3-11 魔光矢
東京都江東区、豊洲地区。
高級タワーマンションが建ち並ぶエリアだ。
光り輝くビルディングの1つ。
最上階のペントハウスの浴室からは、星空を背負った夜の海が一望できた。
だが、少女の瞳には美しい星空など映っていない。
見えるのは、広大な闇の空。真実の世界の光景だけである。
少女は、広い大理石の浴槽に浸かり、白銀の長髪を湯面に漂わせていた。特にすることもなく、そうしてボンヤリと、ガラス壁の向こうの景色を見やっているだけだ。ふと視線を転じれば、ガラス壁に自分の姿が映り込んでいるのに気付いた。
無表情。眠そうな半眼の眼差し。
左側頭部から生やした、赤い花。
人間になったアデル。
それが今の、自分の姿だ。
人間は、顔の筋肉を動かして表情を作り、感情表現をするようだ。だが……生憎とまだ、アデルには、そんな器用な芸当はできない。そうする必要性もわからない。表情筋を動かさないから、のっぺりした無表情になってしまっているのだが、別にそのことを問題だとは考えていなかった。
呟く。
「……この入浴という行為は、いつまでこうして、お湯に浸かっていなければならないのでしょうか。なにかルールがあるのでしょうか」
ここはイリアの住居である。
家に着くなり、身体が匂うから入浴するように勧められたのだが……裸でお湯に入れば良いという説明以外に、詳しいことを教えられていない。とりあえずイリアに言われた通りにしているが、入浴を終えて良いタイミングが、よくわからなかった。
「まあ、なんだか温かくて気持ちが良いので、もうしばらく入っていても良いですが」
アデルは瞼を閉じ、肌から全身に染み渡るような湯の感触を堪能していた。
しばらくすると、浴室の戸が開いた。
現れたのはイリアである。
腰にタオルを巻いているだけの格好で、裸だった。ショートの金髪に碧眼。入浴の時にまで、いつもの十字架のペンダントを身につけているようだ。
「ずいぶん長湯だから心配になって来たけど、案の定、入浴の終わり時を見失っていたようだね」
「イリアも、一緒に入浴するのですか?」
「まあね。安心したまえよ。“一応”だけど、ボクはご覧のとおり女だ」
言いながらイリアは、自身の胸元を指さして微笑んだ。
露わになった胸部には、微妙な丘陵が存在しており、小さな乳房が存在していた。女性らしく、ほんのり丸みを帯びたスレンダーなシルエット。
普段は性別不明なイリアだが、裸体を見れば、美しい女性だとしか思えなかった。
アデルは不思議そうに、首をかしげて言う。
「安心とは? 何のことを言ってるのでしょう」
イリアが男であっても、女であっても構わない。
男かもしれないと、警戒すらしていない。
そんなアデルの態度を見て、なぜかイリアは嬉しそうだった。
「フフ。そうか。アデルにとっては人間の性別の違いなんて、まだよくわからないのか。それは助かるよ」
「む。バカにしないでください。私は馬の出産に詳しいのです。馬と同様に、人間にもオスとメスが存在するのですよね? 性別の違いがあることは理解しています」
「馬の出産……?」
「ケイのスマートフォンに寄生していた時に、関連動画をたくさん見ました」
アデルは、胸を張ってドヤ顔で言う。
まるで知ったかぶって自慢する、子供のような態度である。性別について知っているのだと豪語するアデルを、なんだかイリアは微笑ましく思った。
「ケイとトウゴは男で、サキとイリアは女ですよね? 胸部の膨らみがあるかないか。骨格の違いなどで、私にだって判別は可能です」
軽く湯で身体を流してから、イリアも浴槽へ入った。
アデルの隣に腰掛け、星空を見上げながら語った。
「なるほどね。見た目で雌雄の判別はわかるわけか。けれど人間のオスとメスの“関係性”については、よく知らないんじゃないかい? 馬のそれとは違って、もっと複雑なものだよ?」
「関係性? どういうことでしょうか?」
イリアは苦笑した。
「そうだな。たとえば“羞恥心”だ。人間は、馬のように裸ではいられない。だから服を着る。男女は互いに、自らの全てをさらけ出すことを恥ずかしいと感じるんだよ。そうして自らを隠し偽りながら、同時に、少しでも自分を良く見せようとしているんだ」
「隠したいのに、見せたがっているということでしょうか。矛盾した奇妙な習性です」
「だろう? だからこそ、人間のオスとメスの関係は、複雑だと言うことさ」
イリアは皮肉っぽく肩を竦めて見せた。
「君は人間に成り立てだ。精神年齢は、まだゼロ歳と言ったところだろう。けれど肉体の方は、見た感じでは中学生くらいだろう。胸の発育も良いようだし、もしも初潮を迎えているのなら――すでに子を孕むことができるようになっているかもしれない」
「子を孕む?」
「ああ。君は人間の女の身体を獲得した。つまり同時に、人の子を産む機能も得たんだよ」
言いながらイリアは、アデルの外見をまじまじと観察した。
ガラス細工のように華奢な四肢。雪を思わせる白さの、汚れ1つ無い、きめが細かい肌。見た目の年齢に不相応な発育の、ハリのある形が良い乳房。そして、童話に出てくる姫君のような美貌。頭部に生えた花は、事情を知らない者が見れば、かわいらしい飾りに見えることだろう。
非現実的なほどに、美しいではないか。
「君は精神と肉体の均衡がアンバランスな上に、規格外に可憐だ。だから男たちにとっては、かなり目の毒になることだろう。馬の出産に詳しいのなら“性行為”についても知っているんだろう? オスという生き物は、隙あらば女と性行為をしたがる。快楽を得て、女を孕ませたがる動物なんだよ。これからは誰もが、君の身体を狙って近寄ってくるだろう。気をつけなければならないよ?」
