13-28 失意の男
ベルセリア帝国ローシルト領――――。
交戦中であるエレンディア企業国との国境から近い、北部寄りの都市がある。その路上には、周辺の村々から疎開してきた人々が溢れ、賑わいとは異なる、混沌とした喧騒で満たされていた。そんな最中にあっても、普段と変わらずに開店している酒場はあり、残酷な現実から逃避したい者たちは、自然とそこへ集っていた。
捨て鉢のようになって、泥酔している者ばかりである。
カウンター席で、ショットグラスをあおる男も、その1人だ。
ブラウンのセミロング。翡翠色の瞳。ピアスをした、美形の青年だ。軽装鎧姿であり、見てすぐに、ベルセリア帝国騎士団所属の騎士であることがわかる。かつてのトレードマークである、赤い十字の描かれた白いマントは、身につけていない。しばらく身なりを整えていない様子で、髪も肌も荒れており、目の下にはクマをつくっていた。
勇者、クリス・レインバラードは、憔悴していた。
グラスを開けると、沈むように、カウンターの上で項垂れた。肩を落とした姿は弱々しく、衰弱しているようにも見えた。見るからに落ち込んでいる様子のクリスに、同情する者も、声をかける者もいない。店にいる者たちは、誰しもが男と変わらぬ、苦しんでいる人々ばかりなのだ。皆、自分のことだけで必死であり、店内にいる他人への気遣いなどない。
しばらくすると、店に新たな客が現れた。
クリスと同様に、軽装鎧を着込んだ男だ。斧を背負った黒人、エリオットは、カウンターで酔っているクリスを見るなり、歩み寄ってきた。そうして黙って、隣の席へ腰を下ろす。そのまましばらく、2人は互いに黙っていたが、腹に据えかねたエリオットの方から、語りかけた。
「……剣聖が、命令に従わないお前を疎ましく思って、始末したがっているそうだ。このままいつまでも戦線に復帰せず、サボっているのは、だいぶまずいんだぞ。わかってるのかよ、クリス」
「どうでも良いさ」
クリスはエリオットを見向きもせず、即答した。
言葉通り。
心底から、そう思っていた。
ベルセリア帝国騎士団の他国侵攻作戦へ、参戦するように命じられている。だがそれをことごとく無視して、命令違反を繰り返しているのだ。騎士団長である剣聖、サイラス・シュバルツが、そのことを良く思っていないのは当然である。今はまだ、軍紀違反としてペナルティを受ける程度の、甘い処罰で済まされている。だがいずれ、それが命令違反に格上げされ、最悪は軍法会議にかけられ、処刑ということもありえるだろう。剣聖が直接、クリスへ手を下したがっているという噂もあり、仲間たちはそのことを心配してくれているのだ。
知ってはいても、態度を改めるつもりはない。
どうしても、命令に従おうという気にならないのだ。
たとえ、自身の命が脅かされる状況であっても、である。
クリスは嘆き、エリオットへ内心を吐露するように語り始めた。
「……およそ1万年にもわたる、帝国による世界の統治。真王様にアーク全土が平定されてからというもの、それまで頻発していた、人間同士での大きな争いは、この地上からなくなった。千国の時代が終わり、帝国の名の下に、人々は1つとなって、世界は平和になったんだ。そりゃあ、色々と細かい社会問題は抱えていたかもしれないけれど、これまでの帝国とは、事実として“正義”だったんだ」
自分の発言に対して、クリスは思わず嘲笑してしまう。
「その正義はもう、アルテミアによって破壊されてしまったけれどな」
「……」
「俺は“勇者”という呼ばれ名に、誇りを持って生きてきた。くだらない貴族社会の利害関係に縛られず、正義と信じた行動を自由に行使して、それを人々から咎められない存在。実力と実績によって、自分の力で勝ち取った特権だ。俺にとって正義の指針とは帝国であり、それを守護することが正しいという、信念を持っていた。だが……それを完膚なきまでに破壊したのは、まさか自分が所属する企業国の長。俺が忠誠を誓った主が、真王様暗殺の下手人であり、長らく続いてきた帝国の安寧を破壊してしまった。その結果、世の中は今のように、救いようのない混沌の時代を迎えてしまっているじゃないか」
クリスはすがるような目で、隣の親友を見て尋ねた。
「なあ。教えてくれ、エリオット。自分の仕えていた主人が悪党で、俺はそれに忠誠を誓ってしまっている。悪と戦えない勇者は、どうすれば良いんだ」
「……少なくとも、酒浸りになっていれば良いわけじゃないだろ」
エリオットは真剣な顔をして、だが皮肉で返す。
それに思わず、クリスは苦笑ってしまった。
カウンター越しのマスターに、ジェスチャーで酒のおかわりを要求する。差し出されたショットグラスを飲もうとしたクリスだったが、エリオットはそれを遮るように手を出し、妨害する。口にはしていないが、「もうやめておけ」と言ってるのだ。
「……俺が守りたかった帝国は、もうない」
クリスは親友の手を払いのけ、再び酒をあおった。
それを見ながら、エリオットは溜息を漏らした。
「戦う理由を、見失ってるのは、わかってるさ」
