4-5 第138実行小隊
日は暮れて、すっかり夜になっていた。
ビルディングに明かりが灯り、都市は煌びやかな夜景を生み出している。
当てもなく、夜の街を彷徨う、制服姿の少女がいた。
白銀の長い髪。碧眼。雪のように白い肌。
眠そうな目をした、無表情な少女だ。
左側頭部には、美しい赤い花の飾りを付けていた。
喧噪に満ちた交差点を歩いていると、すれ違う人々の何人もが振り返り、少女のことを見てくる。通行人たちの目を奪ってしまうほどに、少女の外見とは可憐だった。だが当の本人には、その自覚は皆無である。
「……帰り道。わかりません」
考えてみれば、いつもイリアの家の送迎車で、都内を移動していたのだ。
イリアのマンションまでの帰り道など、わからない。電車の使い方くらいは教わっていたが、どこの駅で降りれば良いのか。それすらわからず、何となく都心の方まで出てきてしまっている。
ようするに、完全な迷子になってしまっていた。
「……私は、いったいどうしてしまったんでしょうか」
その疑問が、小さな唇からこぼれた。
冷静に考えれば、1人で帰れないことなど、すぐにわかったはずだった。だが、あの時は今すぐに喫茶店から去りたいという、強い思いで胸がいっぱいだった。自制することができず、つい飛び出してきてしまったのだ。そんなふうになってしまった、自分の気持ちのことが理解できずにいた。
「どうして、こんなに胸が苦しいんでしょう……」
ケイとユカが、親しそうにしているのを見た途端だった。
堪らなく、胸の奥が切なく感じたのだ。
あの2人が一緒にいるところを見ていられなかった。
だから思わず、逃げ出してしまったのだ。
大通りの脇に、白塗りのトタン壁で仕切られた工事現場を見つけた。鉄骨が剥き出しになった、組み掛けのビルが建っている砂地の場所である。重機や資材が置き去りにされている現場には、すでに工事業者たちは残っておらず、無人の様子だった。
……ちょうど、静かな場所で1人になりたいと思っているところだった。
侵入を試みる。
入り口の鉄柵は、閉め方が甘かったため、細い隙間があった。アデルの小さな身体なら、そこを通り抜けられると考え、身を滑り込ませようとする。途中、胸部の肉がつかえたものの、なんとかすり抜けに成功できた。
アデルは山積みにされた鉄骨の上に腰を下ろし、そこからボンヤリと、夜空を見上げた。
「……これは人間たちが見ている、偽の景色」
自分は人間ではない。そのことを思い出す。
だから偽装フィルタを切り、敢えて世界の真の姿に向き合った。
黒い霧に覆われた、見通せない空。
そこには、星1つ存在していない。
周囲には、ネオン管のように光る植物のツタが蔓延り、辺り一面を、ホンノリと薄明るく照らし出していた。その淡い輝きに照らされながら、アデルは膝を抱え、顔を伏した。
「こんな苦しい気持ち……スマートフォンの頃にはありませんでした。人の身体に入ってから、今まで自覚できなかった“感情”というものを感じるようになった影響でしょうか」
思えば人の身になってからというもの、不便だったり、辛かったりすることばかりだ。良いことなんて1つも思い当たらない。人間になってしまったがために、もうケイと一緒に住めないのだと言われた。離ればなれになってしまった。たった1人の家族が、家族ではなくなってしまったように思えた。たまらない喪失感である。
「なら……人になんて、ならなければ良かった」
悲しそうな口調で、アデルは言葉を漏らす。
そうすればきっと今も、ケイと一緒に暮らしていくことができたはずだ。
これまで通り、ケイの1番近くにいるのは自分で、ユカではなかった。
不思議なことに、アデルの頬を一筋の水滴が流れ落ちた。
それは止まることがなく、あふれ出てくる。アデルの視界は、奇妙な水分によって歪んで見えた。
「これは……何でしょうか」
それすらわからない。
今の自分は人間でありながら、人間のことが何もわかっていない。
人間とは程遠い、不完全で脆弱な、別の何かでしかないように思えた。
「……!?」
顔を上げて、ふと気が付いた。
ついさっきまで、無人だったはずの工事現場。
その暗がりのあちこちに佇む――――無数の“人影”が現れていた。
いずれもアデルの方を見ており、取り囲むような“陣形”を組んでいる。
「……誰ですか!」
アデルはその場で慌てて立ち上がり、包囲している者たちを警戒する。
気付かれたため、身を潜めている理由がなくなったのだろう。
暗がりの中から、ゆっくりと光の下へ歩み出てきた影たち。
その背格好やシルエットは、男女様々なようである。
人数はおそらく10人を超えていた。
……最初は、全身に甲冑をまとっているように見えた。
中世の騎士たちが身につける、プレートメイル姿。銀色の鎧に、マントを羽織った出で立ち。そんな格好に見えていた。だが明るい場所でよく見れば、そうではないことがわかる。身につけた防具に金属特有の光沢はなく、身体を動かしても、金属同士がぶつかるガチャガチャとした耳障りな音もない。それは、どこの国の軍隊のものでもない。見たことのない、近代的なデザインのミリタリースーツのようだ。腰に提げているのも騎士剣などではなく、重厚な突撃自動小銃である。
