0-4 【回想】月下の狂人
満月の夜。
草木が寝静まり、虫の音だけが聞こえている。
人里離れた山奥へと続く道路。薄いガードレールの向こうは、奈落へ続く崖になっていた。そこは車が1台通れるかどうか、それほどの細い道である。街灯の1つさえなく、進んだ先でUターンができるかもわからないため、車が通ることはない。わざわざ歩いてやってくる、近隣住民もいないだろう。
そんな細い道を進み続けた先。
視界を塗りつぶすような漆黒の闇の中を、1人の少年が歩いていた。
懐中電灯の僅かな光が照らす道先。そこへ唐突に、トンネルが姿を現す。
その古びたトンネルは、近代的なコンクリート製ではなかった。
岩を人力でくり抜いて造った、まるで手彫りの洞穴と呼べる場所だ。
大きく立派なトンネルだが、こんな道を通る車など存在していない。
「……着いたな」
そう呟く少年の胸ポケットには、スマートフォンが入っている。
天辺から生え出た赤花は、機械の合成音声で応えた。
『旧伊那山トンネル――落石事故で、20年前に閉鎖されたというネットの情報です』
「やるな、アデル。マイナーだけどヤバい場所を見つける、お前のリサーチ能力はピカイチだ」
少年はトンネルの向こうを、懐中電灯で照らそうとする。
だが最奥は黒い闇の塊に埋もれており、反対側の出口など、見えはしなかった。落石事故が起きたというのだから、途中で岩に埋もれているのだろう。だがそれにしても、事故現場は、トンネルのかなり奥の方だと思われた。手持ちの明かりで照らしている限りでは、それなりに奥まで入っていくことができそうで、長く続いている様子だ。
まるで異世界へ通じていそうな、異様な雰囲気を醸すトンネルである。
「予想通り。たぶんここ……いるな」
トンネルの奥に潜む、何かの気配。少年は、それを感じ取っていた。
世間一般で言う、いわゆる霊感と呼べるものなのだろうか。
人ではない何かの存在に対して、少年は敏感である。
「…………」
黙って静かに、トンネル内へ足を踏み入れた。
内部に入ると、天井から水漏れしていることがわかった。ピチャピチャと、あちこちから水滴の垂れる音が聞こえている。その音が内部に反響し、足音とも物音とも付かない、不気味な音を発生させていた。地面は湿気っており、時折、水たまりを踏むこともあった。
しばらく進んだ先で、少年は足を止める。
懐中電灯で照らす先の暗がり。そこに、脈絡無く佇む人影が見えた。
長い髪を垂らした、白い服のみすぼらしい女。
全国各地の怪談によく登場する、定番の見た目をしていた。
こんな時間に、こんな場所にいる。
どう考えても一般人ではない。超常的な存在であることは明白だった。
普通の人間であれば、その姿を目にした途端に逃げ出すところだろう。
だが少年は――不敵な笑みを浮かべた。
「…………………見つけた」
懐から、ナイフを取り出す。
それを手に、白い女に向かって駆け出していく。
自分と遭遇した人間が、立ち向かってくることなど想定していなかったのだろう。
白い女は、呆気にとられたのか、その場で不動である。
少年は、白い女の胸元をナイフで突き刺そうとする。
だがその突き出したナイフは、腕ごと白い女の胸を貫通してしまう。
「!」
まるで霧を刺したように、手応えがない。
女には実体がないようだった。
攻撃を仕掛けてきた少年に怒りを覚えたのだろう。
白い女は、少年の間近まで顔を近づけ、脅かすように覗き込んできた。
その痩せこけた青白い顔には、目玉がない。目と口があるはずの場所には、真っ黒い虚ろな穴が開いているのみだ。その顔を見ただけで、一般人は背筋を凍らせ、悲鳴を上げて逃げ帰るはずだった。だがやはり少年は――狂喜の笑みを浮かべるだけだ。
「ステンレス製の刃はダメか。ならこっちはどうだ?」
手にしていたナイフを捨て、別の新たなナイフを取り出す。
そのナイフで、少年は白い女の喉元を切りつけた。
「!?」
実体のない白い女の喉元に、横一文字の裂傷が生じる。
