10-57 苦渋の忠義
護衛の騎士たちに囲まれ、エレベータへ乗り込む。
アルトローゼ王宮の地下施設へ向かい、カゴの部屋は下降を始めた。
その間は誰も、何も語らない。
いつも息苦しく感じる静かな時間を、アデルは、階層表示を見つめて過ごす。
カウントダウンしていく数字は、いつもの決まった番号を示した。
――――B4階。表向きには存在しない区画だ。
扉が開くと、そこは真っ白な空間だった。白い天井に壁、白い床。それらが、眩いまでの白い光で照らし出されているせいで、無機質な白一色に見える。エレベータを降りた先は通路になっていて、その突き当たりの大扉まで、アデルは護衛たちに案内された。扉の前には歩哨が立っており、アデルが近づくと、壁の操作盤に触れた。
扉の向こうは、特殊強化ガラスで仕切られた広い個室だった。部屋の中央には、椅子とテーブル、ベッドが置かれているだけ。バスルームやトイレなどの施設もあるが、全てがガラス壁で囲われているため、どの角度からも丸見えになってしまっている。
そこは“実験動物”を閉じ込めておくための、プライバシーがない透明な牢獄だ。公務を終えたアデルが、いつも帰ってくる場所である。個室の周囲には監視カメラが配置されている。アデルの私生活は、常に人の目に触れている状況だ。着替えも、入浴も、常にどこかから、誰かに見られているのだろう。かれこれ半年近く、こうした生活をしているのに、いまだに羞恥心というものは拭えない。服を脱いだりする時、アデルはなるべくカメラに映らないよう、身を隠すようにして生活をしていた。
思えば奇妙なものである。
かつてのアデルであれば、他人に肌を見られることを、恥ずかしいことだとは思わなかった。人間の羞恥の気持ちなど、理解できるはずなかったというのに。大切な彼と過ごした夜以来、他人に自分の姿を見られることが恥ずかしいと、強く思うようになってしまったのだ。今ではすっかりと、アデルは羞恥という人の感情を理解できている。
「……ただいま」
いつも通りに、アデルは虚しい挨拶を口にした。
誰も返事をしないことはわかっている。それでもいつか、自分の味方になってくれる誰かが。もしかしたら彼が、返事をしてくれる日がくるかもしれない。現実味のない希望に縋ることだけが、今のアデルにとっての心の支えなのだ。
「…………本当は、すごく怖いんです。ケイ」
思わず涙が溢れそうになり、顔を覆う。
信頼している部下や、友人たちから隔離され、ずっと孤独に公務をこなす日々だ。誰にも気を許すことができず、まるでアデルは、世界で独りぼっちになってしまったように感じていた。怯える子羊のように、アデルは小さな肩を震わせ続けた。
「助けて……」
スカートの生地を、ギュッと固く握りしめた。
◇◇◇
会議室の窓からは、アルトローゼ王宮の美しい庭園が一望できた。色とりどりの花が咲き乱れる景色を、堪能するように目を細めていた。
長い黒髪を結い上げた、緑眼の壮年男。細面の表情には、いつも穏やかな笑みを湛えている。黒いネクタイに、黒い喪服の礼装。腰には日本刀を帯刀していた。
剣聖サイラス・シュバルツは、王に離反した臣下たちの手引きにより、王宮へ住み着いていた。無論のことながら、事情を知らない議員たちや、四条院の関係者からは身を隠している。それでも王宮は広いため、堂々と歩き回れるエリアも存在するのだ。この会議室は、剣聖の生活圏内にある。
「アデル王の結婚式まで、ついに残すところ1週間ほどだ」
言いながら、サイラスは円卓のデスクに向き直り、革張りの椅子へ腰を下ろす。部屋に集まっているのは、裏切り者の議員たち。そして出入り口の扉の前には、サイラスが呼び出した少女が1人、立っている。王直属の護衛である機人族の少女。リーゼ・ベレッタだ。
緊張して表情を強ばらせているリーゼに対して、サイラスは言った。
「今日まで従順に、私の指示に従ってくれて感謝している。だが最近は、仲間うちで結託して、何やら陰でコソコソ動いている様子だと報告を受けていてね。そこで改めて、君たちの置かれている立場について、忠告しておきたいと思い、わざわざ呼ばせてもらった」
リーゼは悔しそうに、表情を険しくして応えた。
