10-51 前任者
ジェシカが館の底に開けた大穴から、一同は落下した。
理外現象が起きている、付近一帯の重力異常の影響により、天地が逆さまになって建てられた館。そこから脱出するために、空へ向かって落ちるという奇妙な経験をすることになった。ある程度落ちたところで、重力異常地帯を抜け、天地の向きが再び正常に戻った。そこから後は、リンネの魔術によって理外現象地帯を抜けることに成功する。
館へ来るために、エリーが乗ってきた雪上車があった。それに乗って移動すれば、ひとまず悪異自然帯を抜けて、近隣の町まで行くことができるだろう。手負いのエリーや、エマと雨宮ケイに付きっきりのジェシカに代わり、ひとまずはアイゼンによる飲酒運転だ。
ネロ・カトラスの追撃は、今のところない。
空が暗転し、いつしか雪が降り始めた。窓に貼り付いてくる雪をワイパーで払いのけ、ハンドルを握りながらアイゼンが尋ねる。
「置いてきて良かったのか? あのメイドをふん縛って、捕虜にすることもできただろ」
車に備え付けられた医薬品で応急手当を終えたエリーは、助手席に座り、車両前方の闇を見つめていた。何か考え事をしていたのだろう。少しボーッとしていたが、間を置いてから答えた。
「アイゼン様ほどの腕前があるならともかく。私やジェシカにとって、ネロさんは格上。自分よりも力量のある人間を拘束して捕らえておくことは、戦うよりも難しいことです。これから北方を抜けるまでの間、何日か潜伏しなければならないことを考えると、現実的ではありません。連れてくるのは、リスクでしかあませんでしたから」
「身の程はわきまえているってか? なら、せめて殺しておけば良かったんじゃないか? あのメイドは気絶していたんだ。簡単だったろう?」
「それも悪手です。第2階梯の使い手が殺されたとなれば、次に送り込まれてくるのは、さらに強力な刺客でしょう。追っ手が、手に負えない相手に代わるよりは、手の内がある程度わかっているネロさんの方が、制御しやすい」
「フン。色々と考えを巡らせるのが得意なようだ。その見切りの早さと判断力は、誰に似たんだかな」
「……アイゼン様は、私のことをご存じなので?」
昔から、エリーのことを知っている。
そう思わせる口ぶりが端々にあり、気になっていた。
アイゼンはつまらないことであるように、鼻を鳴らして言った。
「そりゃあ“鋼線令嬢”と言えば、有名なんだろ。そもそも、このグレイン企業国の元御三家の1つ、シュバルツ家当主の唯一の実子だ。家柄だけでも有名なのに、その上、美人だ。たしか“えすえぬえす”とかいう、ガキ共の遊び場でも人気者なんだろう? そういう世俗に俺は疎いが、前にケインも、お前の名前を口にしてたからな。ついでに言えば……俺の記憶が確かなら、お前は今、帝国に背いたお尋ね者の扱いだったはずだ」
「……」
エリーは、少し緊張した面持ちで黙り込んだ。
自分の素性を知るアイゼンを、警戒しているのだろう。
対してアイゼンは、皮肉っぽく微笑んだ。
「助手席にいるのが、アークに名を轟かす反逆者だろうが、雪山に住んでるイエティだろうが、そんなの俺にはどうだって良い。それより今、知りたいのは別のことだ」
アイゼンは視線を鋭くして、隣席のエリーを一瞥して訪ねた。
「あの研究施設は何だったんだ? そこに閉じ込められていた、ケインそっくりのガキと言い……シュバルツ家は、あそこで何をしている?」
当然の疑問だろう。そしてアイゼンは、エリーがその答えを持っていると確信している様子だ。エリーは溜息を吐いた。
「……その質問。トラヴァース家ではなく、シュバルツ家が何をしているのか尋ねてくるあたり、アイゼン様は“トラヴァース機関”の存在について、ご存じの様子」
「一を聞いて十を知るか。賢い洞察だな、シュバルツ嬢。いや、単純に俺が大雑把で読まれやすいだけの性格なせいか。その通り。昔は俺も、その手の界隈に属する人間だったのさ。シュバルツ家とトラヴァース家が、表裏一体の存在だってことは知ってる。北の領内に転がるドス黒いモノは、大抵がシュバルツ家の仕業。そうだろう?」
