10-55 防衛総司令官
壁に掛けたシャワーノズルから、熱い湯が糸のように注ぐ。
長い金髪を掻き上げ、頭からそれを浴びた。
女性としては起伏の少ない、スレンダーな四肢。谷間のない薄い胸の上を、あたたかい液が流れ落ちていく。肌が暖まり、ヌメリが洗い流されていく感触が、心地よかった。
湯船に浸かることはせず、シャワーだけを浴びて浴室から出る。バスタオルを身体に巻き、鏡の前に立つ湯上がりの自分と向かい合った。タオルの端で、髪の水分を吸わせ、髪を乾かしながら、イリアはAIVを瞳に付ける。そうして、メールの確認を始めた。
ここ最近の間、長らく待っている返信は見当たらなかった。
「……やはり、妙だな」
鏡の前で、湿った髪を掻き上げる自分の姿を見つめ、イリアは呟いた。
「ジェシカと連絡が取れなくなって、もう2週間以上が経つ。普段から、遺跡調査や学会参加で出張の多い彼女だから、メッセージの返信が遅れるのはよくあることだけど……いつもなら、メールの返信書くのがめんどいとか、一言くらいは返してくれるものなんだが。学院へ問い合わせても、そうした予定はないみたいだし、だとしたら、いったいどうしているんだ?」
髪の水分をある程度、タオルで吸ってから、ドライヤーで頭を乾かした。普段からあまり、髪や肌の手入れを気にしていない。あれこれとケアしなくても、自然と美しくまとまるのがイリアである。そうでない女性たちからすると、妬ましいことだろうが、他人の評判など気にしないのもまた、イリアなのだ。
バスタオル姿のまま、寝室へ戻る。ベッドの上に腰掛け、高級ホテルの最上階の景色を眺めた。
カリフォルニア州サンノゼの、青空を背負ったビルディングを見渡しながらも、心は晴れない。ジェシカのことが気になっているからだ。
連絡が取れなくなったのは、2人でケインの素性を明らかにしようと、話し合ってからすぐのことだ。その特異な背景事情とタイミングからしても、イヤな予感がしてしまう。もしかしたら、ケインのことを探る上で、何か予期せぬトラブルに巻き込まれたのではないかという予感だ。
シュバルツ家が関係しているのだから、冗談にならない。
胸中に芽生える一抹の不安で、イリアは表情を暗くしていた。AIVの通話機能を立ち上げて、もう何度目かもわからない電話を、ジェシカにかけた。
いつもの通りの不在応答。
すぐに留守電モードへ入る。
「……ジェシカ。何度も連絡してすまない。この留守電を聞いたら、すぐに連絡をくれないかい? コッチは、例の彼の過去について、本人から色々と興味深い話を聞かせてもらえたよ。そっちも調査していることがあるだろうし、直接会って、情報交換がしたい。……君の無事な顔を見たいしね。よろしく頼むよ」
通話モードを終了し、AIVのホログラム画面を視界の隅に引っ込める。そうして1つ、深い溜息を漏らした。
雨宮ケイにそっくりな男、ケイン・トラヴァース。その過去をネットで探ることはできなかったため、直接、本人から聞き出した。それもすでに、2週間以上も前の話になっている。情報の鮮度は日々、低下していくばかりだ。2週間もあれば、ジェシカの方はもっと核心に触れる情報を拾っているかもしれないだろう。
雨宮ケイと、ケイン・トラヴァースの関係について。
そんなものは、はじめからないのかもしれない。だが、ないならないで、早くハッキリさせておきたいのだ。同一人物なのではないかと見紛うほどに、ケインの姿や振る舞いは、雨宮ケイそのものに見えてしまうのだ。最近、ケインと顔を会わせるたびに、実のところイリアも、戸惑ってしまっている。
認めたくはないことだが……。
また昔のように、胸がドキドキしてしまうのだ。
「違う。雨宮くんはただの友人であって、ボクは彼のことを、そんなふうに思ったことなんて……」
1人で言い訳を口にしながらも、否定の言葉を口に出せずにいる。
唇を固く引き結び、勝手に熱くなってしまう頬に、腹が立った。
火照った身体を冷ましたくて、イリアは冷たい風が出るエアコンの下に佇む。
そうしてしばらく、素肌で冷風を浴びて楽しんだ。
「……ん?」
視界の隅に追いやっていたAIVのホログラム表示が、着信の通知を出してきている。それに気付いたイリアは、驚いて身を乗り出した。
「ジェシカか?!」
通話主の名前をロクに確認もせずに、慌ててイリアは通話を許可した。
すると、連絡を取ってきた相手の姿が、ホログラムで目の前に現れた。
「いやあ、ハニー! 君の愛しい旦那様だよ! おー、バスタオル1枚。セクシーだね。これは昼間から、眼福、眼福だ」
