城を乗せた、この浮島全体が崩壊を始めたような現象だった。
「ひぃぃ! 何してんだ、あのガキ!」
「まさか、この浮島が崩壊を始めたのか! あの剣のせいで!?」
少年と淫乱卿の間の地面に、深い亀裂が生じた。
まるで崖のように深い溝が生まれ、それを挟んで、2人は違いに睨み合う。
少年が、剣で地脈の均衡を破壊したとでも言うのか。まるで浮島の心臓を刺し、それによって地面が死んだような反応である。地面はあちこち隆起し、あるいは沈下を始めている。周囲の地形が、激しく変わり始めているのだ。
淫乱卿も、帝国騎士たちも、互いの間を、地の亀裂に阻まれ、分断されてしまう。それは少年とイリアたちも同じだった。大地に生じた無数の溝に阻まれ、合流できなくなってしまう。
「雨宮くん!」
アデルを背負っているイリアが、少年の名を呼んだ。
だがその声は、今の少年の耳に届いているのかすらわからない。少年はイリアたちを見向きもせず、ただ淫乱卿と対峙しているだけだ。
「イリア、もう逃げないと危ない! この島、落下始めてる!」
リーゼがイリアの手を引き、警告してきている。
「くっ……!」
あの状態の少年は、まだ生きていると言えるのか。
アデルが生み出したとみられる、あの赤い剣は何なのか。
何もかもわからないまま、ただ状況に翻弄されているだけだ。
だが、今すぐに逃げなければ、確実に死ぬという未来だけは予測できている。
「……雨宮くん。アデルはボクが連れて帰るよ……!」
イリアは覚悟を決め、死してなお戦いに狂っている少年へ、背を向けた。
レイヴンの待っている、飛空挺のドッグまで間に合うだろうか。
今はただ、アデルを背負い、命懸けで駆けるしかなかった。