「人間の性行為については、方法をよく知りません。それより……人間のオスとは、みんなそうなのですか? では、ケイも?」
「そうさ。雨宮くんだって例外じゃないよ? 彼は今朝、君に添い寝されて焦っていたんだろう? 君のことを異性として意識し出しているからさ。フフ。あまり肌を見せて誘惑しすぎると、自制を失った雨宮くんに孕まされるかもしれないよ。互いによく知る仲であっても、今後は気をつけることを勧めるね」
「私が…………ケイの子供を……?」
それを自覚した。
途端にアデルは、急に目を丸くして、頬を熱くしてしまう。
なぜそのような反応が自分に生じているのか。
理解できず、アデルは慌てて湯の中に顔を沈めて隠した。
頬の赤熱はなかなか引かない。
胸の動悸もおさまらない。
アデルは気恥ずかしそうに、湯の中から目だけを覗かせ、隣のイリアを見やった。
その意外な反応を見たイリアは、驚いた顔をしていた。
だがやがて、妖しく微笑み、面白いことを1つ知ったのだと満足する。
「もしかして、その反応はまんざらでもないのかな。早速、理解できただろう? それが“羞恥心”というものだよ」
「……よくわかりません」
湯の中から顔を出したアデルは、困惑した顔で答えた。
ケイのことを考えると……今のアデルは、胸の奥がキリキリと痛むような感覚がした。
「しばらく一緒に住めない」と言われて、こうしてイリアの家に預けられている。
よく考えれば、ケイと離れて暮らすことは、生まれて初めてのことである。
これからのケイのいない生活を考えると、どうしてかアデルは、苦しいのだ。
人間の身体を得てからである。
こうした数々の、奇妙な感覚を感じるのは。
これがおそらく――“感情”というものなのではないだろうか。
「雨宮ケイか」
アデルの態度を見ていたイリアが、感慨深く呟いた。
「初めて出会った時から、彼は血まみれだった。ボクが知る彼はいつだって、人ではない存在の返り血に汚れ、死を振りまいている。この社会で言えば、異常者の類いなのは間違いないだろう。殺された家族の復讐にかられ、その結果として生まれてしまった、人の形をした怪物。本来なら、人の身では敵うはずのない怪物たちを殺して回る、まるで血に飢えた獰猛な獣のようだ。……そうだな。さしずめ“狼”と言った感じだね」
「狼、ですか?」
「ああ。群れない。媚びない。孤独にただ、獲物を殺し続けるだけの狂った狩人だ。誰かに感謝されたいからではなく。人の役に立ちたいからでもなく。ただ怪物がいるから、それを殺すだけ。殺すための殺し。いつか、野良犬のように孤独な死を迎えるかもね。面白いヤツさ」
「…………ケイは、私が守ります」
「おっと。そんなふうに睨まないでくれよ。余計なことを言ってしまうのは、ボクの悪いクセかな」
イリアは浴槽の中で立ち上がり、ガラス壁の方へ歩み寄っていった。
ビルの高層からの絶景を、一望する。
「この美しい星空を見て、機嫌を直してくれよ。……っと。そう言えばアデルには、ボクたちが見ているような“偽の世界”は見えないんだったね」
言われてアデルも、浴槽の中で立ち上がる。
イリアの傍に歩み寄り、イリアの額に手を当てて目を閉じる。
「……これは。何をしているんだい?」
「できるかもしれないので、試してみます」
「?」
しばらく無言のまま、アデルはイリアの額に手を当て続けた。
やがて目を開き、改めてガラス壁の向こうへ目をやった。
アデルの双眸にも、天に輝く、夜空の星々が見えるようになっていた。
「これが、ケイやイリアたちが見ている、真王に偽装された世界の景色ですか」
「……驚いた。アデルにも、この景色が見えるようになったのかい? アトラスがくれた“偽装フィルター”のようなものを、自作してしまったのかな?」
「理屈はわかりません。ただ……どうやら私は、EDENと呼ばれる、この世界のネットワークシステムへ干渉することができるようです。うまく説明できないのですが、“言語”のようなもので呼びかけると、応えてくれるというか……」
「言語?」
「はい。その言語を使って、システムに繋がっている人々、つまりイリアの脳へ呼びかけを試みました。イリアの脳内に、人工物と思わしきプログラムの応答を感じたので、それを自分の脳に“複製”してみたんです。偽装フィルターを自作したのではなくて、コピペ、できたのではないかと思います」
「それはすごいことだよ、アデル! つまり君はアトラスのように、人々に偽装フィルターを与えることができるということじゃないのかい?! ならボクたちは仲間を増やすことも――――」
イリアの話しの途中で、いきなり目の前のガラス壁が砕けて割れた。
「!?」
一瞬だけ。暗闇の空の渦中を、一条の光が飛来してきたのが見えた。
それがガラス壁を貫き、イリアの頬を掠めて背後の壁へ突き刺さった。
「イリア、無事ですか!?」
何が起きたのかわからず、呆然と立ち尽くしているイリア。
アデルはその手を引いて、割れたガラス壁から離れる。
大きな音を聞きつけたのだろう。イリアが雇って配備していたボディガードたちが、浴室の戸を外から叩き、押し開けようとしている音が聞こえてきた。
気を取り直したイリアは、アデルと共に壁を見る。
「これは……“矢”なのか……?」
外から飛来した細長いもの。それは、奇妙な青白い光を発する矢であった。
不思議なことに、壁に突き立ったその矢は、見る見るうちに形状を崩壊させていく。
まるで光の砂埃のように、虚空へ解けて、跡形も無く消え去ってしまった。
ここまでで、物語の導入部分は終了です。次回から本編です。