「言われなくても、私たちの立場についてはよくわかってる。この王国には今、あなたを止められる人なんていない。力尽くでこられたら私たちは敵わないし、逆らうことはできない。しかも王に離反した組じゃない私たちは、常にあなたの仲間たちから監視されてるじゃない。なにか誤解してるようだけど、仲間うちで結託することなんて、できるわけがない」
「フム。一理ある応えだ。だが君は機人だ。異能装具など、人間社会にはない便利な道具を作れる、手先の器用な種族だったはずだ。何か我々の知らない装置で、仲間と連絡を取り合っていないとも限らないだろう」
「そんな便利な道具があるなら、とっくに使ってる。悔しいけど、持っていないわ」
リーゼは即答する。
それを聞いて、剣聖はしばらく黙り込んだ。
「……君は、今の帝国の世をどう見る?」
唐突に奇妙なことを尋ねられ、リーゼは眉をひそめた。
構わず、剣聖は言った。
「富みすぎた、ごく一部の資産家たちが企業国王を名乗り、金の力で世界を牛耳っている。金さえあればあらゆる欲望が叶い、金さえあれば、誰をどれほど傷つけても許される。それゆえに金を稼ぐことだけが人々の生きる意味と化した、腐りきった社会だ。我々は、そうした帝国の世に反意を持つ者。このアルトローゼ王国という、金以外の価値で人々が調和した国家に希望を見た者なのだ。それは君たちも同じはずだろう」
「……」
「だから誤解しないで欲しい。元より我々は敵ではないのだ。同じように帝国の世が変わるべきだと考える、同士と呼んで差し支えない。君たちの王であり、君にとっては友人でもあるアデル王への扱いについて、不服に感じていることはわかっている。だが全ては、より良き世のため、やむをえないことをしているに過ぎない」
自分は敵ではない。
だから敵視するのをやめろ。
そう言いたいのだろう。
告げてくる剣聖の眼差しは、真剣だった。
「話は以上だ。職務に戻ってくれて構わない」
剣聖が語り終わると、会議室の前に立っていた歩哨が扉を開けてくれた。まるで囚人のように、促されるようにして、リーゼは部屋を後にする。通路を歩きながら、その胸中は複雑だった。
◇◇◇
自室に戻り、浴室へ向かう。
蛇口をひねり、シャワーノズルから湯を出した。
しかし、そのまま入浴するつもりはない。
必要なのは、シャワーの音だけだ。
それで、室内に仕掛けられているであろう盗聴器を、ある程度なら誤魔化せる。
「さてと……」
アルトローゼ王国騎士団長、レイヴンは、手のひらに貼られた透明なフィルムを見下ろした。いつもながら、間抜けな絵面になってしまうのは気になったが、その手のひらに向かって話しかける。
「聞こえてるか、リーゼ」
呼びかけの後。しばらくして、フィルムにリーゼの顔が映し出された。彼女の返事が返ってくる。
「聞こえてるよ」
盗聴されているであろうAIV通信を使わず、直接会わなくても、通話ができる。以前、リーゼと会った時に手渡された透明フィルムは、リーゼが造った簡易的な映像通信装置らしい。機人族であるリーゼは、発話せずに黙っていても、無線信号で音声情報を送れば、いつでも通話可能なようだ。だが人間であるレイヴンの側は、どうしても声を発して話す必要がある。そのためこうして、レイヴンが1人になったタイミングでなければ、使えない会話手段だ。
それでも今は、これが唯一、リーゼとレイヴンが自由に話ができる方法なのだ。不便でも我慢するしかない。レイヴンは心底から面倒そうに、溜息を吐き出してから言った。
「ったく。どこもかしこも監視の目。俺たちがお互いに会って、話しでもしていようもんなら、すぐに怪しまれて密告されちまう。息苦しい職場になっちまったねえ」
「そのことで、ついさっき剣聖から呼び出されていたところだよ。ちょっとでも疑わしいと思われたら、すぐに疑いの目を向けられる。もっと気をつけないといけないね」
「つっても、いつも気をつけてるつもりなんだけどな。いったい何を怪しまれたんだか……。それで、うまく誤魔化せたのか?」
「まあね。ちょっと苦しい逃げ方だったけど」
「とりあえず、このやり取りがバレてないなら上等だろ」
リーゼはレイヴンへ尋ねた。
「それで。わざわざ話しかけてきたってことは、何か新たに情報が得られたってこと?」
「まあな」