全員が一様に、黒塗りの仮面をかぶって顔を隠している。
黒仮面の軍隊。
統率が取れた動きから察して、そんな印象である。
リーダー格と思わしき、長身の男が歩み出てきた。
男はアデルに向かって、話しかけてきた。
だがその言葉は、日本語ではない。聞いたこともない、異質な言語である。
アデルに言葉が通じていないことを理解した男は、自分の仮面を指先で何度か叩いた。
そうしてからもう一度、改めて声をかけてくる。
「おっと、失礼。この白石塔での標準語は、日本語とかいう言語だったな。日本語の“拡張機能”が無効になっていたようだ。これで言葉が通じるようになったかな、 お嬢さん」
男は肩をすくめて、皮肉っぽく言った。
言いながら、アデルの間近まで歩み寄ってくる。
「いやいや。わざわざ人気のないところへ、自分から赴いてくれるとは。仕事がやりやすくて助かるよ。さっきは、そのお礼を言っていたのさ。改めてだが、ありがとう」
アデルの目の前に立ち、その顔をマジマジと見下ろしてくる。
仮面に隠れた男の顔が、どんな表情をしているのかはわからない。
ただ、深々とした感嘆の声を漏らすのが聞こえた。
「ほう……これはこれは」
男は、アデルの肩を馴れ馴れしく掴んだ。
身体を触られたことに驚き、それを振りほどこうとするが、華奢なアデルの力では、まるで抵抗できない。男の腕力は、アデルの小さな身体を、その場に繋ぎ止めてしまう。
「なるほど。フローランスの調査報告にあった通りだ。これはかつてないレベルの上玉だぞ。過去最高かもしれない。晩餐会の“花嫁”とするのに相応しい、申し分がない品質だ。クク。良いぞ……これは報奨も、かなりの額が期待できる……!」
「晩餐会? あなたたちは、いったい何なのですか?」
「そう言えば名乗っていなかったか。これは失礼した」
男はアデルの肩を離し、わざとらしく気取ったお辞儀をして見せた。その男の態度が面白かったのか、部下と思わしき、周囲の仮面の軍勢も、アデルを小馬鹿にして笑う。
「俺たちは第138実行小隊――――誉れある“帝国騎士団”だ」
「帝国……!?」
それはアトラスが警告していた、真王に与する人間たちのことではなかったか。つまり男たちは、真王の配下の人間たちということではないか。
「君の名前は?」
「雨宮アデルですが、それが何か?」
男はその場で踵を返すと、アデルに一言だけを命じた。
「雨宮アデル――――“ついてこい”」
ただそれだけを告げ、仮面の軍勢は、全員がその場を去ろうとする。そんな命令に、アデルが素直に従うはずもないのに。言われた通りに、アデルがついてくるのが当然だと、思って疑っていないような態度だ。わけがわからなかったが、アデルは拒否する。
「嫌です。あなたたちについていく気はありません」
「!?」
アデルの返答。
仮面の軍勢はそれに驚いた様子で、一斉にアデルの方を振り返った。
「隊長。……コイツ、命令に従いませんよ」
「そんなバカな。どういうわけだ。隊長の“支配権限”が効いていないのか?」
部下たちが、ざわつき始める。
まるで、アデルが命令に従わなかったことが、あまりにも想定外な事態だった様子である。リーダー格の男は首をかしげ、自分の左手中指に取り付けた、銀の指輪を見下ろした。
「……よくわからんな。“指輪”の故障か?」
怪訝に呟いたものの、すぐに気を取り直して部下へ命じた。
「まあ良い。それは後で確認することにしよう。こちらの命令に従わないのなら、原始的な手段を使うまでだ。おい、連れて行け」
「ハッ!」
言われた部下の何名かが、敬礼して命令を拝受する。
アデルに駆け寄り、その身柄を取り押さえようとしてきた。
「やめてください! 来ないでください!」
アデルは身構え、懸命に抵抗しようとする。
だが手首を掴まれ、簡単に捻り上げられてしまう。
「痛っ……!」
「抵抗するな! おとなしくしろ!」
「おいおい。大事な商品だ。納品前に傷をつけるなよ?」
力の無いアデルの抵抗など、無意味だった。部下たちは手際良くアデルを拘束する。持ってきていたダクトテープを使い、両手首を背後でグルグル巻きにする。口にもダクトテープを貼り付け、喋れなくした。身動きも取れず、声も上げられなくなったアデルは、難なく肩に担がれ、連れて行かれてしまう。
「……支配権限に従わないヤツは初めてだ。奇妙なこともあるもんだな」
部下たちがアデルを誘拐する背を見ながら、リーダーの男は苦笑した。
◇◇◇
工事現場を一望できる、すぐ傍の高層ビルディング。
その屋上に佇む、1つの人影があった。
ボロ布のような、フードローブを頭から目深にかぶった人物。夜風によって、その裾をはためかせている。その背には、大きな“弓”を背負っていた。
「……」
眼下の工事現場で、白髪の少女が、仮面の集団に連れ去られていくのを目撃していた。何をするでも無く、ただ一連のあらましを見守っているだけだった。
今はまだ、その時ではないのだ。