ブラウンのセミロング。翡翠色の瞳。ピアスをした、整った美形の青年だ。フォーマルなスーツとネクタイ姿が似合っていて、ファッションモデルや、映画俳優のような雰囲気だ。見るからにプレイボーイのその男の顔を見て、イリアは大きな溜息を吐き出した。
「……なんだ、クリスか」
「なんだとはつれない返事だね。かれこれ半年近くも会えていない、夫じゃないか。君の方はどうだか知らないが、俺は毎晩、とても寂しいと思ってるんだぞ?」
イリアの伴侶の男。
クリス・レインバラードである。
「直接会ってはいないだけで、この半年間、頻繁に、こうしてホログラム通話して顔を会わせているじゃないか」
「会話はできても、傍にいないと色々といやらしいことができないだろう!」
「……君というヤツは、相変わらず……」
イリアは、屋内、屋外でやらされたあれこれ思い出してしまい、思わず赤面してしまう。恥ずかしがっている妻を見て、クリスはニヤニヤと楽しんでいる様子だった。結婚してから2年経っても、いまだに初々しいイリアの反応を堪能してから、咳払いをして話を続けた。
「コホン。まあ、わかってはいたことだが、次期レインバラード家の当主にもなると、俺はこうして、仕事で統治領内からなかなか出させてもらえないんだ。それなのにだ。俺の奥さんはキャリアウーマンで、やり手の死の商人だ。年中、ひっきりなしにアークのあちこちを飛び回っておられる。誇らしいことだけど、なかなか一緒にいられないだろう? 現にこの2年間、君は僕から逃げ回っているし。寂しいなあと思っていたところさ」
「別に逃げ回ってなんていないだろう。単純に、ボクの仕事が忙しくて会えないだけだよ」
「どうかな。これまで、色々といやらしいことはさせてもらったが、まだ肝心の“最後まで”は、1度もさせてもらえていないぜ?」
「……」
「君にはまだ、俺以外のところに心残りがある。だからきっと、俺の傍にいられないのさ」
クリスの言うことが正しいのか。
実のところイリアは、自分の本当の気持ちが、よくわかっていない。
クリスのことを嫌っているわけではない。むしろ好感を持ってさえいる。だがまだ、クリスが自分の夫であるのだと、認められていない気がしていた。結婚してから1度も、イリアはクリスに抱かれたことがない。その分、それ以外のイヤらしいことをあれこれさせられているため、何もしていないわけではないが……。妻を抱けないというのは、夫であるクリスにとっては、おそらく屈辱的なことである。そのはずなのに、それでもクリスはイリアを許し、変わらず愛してくれているのだ。
本物の愛というものを、イリアは知らない。
だがクリスの想いは、それに近いものなはずだ。
「やれやれ。イリアは誰にも負けない、人並み外れた狂気と知略を持っているのに、この手の男女の機微に関しては本当、小学生並みに稚拙で、お子様なんだよな。ちょっと手を繋いだだけで真っ赤になるんだから。結婚する前は、ここまでウブとは思ってなかったよ。まさか俺意外との異性経験がないなんて、誰が予想したのさ」
「くっ……! 悪かったな、今まで男性経験がなくて! ボクの人生に、恋愛なんて必要なかっただけさ!」
「フッフ。ムキになりなさるな。安心しなさい。そのために、夫である経験豊富なこの俺が、エスコートし、入念に開発してさしあげているのだ」
言い返せずに、イリアは口を噤む。
恥ずかしくて、顔は火がついたように熱くなる。
クリスは真顔で言った。
「結婚してから2年だ。そろそろわかってくれてると思うが、俺は君のことを本気で愛している。だからこそ、君の気持ちの整理がつくまでは、遠慮しているんだぜ? 俺って、紳士だからさ。その間こっちは、ずっとお預けをくらってるんだ。最高に美しい妻を目の前にして、ずっとね。お互いにそろそろ、後継ぎを作らないといけないし。早く俺が夫なんだって、認めて欲しいね」
「……わかってる」
どうやらクリスは、イリアの葛藤などお見通しの様子だった。本来、他人を意のままにするのはイリアの得意技であるのに、夫婦関係については、クリスにマウントを取られてしまう。悔しいのと、申し訳ないのとで、イリアは複雑な気分だった。
これ以上、自分たち夫婦の関係について話を続けたくなかった。
話題を変えるべく、イリアは、わざとらしい咳払いをして言った。
「それより、今日は何の用事だい? いつも昼間は忙しい君が、日も沈まないうちに連絡してくるなんて、珍しいじゃないか」
ホログラムのクリスは、思い出して手を打って見せた。
「ああ。そうそう、肝心な話がまだだったな。痴話話にかまけて、すっかり忘れるところだった。今日は報告しておきたいことがあってね。さっき正式に任命されたばかりだから、まずは妻に報告しておきたくてさ」
「任命された?」
「ああ。少し前から打診はもらっていたんだけど、アルテミア・グレイン様から直々の任命だ。断ることは、できなくてさあ」
