3-9 真王の虚構
電線に止まった小鳥たちが、さえずり始めている。
住宅街に、いつもと同じ平穏な朝が訪れた。
閉めたカーテンの隙間から、朝陽が差し込んできている。
寝間着姿のケイは、まだ温かいベッドの中で眠り続けていた。
…………今朝は、スマートフォンの目覚ましが鳴らない。
いつも時間になれば、アデルが勝手に起こしてくれていたため、ケイの生活習慣の中に、アラームを設定する作業は入ってなかった。完全に忘れていたのだが……どうやら習性とは身についているものらしく、おおよそいつもの時間になった途端、ケイの身体は目覚めてしまう。
まだ意識はボンヤリとしており、微睡む目を擦って、アクビをする。
ふとケイは、すぐ傍に、柔らかいぬくもりを感じた。
何だろうかと、隣を見やる。
「っ!?」
いきなり眠気が吹き飛んだ。
ベッドの上で跳ねるように上体を起こし、ケイは改めて確認する。
すぐ隣で、白いワイシャツ1枚の、あられもない姿の少女が寝ていた。
白銀の長髪。色白で、童話に出てくる白雪姫を思わせるような、愛らしい面立ちだ。桜色の小さな唇から、静かな寝息が聞こえている。街を歩いていたら、誰もが目を向けてしまうほどに美しい少女である。
ケイが起きたことに気が付いたのだろう。
少女もゆっくりと瞼を開けて、アクビと共に上体を起こした。
「おはようございます、ケイ」
クシクシと目を擦りながら、アデルは眠そうに挨拶をする。
左側頭部から生え出た、本体である赤花の花弁を整えながら、アデルは言った。
「長年、ケイを観察してきましたから。人間が毎日、睡眠をとる習性を持っていることは知っていました。なるほど、眠気という生理現象には、抗いがたい強制力があったからなのですね。人の身に入って、初めて経験しました。スマートフォンに宿っていた時には、こんな感覚はありませんでした」
人間になったアデルの性別は“女”だ。
ケイの部屋に、女の子の服などない。だから昨晩は仕方なく、男物の、ケイのワイシャツとズボンを貸してやっていたのだ。それなのにズボンの方は脱ぎ捨てられており、ワイシャツの前ボタンは、全て外されてしまっているではないか。
はだけたアデルの胸元が、視界に入ってくる。無防備なこと極まりない格好のアデルを見ていられず、ケイは慌てて、シャツの前ボタンをかけ直してやる。
「アデル! 何でズボン脱いで、そんなとんでもない格好してるんだよ!」
「何でと言われましても……服というものは、動きづらくて窮屈でしたので」
「窮屈でも、人間は服を着るものなんだよ! 裸はまずいだろ!?」
「なぜですか?」
「なぜって……そういうものなんだよ! しかもお前、何でオレと一緒のベッドに入って寝てるんだ!」
「いつも一緒のベッドに入っていたと思いますが……何か問題でしたか?」
「…………」
今の自分が人間であり、性別が女性であることを、アデルはまるで自覚していない。そもそも、その意味からして、よくわかっていないのだろう。スマートフォンに寄生していた、人間ではなかった時の常識で、今も物事を考えている様子である。
ようするに、人間社会について無知なのだ。
ケイは言葉に詰まり、頭を掻いて嘆息を漏らした。
そうしてベッドの傍らに敷いてあった、アデル用の布団に目をやる。
「……来客用の布団も、用意してやったじゃないか。どうしてそっちで寝てないんだよ」
「何となく、寝ているケイの顔が見えないとしっくりこなかったのです。いつもそうしてましたから」
「えっとだな。その……お前はもう人間なわけで。しかも女の子だ。オレと一緒のベッドに入って寝るのは……何というか、人間社会では色々と問題があってだな」
「その説明は具体性に欠けるため、不明確です。もう少しわかりやすくお願いします」
「何というか。そう言うのは基本的に、恋人とか夫婦にならなきゃダメなんだよ」
「職業や資格の話しでしょうか? 私がコイビトという資格を得れば、問題なくなるのですか?」
「だあ! これからはオレと一緒のベッドで寝るのは禁止ってことだ! あと、ブラジャーも買って付けろ!」
「……ぶら……じゃ……?」
ケイの言っていることが理解不能で、アデルは無表情のまま首をかしげている。
