13-20 宙域戦
唇を奪われた。
初めての口づけ。
それを交わしたのは、意中の異性ではない。
冷たい眼差しの男である。
「あ……あぁ……!」
自分の顔が、カァーッと熱くなっているのがわかった。
無意識に、唇を守るようにして、手で顔の下半分を覆い隠してしまう。
人間同士の愛情表現というものは、以前のアデルには、理解不能なものだった。唇をお互いに押し付け合い、手を繋ぎ、抱擁する。その行為にどんな意味があるのか。なぜ人はそうしたがるのか、まるでわからなかったからだ。
今ならわかっている。
好きだと想う相手と寄り添い、少しでも近づきたいと願うからだ。
たった1人だけ。生涯を共にしたいと想う相手と、そうなれることを、いつしかアデルは夢見ていた。自分が想うのと同じように、相手にも、好きだと想われていたい。何も持っていない自分だが、愛する者へ少しでも、何か特別なものを与えたいと思って。だからこそ初めては、愛する少年に捧げたいと願っていた。
しかしそれは今、呆気なく奪われてしまったのだ。
「私……私は……!」
深く傷ついた。
ボロボロと涙がこぼれ、自然と泣いてしまっていた。
間違いなく、今の光景は見られていたはずだろう。
怖くて、少年の方へ顔向けできない。
愛する者を、裏切ってしまった罪悪感で、胸がいっぱいになった。
苦しくて、アデルは泣かずにいられなかったのだ。
だが悲しいと思う反面――――なぜか矛盾する“喜び”の感情もあった。
その気持ちがアデルを、酷く混乱させる原因になっている。
「どうして私……!」
初めてアデルの唇を奪ったのは、アデルにとって好きでもない見知らぬ男。そのはずであるのに、なぜか、そうではないのだ。アデルの中に、自分ではない、もう1人の自分がいて。その自分が、目の前の男のことを好きだと想っていたようなのだ。
誰か知らない他人の愛情が、アデルの中で芽吹き、それが無視できないほどに、大きくなっていく感覚があった。その想いが強くなっていくのと同時に、これまでアデルが見聞きしたことのない、知らないはずの風景や、知らないはずの人物たちとの記憶が、鮮明に思い出されてくる。
これは、かつてのアデルの記憶――――?
おそらくは、そうなのだろう。
富士の樹海で、無死の花として芽吹く前の自分。
失われていた、出生の時代の記憶。
今のアデルではない、昔のアデルが、目の前の、この男のことを知っているのだ。
まるで身体と心を乗っ取られてしまったかのように、アデルは、思い浮かんだ言葉を発する。
「ヴィトス……どうしてあなたが生きているのですか? あなたは、遠い昔にもう……」
「こうして直接、顔を見せにきた甲斐があったのかな。記憶が蘇りつつあるようだね、アデル」
「記憶……これが、私の記憶なのですか……?」
「そうさ。君が言うとおり、ワタシはかつてのワタシではない。だがそれでも、2500万年から変わらないこともある」
男。真王ヴィトスは、アデルへ微笑みかけて言った。
「愛した者の名を、忘れたことは1度もない」
◇◇◇
真王へ斬りかかろうとするケイの一撃を、マティアの大剣が受け止めた。
あらゆるものを死に至らしめる防御不可能な刃が、ただの石塊にしか見えない大剣によって、容易くガードされたのだ。通常であれば、受け止めた刃ごと、マティアは両断されてしまうはずだが、そうはならなかった。そのことにケイは、少なからずの驚きを感じる。
理外の力を有した原死の剣と斬り結べる武器は、これまで見てきた中では、企業国王たちが有する、同じ理外武器だけである。設計者が手にする武器も、それと同じなのだろうか。見た目とは裏腹に、原死の剣と同格の様子だ。