クリスは髪を掻き上げ、美しい歯を覗かせて微笑んで見せた。
「アデル・アルトローゼの結婚式。その会場の地となる、カリフォルニア白石塔の首都防衛総司令官に着任するよ」
「……!」
防衛総司令官。
通常であればその役職は、帝国騎士団の騎士団長が担うはずである。
それを、騎士団以外の人員から選出するというのは、おそらく異例だ。
「まあ、たいそうな肩書きをもらってるわけだけど、実際のところ、会場地域の警備とかの段取りは、すでにグレイン騎士団が何ヶ月も前から準備してるし、今さら俺が出て行ってやることなんてないんだけどさ。懸念されているのは、式の当日に、お尋ね者になっている“剣聖”殿が、顔を出してきやしないかってとこさ。あんなのが出てきたら、騎士団じゃ到底、太刀打ちできやしない」
「……そこで“勇者”の力が当てにされてるわけか」
「そういうこと。総司令官というのは見せかけで、実際のところは、用心棒をやって欲しいんだろ」
クリスはいまだ“勇者”の名で知られた、凄腕の有名人なのである。今は領主になるべく、勇者としての放浪の旅は引退しているが、そうしたことで実力が衰えているわけではない。グレイン企業国の王である、アルテミア・グレインに、その腕を買われているというこだ。その実力は、現騎士団長よりも高いのだと、見なしているという証左でもある。
クリスもわかっているのだろう。
それでも謙遜しながら続けた。
「でもまあ、俺だって単独じゃ、あのサイラス・シュバルツを相手にするのはキツい。だから久しぶりに、勇者の旅時代の仲間たちにも、声がけされてる。専門家協会所属のエリオットと、ロゴス聖団所属のローラ。企業国王の集いの警護なんて、やる義務はないのに、快く協力してくれることになったよ。俺を含め全員、シュバルツ流で言えば、第1階梯に近い実力をもつ、第2階梯の3人組さ。それが会場警備をやっていれば、多少は安全ってことなんだと思うよ」
「……やはりアデルの結婚式は、反帝国の不穏分子たちから、テロの標的にされる可能性があるということかい?」
「可能性が高いという、情報部の分析結果だよ。まあ、アーク全土から選りすぐりの嫌われ者な王様たちが集まる場になるんだ。深い恨みを抱いている、ならず者たちなら、まず見逃さないだろうね」
いつもの軽い態度で、ヘラヘラと笑んで言うクリス。
イリアは、少し心配になった。
「……危険な任務じゃないのかい? 大丈夫なのか……?」
「心配してくれているの? 優しい奥さんで、嬉しいなあ」
クリスは本当に、嬉しそうな顔をする。
「君も今は、カリフォルニア白石塔に滞在中なんだろう? なら俺にとってそこは、命をかけて守る価値がある街だ。何が起きようと、誰にも君を傷つけさせたりなんてしない。俺のことなら平気さ。安心してくれ」
少し照れ笑いながら、クリスは断言した。
そう言われてしまうと、なんだかイリアも照れくさくて、頬を赤くしてしまう。
「そっちに着任するのは、3日後くらいだ。そうしたら、たまには一緒に食事でもどうだろう」
「わかった。秘書に言って、予定を空けさせておくよ」
「半年ぶりに、君に触れられることを、楽しみにしている」
「……バカ」
イリアの罵倒を聞いて、クリスは笑顔で通話を終えた。
なんだかどっと疲れてしまって、イリアはベッドの上に倒れ込んだ。
「……少しダルいな。午後のスケジュールをキャンセルさせて、もう休もうか」
イリアはまた、ホログラムの着信通知が増えていることに気が付いた。
どうやら、クリスと話している間にメールデータを受信していたようだ。
「おや。今度こそジェシカの返事かな?」
身を起こして、イリアはメールデータを開封する。その中身に目を落とし、文字を読むと、素直に驚いてしまう。
「これはまた…………ずいぶん珍しい、意外な人物からの連絡だね」
捨てアカウントを作り、偽名を使っている。
だがメールには、イリアにしか理解できない文脈がある。
それを見れば、イリアにだけ、自分の正体を理解してもらえると考えたに違いない。
「拝啓。服毒自殺薬の味を知る同士へ、か。佐渡先生の、あのクスリのことだね。ずいぶん懐かしい話だよ」
差出人は、かつて東京でともに行動をしていた、オカルト研究部員の少年だった。
お知らせしていました通り、作者が転職に伴う引越をするため、
またしばらく休載させていただきます。予定では3weekほど休載予定。
引越の進捗次第ではありますが、なるべく早く、連載再開したいと思います。
楽しみにしていただいている皆さんには申し訳ありませんが、ご容赦お願いします。
早く、新しい職場での生活環境を確立させたいところです。