アデルの肉体年齢は、おそらく14歳くらいだ。
胸は、かなり発育しているように見える。
まだ小振りながら、同年代と比較したら、だいぶ大きいサイズではないだろうか。ゴムボールのように柔らかく、弾力がありそうな球形。そこからツンと尖り出た先端部が、ワイシャツの生地を押し上げ、位置を自己主張していた。白い布地の向こうに、薄らとピンク色が透けて見えしまっている。ケイは目のやり場に困り、視線を逸らすしかない。
ふと思い立ち、ケイはベッドの掛け布団を剥いで見た。
続けて、アデル用の布団の中も、問題がないかどうかを確認する。
「……なにをしているのですか、ケイ?」
「いや……昨日の帰りみたいに、寝ている間に“おもらし”されてないかと思ってな」
だから、アデルに自分のベッドを貸すことをしなかったのである。
昨晩、無人都市から脱出する時のことである。
ケイの背中から降りようとしなかったアデルが、「あ、何か出ます」と、唐突に宣言したのだ。そうしたかと思った途端、ケイの背中は、アデルの漏らした温かい液体で濡らされていた。
言われてアデルは、ポンと手を打って思い出す。
「ああ。膀胱機能を制御してなかったせいで、私が尿を漏出させてしまった問題のことですね」
凝った言い回しで、自分のおもらしのことを語るアデル。
恥ずかしいことを言ってるのだと、理解はしていない。無自覚だ。
普段通り、半眼の眼差しでケイを見つめ、覚えたばかりのピースサインを見せた。
「それならもう大丈夫です。サキから、オシッコとうんこの仕方を教えてもらいましたので」
「犬かよ……。まったく、調子が狂うな」
今日は学校が休みだ。
ケイは私服に着替えると、1階に祖父がいないかどうか、偵察に向かう。
祖父は昨晩から、町内会の会合……ようするに飲み会に呼ばれていた。飲み会がある日はいつも、だいたい公民館で酔い潰れていて、翌日の昼頃までは帰ってこない。だからこそケイは、誰にとがめられることもなく、アデルを部屋へ連れ込むことができたのである。
案の定、祖父は昨日の夕方から出かけたままで、まだ帰ってきていない様子だ。
「いきなりオレが、外国人みたいな女の子を連れ込んでるんだ。こんなのを、じいちゃんに見られたらどうなるか……。とにかく、今のうちに外出するしかないよな」
ケイは部屋に戻り、アデルに服を着させて、出発の準備をした。
◇◇◇
休日の昼下がり。
空には太陽が輝いており、街には穏やかな時間が流れている。
駅前のカフェ店。その店外席のパラソルの下で、青空を見上げていたトウゴが、感無量の呟きを漏らした。
「青空って、最高だったんだな……」
「ええ。本当にねえ……」
同じテーブルに座っていたサキが、しみじみとトウゴに同意した。
注文した抹茶オレをストローですすり、サキは幸せを噛みしめているところだった。
頭上の青一色の空が、目に染みるような思いである。
「アトラスが俺たちの頭に入れてくれた、“偽装フィルタ”だっけか。便利だよなあ、これ。知覚不可領域を見たいと思えば、見えるようになるし。見たくないと思えば、こうやって慣れ親しんだ“偽世界の光景”を見ることもできるようになったわけだ」
「おまけに、眠っても真王側へ察知されることがなくなったみたいだし。服毒自殺せずに快眠できる普通の日々って、尊いわよね」
「なんかもう、一生このままで良い気もするぜ……」
「たしかに、それはあるかもね。偽世界の中で生きていくことになるけど……」
それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。
ただ、何もかも見なかったことにして、このまま生きていくことも可能になったのだ。
トウゴとサキは、全てを忘れて、元通りの日常に戻ることも考え始めていた。
「でもさ……」
「ええ……」
有史以来、自分たちヒトが、得体の知れない強大な存在からの支配を受けていて、虐げられている。そしてその事実は、人々に“知覚させない”という方法で隠蔽されている。
アトラスはそう言っていた。