マティアは、ケイの刃を弾き返すと、細い片手で軽々しく大剣を翻す。そのまま刃を地面へ突き立てると、全身から激しいスパークを生じさせ始めた。直後、大剣を刺した場所を中心に、女王コロニーの床地が大きくひび割れる。そのひびは見る見る間に拡大し、瞬時に地を裂く深い溝を生じさせた。まるでコロニーを引き裂く爪痕のように、地面の裂傷は、あっという間に、コロニー内を一周して輪切りにしてしまう。
「コロニー破壊かよ……!」
マティアの攻撃の狙いに気が付いたケイは、戦慄する。地面に剣を突き立ててただけで、そこを起点に、この女王コロニーを両断して見せたのだ。先程、一刀で複数のコロニーを破壊して見せたのだ。それくらいのことは当然、やれるのだろう。
マティアに斬り裂かれた女王コロニーが、急速に崩壊し始める。外は宇宙空間なのだ。コロニー内部の空気が、激しいうねりを伴いながら吸い出されていく。天窓は盛大に弾け飛び、庭園の薔薇は千切れて、虚空を舞った。茨は、マティアが生じさせた地面の亀裂穴に吸い込まれ、その途中にいたケイたちの肌を切りつけ、宇宙空間へ撒き散らされていく。
「きゃあああ!」
体重が軽いジェシカは、真っ先に身体が浮遊して、宇宙空間へ放り出されそうになる。手近な柱に掴まることで、何とかそれに耐えている様子だった。重量があるはずのラプラスの車椅子も、亀裂穴に誘われるように引きずられている。飛んでいきそうなジェシカの手を掴んでやりながら、リーゼが全員へ警告した。
「くっ! 機人である私やお母さん、アトラスも何とかなるけど、生身のケイやジェシカは、このまま宇宙へ投げ出されたらまずいよ! 何かに掴まってて!」
「コロニーがぶっ壊されたのよ!? 今すぐ宇宙に放り出されなくても、空気がなくなったらアウトじゃない! こんな状況、どうすりゃ良いのよ!」
「宇宙に放り出されれば、我たちは身動きが取れなくなる! それどころか、生身の雨宮殿は生存できない環境だ! おそらくは、戦わずして勝利する目論見であろう!」
「だろうな……!」
ジェシカ同様、柱に掴まって踏ん張りながら、ケイはアトラスの意見に同意した。
慌てふためくケイたちとは異なり、一方の真王とマティアは、涼しい顔である。マティアに至っては、先程、宇宙空間を生身で漂っていたのだ。外に投げ出されることは平気なのだろう。命の危険を賭しているわけでもないため、平然と亀裂から外へ飛び出していった。
「君はワタシが守るから大丈夫だ。行こう、アデル」
真王もアデルを抱きかかえたまま、マティアの後を追って、コロニーの外へ飛び出していった。
「おい、待て!」
ケイの静止の声など、聞く耳を持たない。
機人族のコロニーを好き放題に破壊し、アデルを連れ去ろうとしている真王と輩。自分たちの行いによる犠牲や被害など、気に掛けている様子すらない。ラプラスから聞かされた非道な話の数々を思い返せば、文明単位で、人間を繰り返し虐殺してきた悪魔も同然の者たちなのだ。数百、数千単位の命など、今さら何とも思っていないのだろう。その態度は、怒りをかき立てるに十分だった。
真王とアデルが、キスをしている光景が、頭に焼き付いて離れない――――。
ケイの怒りは、私的な感情も十分に含まれていた。
「エマ、近くにいるか!」
『は、はい! います! 大丈夫ですか!?』
ケイは唐突に、姿が見えないエマを呼びつけた。
予想通り、ケイの近くから反応の声が返ってきた。
「風を基調にした支援防御系の魔術、得意だよな!」
『え!?』
「宇宙空間に出てもオレが死なないよう、魔術で身体の周りに酸素を展開したり、有害な宇宙線とか低温とか、そういうのをガードするとか、できるか!」
『そそそ、そんなのやったことないですよ! できなくはないかもですけど、それも理論上はできるかもってだけで』
「上等だ! オレで試してみてくれ!」
『えええ!!?』
戸惑うエマを捲し立てるように、ケイは告げた。