そこから黒い霧のような血しぶきをほとばしらせ、声にならない悲鳴を上げてのたうち回り始めた。悶え苦しむ白い女を見下ろし、少年は興味深そうに観察し続けていた。
「へえ。銀には弱いのか。怪物に有効だって伝承も、あながち嘘っぱちじゃないみたいだ」
白い女は、少年から逃げ出そうとする。
女の身体は浮遊しており、すごい速度でトンネルの入り口方向へ向かって飛び去っていく。対峙している相手が、自分に恐れおののく者ではなく、捕食者であることを理解したのだ。
少年は、無論その白い女の後を追いかける。
「お前は、いわゆる悪霊ってやつか? 地縛霊? 何でも良いが――――もっと色々試させてくれ」
逃げる女の背に向かって、少年は持ってきていた塩の小瓶を投げつけた。フタの開いたビンから、食塩がばらまかれ、それが女の頭から降りかかる。だが塩は女の身体を素通りし、大したダメージを与えた様子はない。少年は肩透かしを受けた気分だった。
「塩なんて、やっぱり効くわけないよな」
トンネルの外まできた白い女は、そこで止まる。
見る見る間に姿が透明化していき、虚空に消えようとしている様子だった。
逃亡する寸前のようだ。
だが逃さず、少年はその背に思い切り銀のナイフを突き立てた。
「?!!」
女はその場に倒れ、悶え苦しむ。
少年はその女に向かって、何度も何度もナイフを突き刺し始めた。
「お前たちみたいなのが…………」
少年は、怒気を含んだ言葉を呟いていた。
「オレの…………」
その表情から笑みは消えており、憎しみに駆られた獣の眼光だけが覗いている。
「姉さんや、親父を…………!」
何度刺したのかわからない。女はいつしか動かなくなっており、身体中から黒い霧のような血しぶきを吹き出していた。血のようなものが出尽くし、出涸らしになっていく。白い女の姿は、虚空へ霧散して解けていった。
おそらく――――“殺した”のだろう。
少年は、空に浮かぶ月を見上げた。
トンネル周辺は、木々が開けている。月明かりは、よく届く場所だった。
月光が、黒い返り血に汚れた、少年の姿を照らし出している。
「……腕が痛いな」
白い女の身体を突き抜けた腕。触れた部分は、凍傷のようになっている。
どういう理屈かは不明だが、ああした実体のない相手に触れるのは、良くなかったようだ。
今後の注意事項だろう。
『ケイ、怪我をしたのですか?』
「良いんだ」
『よくありません。早く手当することを推奨します』
胸ポケットの赤花が、主人の具合を心配していた。
「こんなの。父さんや姉さんが味わった苦しみに比べれば…………」
寂しげに細めた目で、少年は月を見上げて呟いた。
すると唐突に、拍手と声が聞こえた。
「……!」
「――――興味深いショーを拝見させてもらったよ」
いきなり現れた第三者の存在に、少年は驚愕する。
思わず銀のナイフを構え、声の聞こえた方角を注視した。
そこに立っていたのは、奇妙な人物だった。
金髪のショートヘア。透き通るような碧眼の女だ。
首には十字架のネックレスをしている。信心深いのだろうか。
「…………お前は誰だ」
「こんな時間に。こんな場所へ。自分以外に来るような、頭のおかしなヤツはいない。そう考えているのかい? 残念だがこの通り、他にも“同類”はいるようだね」
少女は、皮肉っぽく肩をすくめて見せた。
「何てことはない。偶然近くを通りかかった時、この辺鄙な場所へ1人で向かっていく君を見かけたんでね。いったい何をしようとしているのか。面白そうだったから、こっそり後を付けてきたのさ。予感は的中だったよ。いやいや、今の、白い女のような怪物が、この世に実在していたなんてね。しかも、それを“殺す”ようなイカレたヤツまで、いるときている」
少女は少年に歩み寄り、品定めするよう、顔を覗き込んできた。
月明かりに照らされた美しい顔は、やがて妖美な笑みを浮かべて告げる。
「気に入ったよ。君はずいぶんと狂っていて、面白そうなヤツだ」