具体的に、どのように人々が虐げられているのか。アトラスは詳細を語らず、ただ「これからわかる」のだと告げて死んだ。そうは言われても、サキとトウゴは、自分たちが何かに虐げられているという自覚を持っていないため、ピンとこない話しである。だから今のところ、そこに危機感のようなものは感じていなかった。
ただ問題は――――“世界の真実を知ってしまった”という点だ。
トウゴは頭の後ろで腕を組み、重たい溜息を吐いてから言った。
「もうウソだってわかってることを、このまま一生、気付かないフリして生きてくのって……俺にはできねえかもしれねえわ。そんなの、しんどすぎるっつーか」
「……奇遇よね。私もそう思ってた」
サキは抹茶オレをすすりながら、トウゴの意見に賛成した。
「普通の人たちは、この偽世界しか見ることなく、一生を終えるんでしょうね。けれど私たちはもう、そのレールから外れちゃってる。脱線した列車が、走りながら元の路線に戻るのは無理だよ」
少し自嘲気味に微笑んでから、サキはキリっとした顔で告げる。
「それにさ。前向きに考えれば、有名ニューチューバーを目指す私としては、とんでもない特ダネの尻尾を掴んでるわけだから、この事実を世間一般に広める方法を、何としてでも見つけるべきだと思ってるのよね。全世界の人間の、知覚制限を取っ払うとか?」
「そんなことしたら、世の中が大パニックになるだろうがよ」
いかにもサキらしい発言を聞いて、トウゴはつられて微笑んでしまう。
「――――すいません、遅れました」
談笑していたサキとトウゴのもとへ、遅れてやって来た2人の男女が合流してくる。
ケイとアデルの、2人組である。
「遅かったわね、2人共。……って、アデルのその格好は何?」
尋ねられ、ケイは返事に困ってしまう。
季節はまだ秋だ。それなのにアデルは、厚手のジャケット姿だ。男物のシャツとパンツ。目深にかぶったキャスケットで額を隠しており、首にグルグル巻いたマフラーで、口元も隠している。つまり顔がほとんど見えない。目だけを覗かせているような格好だ。
アデルは悲しそうな声色で呻いた。
「ケイ……暑いし動きにくいです。服を脱ぎたいです」
「脱ぐな。我慢しろ」
「何だ何だ! なんでアデルだけ真冬装備で、全身パワードスーツみたいになってんだよ!」
ケイは仕方なく、正直に話した。
「コイツ。髪色とか顔立ちとか、目立ちすぎで……。ここに来るまでに、7人以上にはナンパされたんです。だから途中で、上着とか帽子とか調達して着させたんですよ。それで遅れました」
「はぁ~。そりゃすげえな。つまり、モテすぎるから顔を隠したってのか」
「まあたしかに、アデルはかなり可愛いと思うわ。女の私が言うのも、なんだけど。男なら声かけない方がおかしいかも。見た目が外国人というか、ちょっと人間離れしてる雰囲気だし。なんかモデル雑誌とか、そういうとこでしか見かけないような、規格外の美少女よね」
「サキのたとえ話しはよくわかりませんが、私のことを褒めていることはわかりました」
「ただ実態は、死体の脳みそに巣くう謎の怪奇花だけどな……」
「トウゴは、私のことを褒めていないのだとわかりました」
「それにしても雨宮くん、アデルの全身が男物のコーディネートすぎて、これじゃあ、せっかくの美少女が台無しすぎない……?」
「オレ、男物の服しか持ってなかったですし。その……コイツ、ブラジャーとかしてないから、色々と見た目の問題があって、厚着させるしかなかったというか」
「あー。なるほどね……」
サキは納得した様子だった。
ケイたちが話し込んでいると、その場で待ち合わせをしていた、最後の人物も到着する。
「やあ。待たせたかな」
ショートの金髪。碧眼。首には十字架のネックレスをかけている。
今日は私服のスカート姿で、少女の格好をしている様子だった。
イリアクラウスである。
「おお。待ったけど、イリアが遅れるのは、毎度のことみたいだしな」
「トウゴ、知らない間に、イリアに飼い慣らされてるわね……」
「先輩みたいなのは飼い慣らしやすいって、イリア本人が言ってました」
「でしょうね」
「おや? どうしたんだい、アデルのその格好は?」
イリアからも同じ事を聞かれて、ケイは疲れたように溜息を漏らす。
もう一度、サキとトウゴにも話した説明をしてやることにした。