「マティアの狙いは、オレを宇宙空間に放り出すことだ! 他のコロニーに避難したところで、また逃げた先のコロニーが破壊されるだけ! つまり機人の犠牲が増えるだけだ! なら――――このまま外へ出る!」
ケイの発言に、エマは驚愕する。
たまらず引き留めた。
『待ってください! 外へ出るって、ムチャクチャですよ! 宇宙空間の平均温度はマイナス270℃で、しかも酸素がない真空空間なんです! ここは月面に近いから、緩やかな重力くらいはあるかもしれないですけど……生身の人間が生存できる環境なんかじゃありません! それに魔術でガードして無事だったからと言って、どうやって思うように身動きが取れない宇宙空間で、設計者や真王と戦えるんですか! もっと言えば私、お姉ちゃんからあまり離れて活動できませんし! とにかく、相手の目論見通りに殺されるだけですよ!』
「逃げていたって好転しない! 機人の被害を増やさないためにも、やるしかないんだ! オレは普通の人間よりも頑丈な身体だから、多少の無茶は大丈夫なはず! いくぞ!」
『ひええええ! 雨宮さん、頭がどうかしてますよおお!』
ケイは掴まっていた柱から手を離し、凄まじい風のうねりの中へ身を投げ出した。そのままマティアたちが出て行った亀裂穴から、暗い無限の暗黒空間へと放り出された。
その様子を見送ったラプラスが、機人族の無線通信で娘へ声をかけた。
《リーゼ》
娘が振り向き、顔を向けるのを確認してから、交信を続けた。
《予期せず、設計者たちに、この会合のことを知られてしまいました。雨宮ケイが、彼等に要注意人物としてマークされていたことを考えれば、予測できた事態だったかもしれません。私の油断が招いた結果が、これです。種の存亡がかかる事態に陥ってしまいました》
《そんな……! そもそも私が、アデルやケイたちに会って、協力して欲しいって頼んだから、こんなことになったんだよ! お母さんだけのせいなんかじゃ……!》
《いいえ、今回の被害も、この状況も。全ては王である私の責任です。それが、全知眼を継承してきた、全てを知る者が背負うべき責任。私には、後世まで機人族を存続させる義務があります。……あなたの生きる未来を守るためにも、何としてもこの場から設計者たちを撃退しなければなりません》
そこまで言って、苦笑を浮かべる。
《戦いは不慣れですが。私も、雨宮ケイに協力してきます》
《!》
ラプラスは、必要な指示を告げる。
《王として、王の娘へ命じます。あなたは他の同族や、友人たちを無事に避難させなさい。生き残ることが、あなたたちの使命です》
《戦うって……無茶だよ! 相手は、私たちのコロニーを数秒で破壊できるような、非常識な力を持ってるんだよ!? それに、アトラスが真王と呼ぶ、妙な男も……!》
《機人族は地上のことに干渉せず、観測者であり続けます。そうであるべきだと、今も考えています。しかし……内心に期待を持って、見守っているくらいのことは良い。そう思ったからこそ、あなたの希望に応えました。》
ラプラスは、優しく微笑んで言った。
《あなたたちの地上での活躍を見てきて、いつしか、そんなふうに思うようになったのかもしれません。雨宮ケイと、アデルの肉体。そして、この全知眼は切り札。真王の支配を覆せるかもしれないという、起こり得ないはずの可能性の欠片。今ここで失うわけにはいかないでしょう》
ラプラスは、腰掛けていた車椅子のコンソールを操作する。すると、重量が軽くなったのだろう。フワリと地面から浮かび上がった。
《安心なさい。この場を丸く収めるアイディアはあります》
「お母さん!」
《機人は希望を棄てた種族。ですが……ルークやあなたが見た夢は、悪くないと思っていましたよ》
ラプラスも、ケイたちが吸い込まれていった亀裂に引き寄せられ、宇宙へと投げ出されていった。