察しが良いリーゼに、レイヴンは苦笑して応えた。
「リーゼも気付いてると思うが、どうにもアデルちゃんの結婚式に向けて、剣聖や裏切り者の議員連中の様子が、せわしなくなってやがる。何かコトを起こすつもりかもしれないって、やたらと匂い立ってるよな」
「それは間違いないと思う。今日も剣聖は、結婚式のことを気にしてるみたいだったし」
「さっき、子飼いの諜報員から報告を受けた。その情報を鑑みれば、だ。いよいよもって、間違いなさそうだぜ……。あの剣聖様は、どうやら本気で、企業国王たちを“殺る”つもりのようだ」
「……シャレになってないね」
リーゼは、素直に感想を口にした。
だがここ最近、その可能性をずっと考えていた。
レイヴンが口にする途方もない話を聞いても、いまさら驚きは少ない。
「2年前のエヴァノフ戦で何が起きたのか、私たちの側に協力していた剣聖なら、もちろん知っていることだったんだよ。アデルには、企業国王の力、つまりは真王から与えられた王冠の異能を“押さえ込む”こともきるって」
「だろうな」
レイヴンは、リーゼの意見を肯定した。
「王冠の力さえ封じ込めることができれば、企業国王ってのは、それほどには脅威的な相手じゃなくなる。だからと言って、簡単に殺せるわけじゃないが……剣聖くらいの使い手にもなれば、ほんの一瞬さえあれば、企業国王全員の首を飛ばすことくらい、造作もないんだろうよ。式の前か、後なのか。はたまた大胆不敵に式の当日なのか。タイミングはわからないが、アデルの式には、ヤツの標的全員が一同に集まるんだ。仕掛ける可能性は高い」
「派手な暗殺計画。そんなことが、本当にできると思う?」
「さてな。ただ、剣聖は大真面目に“世直し”を考えてるんだろうってことくらい、わかるぜ。自身が画策しているテロ計画に、アデルちゃんの力を利用するつもりなのも、間違いないと見るね」
言いながら、レイヴンは嘆息する。
「しっかし、思いのほか青臭いオッサンだよな、剣聖ってのは。理想主義者ってやつか? 企業国王たちを殺すことで、帝国統治の体制を破壊する。そうして自分が、帝国の新たな皇帝にでもなるつもりってかよ? 動機はハッキリしないが、最初からこれが目的で、こうしてアルトローゼ王国を乗っ取ったのは間違いなさそうだぞ」
王国を乗っ取られた。
それは紛れもない現実である。
表向きは、これまで通りにアデルが国王として国を統治しているように見せかけている。メディアにアデルを露出させ、婚約者の四条院アキラと会うことも許している。政治機能も、アデルに離反した議員たちがうまく立ち回って継続させているのだ。国民の誰もが、アルトローゼ王宮で起きている事変について知らずにいるのは無理もない。
実際のアデルは、軟禁状態だ。公務以外の時間は、ずっと地下施設に閉じ込められていて自由がない。リーゼやレイヴンですら、今ではアデルに、自由に会うことを許されていないのである。広い王宮の中で、アデルはずっと孤立させられているのだ。だからこそ、心配が募るばかりだ。
「剣聖はアデルを前線に立たせるつもりだってことでしょう? 企業国王たちを暗殺しようとする、この上なく危険な場所に」
アデルのことを憂いながら、リーゼは険しい顔をする。
「あの子は優しすぎるから……逆らえば、私たちや国民に危害を加えられると脅されて、ずっと剣聖の言いなりになってる。剣聖のテロ計画がどれだけ危険なのか、わかっていても、このままじゃきっとアデルは、協力してしまうよ」
レイヴンはボリボリと頭を掻きながら、続けた。
「アデルちゃんには今、色んな危険が降りかかってる。剣聖のテロ計画も懸案事項の1つだが、まずいのはそれだけじゃないぜ。剣聖を含め、王国を裏切った議員たちにとってのアデルちゃんの価値は“支配権限の無効化”能力だろ。その力の仕組みを解析し、自分たちでも使えるように、ああやって地下で、アデルちゃんの身体をいじくり回して、研究しているんだ」
リーゼは憤る。
「そのことも、許せないよ! あんなふうにアデルを閉じ込めて、まるで実験動物みたいに扱って……!」
「聞いた話じゃあ……。もうすぐアデルちゃんの“交配実験”を始めるらしいぜ」
「!?」