「君は専門家協会所属だし、ローラはロゴス聖団所属だ。どこかの国に義理立てする必要のない立場なんだから、これまで通りに自由に振る舞えば良いだろう。ここでこうして、アルテミアの犬に付き合っている必要なんかないさ」
「……言うほど、俺たちも自由じゃない。今の専門家協会は、傭兵を派遣する斡旋業も同然になって、各国ごとに分断されてしまったし。ロゴス聖団だって、今まで主張してきた中立の声を無視されて、あちこち戦いに巻き込まれてるらしい。お前はアルテミアの犬かもしれんが、俺たちだって、フリーの戦争屋も同然だよ」
「ハハ。勇者一行も、ずいぶんと落ちぶれたものだよな。今じゃ、戦場で使い勝手の良い“駒”の扱いだ。大事なのは“所属”であって、個人の大義も信念も、関係ないんだから」
クリスの皮肉を聞きながら、エリオットは頬を掻いた。
少し考え込んだ様子を見せてから、おもむろに話を始めた。
「……ここから北へ100キロくらい行ったところに、ハリントンっていう小さな村があるらしい。森の中にある、ここより寒い場所だ」
唐突に切り出された話題の意味がわからず、クリスは怪訝な顔を返す。
「そこに良い女がいるから、抱きに行こうって話か?」
「そうじゃない。まあ、聞けよ」
クリスの冗談には笑わず、エリオットは真顔のまま続けた。
「5日ほど前に、村の近くの湖で爆発音が聞こえたらしい。赤い火の玉のようなものが空から降ってきて、落っこちたんだって目撃情報もある。最初はエレンディア騎士団の攻撃かと思われたらしいが、まだ連中が攻め込んできていない、ローシルト領の内陸だ。その可能性は低い。だから確かめるために、村の自警団が周辺を調査したらしいが、これといった異変が見当たらなくてな。落雷か何かの、自然現象による音だったんじゃないかってことで、調査終了になったらしい。ただその直後くらいから、妙な連中が、村の近くで目撃されるようになったって話しだ」
「妙な連中?」
「赤髪の女の子と、機人族の女。それに、眼帯の男らしい」
「……!」
「なんだか、聞き覚えのある組み合わせだろ? なんでこんなところに、って話ではあるが」
驚き、興味を持ったであろう顔。
クリスのその表情を見て、エリオットは、ほくそ笑んだ。
「まあ、今さら平時の頃のお尋ね者だとか、そんな連中を追いかける意味なんてない時勢かもしれんが。もしかしたら、お前の上さんを寝取ったかもしれない男も、一緒にいる可能性がある。憂さ晴らしのために行くってんなら、俺も、ローラも、付き合ってやっても良い。空振りに終わるかもしれんが、ここで酒浸りになってるお前を見ているよりは、よっぽどマシだからな。暇つぶしくらいにはなるだろ」
「……」
クリスの気を惹いたまま、エリオットは席を立つ。
「俺とローラは、様子を見てくるつもりだ。その気があるなら、お前も後で都市正門まで来い」
クリスの肩を叩くと、エリオットは店を去って行った。
取り残された後、クリスは空いていないショットグラスを手にしたまま、考え込んでしまっていた。
聞き覚えのある組み合わせ。エリオットが言っていた妙な連中とは、雨宮ケイの一行である可能性がある。アルトローゼ王国にいるはずの彼等だとしたら、いったい敵国領土の辺境で、何をしているというのか。今度は何をしでかそうとしているというのか。放置しておくには、あまりに危険に思えた。無論、まだ人違いの可能性もあるが、クリスと同じ考えを持ったからこそ、エリオットたちは「確かめに行く」と言っているのだろう。
雨宮ケイ。
愛する妻の、想い人である。
クリスにとっては、腹立たしく思う相手。
その男に向ける感情とは複雑だ。
嫉妬と怒り、否定と軽蔑。
負の感情が大きいことは、自分でも気が付いている。
かつて、その男が、クリスへ言った言葉を思い出していた。
「あんたが守ってるのは、人々の平和な暮らしなんかじゃない。帝国の押し付けた、理不尽なルールだろ。……だったかな」
かつてのエヴァノフ企業国と、四条院企業国との国境都市。
そこで下民の少年を処刑しようとしたクリスへ、ケイが立ちはだかったことがあるのだ。
あの時、少年を処刑することが、当然のことだと考えていた。厳しくとも、帝国の強制するルールが正義であると、疑っていなかったからだ。だが世の中が戦争になって……今の自分は、アルテミアに押しつけられた理不尽な命令を、実行するだけの存在に成り下がっている。ある意味で、ルールを押しつけてくるのが、帝国からアルテミアに置き換わっただけとも言える。
正義とは、悪ではないこと。
悪とは、人々を苦しめ不幸にすること。
なら正義とは、人々を守り、幸せにすることであるはずだ。
そうだと思っていた。
正義を実現する方法がわからなかったから、帝国のルールを守ることに、これまで必死になってきた。だが果たして、それに意味はあったのだろうか。クリスが帝国の秩序を守ることで、人々の幸せは保証されてきたのだろうか。
「多くの人々の、平和で幸せな暮らしを守ること。それが正義。俺が守ってきたのは、本当に正義だったのか? それとも……ただの帝国のルールか?」
口にした疑問に、答えはなかった。