「アデルちゃんに子供を産ませて、あの特殊な能力が遺伝するのか。遺伝するとしたなら、その仕組みはどうなっているのか。それを調べるためだとか。都合よく、四条院アキラとの結婚が行われるわけだし。2人には早々に子を作らせ、その子を研究の材料として利用するつもりだとよ」
「そんなの絶対にダメ! せめて、好きな人との子供ならともかく……誰かの思惑で出産させられるなんて、アデルがかわいそうすぎる……!」
「望まぬ結婚。望まぬ出産。そんなの、どこの企業国でもよく見る、政略結婚の様式美だと思うがな」
「他人事みたいに言わないで! レイヴンは、アデルを守る王国騎士団長でしょう!?」
正論を言われ、レイヴンは思わず押し黙る。どう答えたものかと、少し頭を悩ませてから、ばつが悪そうに言った。
「そうは言われてもねえ……。知っての通り、こっちはあの剣聖様に睨まれ続けてるんだぜ? あのデタラメ最強オヤジを黙らせられるような戦力があるなら、とっくに返り討ちにして、この王宮から追い出してるだろ。ぶっちゃけ、俺たち騎士団が束になっても、あのオヤジを撃退するなんて不可能だ」
「レイヴン!」
「へいへい。現実主義者の面白くねえ話は、やめますよ」
不快そうな態度のリーゼを見て、レイヴンは早々に話題を変えようとする。
「遅かれ早かれ……剣聖にとって、アデルちゃんは用済みになる。そうなったら、アルトローゼ王国はおしまい。まずは、目の前のテロ計画の成否が気になるところだが、たとえそれが成功して、運良く俺たちが生き延びられたとしてもだ。このまま、黙って見過ごしておけば、未来はないと見るね」
「……」
レイヴンの見解は、おそらく間違っていない。たとえ剣聖がテロ計画を目論んでいなくても、時間が経てば経つほどに、アルトローゼ王国の行き先は、崩壊へと向かうだろう。アデルの異能の力。それによって、帝国の世でかろうじて存在を成立させている王国なのだ。アデルの力の解析が進み、アデルから希少性が失われてしまえば、おしまいだ。
リーゼは口を噤んだ。
このまま状況を看過しているわけにはいかない。だが、どうすれば剣聖を王国から撤退させ、アデルを王座へ戻すことができるのか。方法が思いつかずにいる。しかも危険なテロ計画にアデルが巻き込まれることを勘案すれば、残された時間は、結婚式までの1週間程度。ほんの僅かだ。
自分の力量が剣聖に及ばないことを、これだけ悔しいと感じたことはない。リーゼは歯噛みする。自身の力が足りないのなら、誰かの力を頼るしかない状況だろう。だが果たして今、そんな味方が身近にいるのか。せめて剣聖に対抗し得る存在である、雨宮ケイがこの場にいたなら、状況は違っていたかもしれない。だが、ないものねだりをしても仕方ない。
「誰か、私たちに力を貸してくれそうな人はいないのかな……。たとえばテロ計画を、企業国王たち本人に教えて、剣聖の目論見を事前に潰すことだって、できるはずだよね。しかも式場があるカリフォルニア白石塔の新しい防衛司令官は、あの勇者たちだって言うし。他国になら、剣聖に対抗できそうな勢力はあるよ」
レイヴンは険しい表情をする。
「他国の力に頼るってのは、お勧めできない案だねえ。たしかにそれをやれば、剣聖のテロ計画をぶっ潰して、ヤツをあの世へ送ることはできるかもしれない。けど他国からすれば、俺たちが自力で剣聖と戦わなかった理由がわからないはずだ。長い目で見れば、アルトローゼ王国の抑止力である“雨宮ケイが不在”なことが、他国にバレる可能性が高い。そうすりゃ今度は、ここへ攻め入ってくる企業国が出現しかねないよ。他国に頼るってのは、新たな危機を生み出すリスクが伴う。危機の先送りにしかならないんだよ」
「じゃあ……自国内で何とかするしかないって言うこと?」
「自分たちの国を、自力で守れない。そんな弱さを見せるわけにはいかないってこと。特に、俺たちの王国はな。それが理想ではあるんだが。まあ、他に方法がないなら、他国を当てにする案も、検討が必要かもな」
もしも今、身近に頼れる人物がいるとしたなら。
剣聖の勢力とは関係がなく、王国に敵対的でない人物が好ましい。
そして、真剣にアデルの力になってくれるであろう人物。
懸命に考えた結果、ある1つの名が、リーゼの口からこぼれた。
「……たとえば、四条院アキラとか?」
それは賭けに近い名前だった。