それを知る時点で、すでにただ者ではないのだ。第2階梯の使い手を凌駕する実力と良い、アイゼンはさぞかし名の知れた人物でないのかと、エリーは考える。少し掘り下げようとした。
「アイゼンさんは、ケイン・トラヴァースのこともご存じのようですね。……彼とは、どういったご関係でしょうか」
「ん? 言ってなかったか? そういえば、クラーク姉妹とは村で会ったことがあるから説明がいらんかったのか。お前には伝え忘れていた。一言で言えば、ケインは俺の弟子“2号”だよ」
「……!」
驚いたエリーの表情を見て、アイゼンは苦笑を浮かべる。
「そりゃあ、まったく知らなかったって顔をしているな、シュバルツ嬢。まあ、何だかんだで、大きくなってから直接に顔を合わせたことはなかったしな。そうさ。俺は、お前が考えている通りの、肩書きの男だ。そっちが俺を知らなくても、こっちはお前に会ったことがある。もうずっと昔の話だが」
「……」
「思い出話は良い。今は、グノーア村の連中から、穀潰しと呼ばれてる酒浸り中年さ。……もうジジイに片足を突っ込んでる歳かもな。今の世の中を動かしてるのは、俺の世代ではなく、お前たちなんだろう」
寂しげに、アイゼンは目を細めた。
話している2人の背後で、後部ユニットに繋がる仕切り扉が開いた。そこから顔を出したのは、血相を変えているジェシカである。
「エリー先生! エマが!」
「……!」
「話の続きは後で良い。見に行ってやりな」
ジェシカたちがエリーを頼りにしていることは、見て取れていた。アイゼンはエリーへ、エマの様子を見に行ってやるように促した。すぐに助手席から立ち上がる。
雪上車の後部ユニットには、簡易ベッドや暖房装置が付いた、生活可能スペースが設けられている。吹雪に見舞われるなどして、移動不可能になった時、短期間なら車内で生存できるようにするための設備だ。2人分の簡易寝台に、エマと、雨宮ケイが横たわっている。2人共、衣服を身につけていなかったため、雪上車に備え付けの毛布を掛けられていた。
エマの寝台の隣には、青ざめたリンネが腰掛けている。
心電図などが表示されたバイタルモニタを見ている様子だ。
「……エマちゃんの容態が、良くないです。切除された手足の断面は綺麗に外科処理されているから、感染症とかの心配はなさそうですけど……ちょっとずつ、心肺能力が弱ってきている。意識がないのは睡眠薬を投与されているからだって聞いてるけど……この様子だと、生命維持のために、他にも何か投薬されていたのかも」
背後の寝台に眠る、雨宮ケイを一瞥してから続けた。
「雨宮ケイさん……でしたっけ? こっちの人は、単純に意識がないだけの、気絶みたいな状態だけど、エマちゃんの方は、いつ容態が悪化して、取り返しが付かないことになるか。なるべく早く、しっかりした医療機関で診てもらった方が良いと思います。フヒィ……」
リンネの見解を聞いて、エリーは険し表情で黙り込む。
ジェシカは訴えるような眼差しで、そんなエリーへ提言した。
「最寄りの町に着いたら今すぐ、エマを病院へ連れて行きましょう……!」
「いいえ、それはダメです」
「エリー先生!?」
「さっき説明した通りです。私を含め、今やあなたたちも“追われる身”なのですよ?」
必死になっているジェシカの眼差しを見返すことができず。エリーは伏し目がちになりながら、残酷な現実を口にする。
「残念ながら、この北部の町の病院へ、ケイ様やエマを担ぎ込むことはできません。まだ、この近辺一帯は、トラヴァース機関が支配する地域。どこに間者が潜んでいるか、把握しきれていません。追っ手に位置を知らされれば、今度はネロさんだけでなく、大勢に襲われるかもしれません。そうなれば、非常に不利な状況へ陥るでしょう」
「なら、どうするのよ!」
「……」
明朗な答えを出せない。
ジェシカとエマの力になりたいのは山々だったが、そうできないエリー自身が歯がゆかった。拳を握り、エリーは悔しそうに唇を引き結ぶ。
「――――ようするに“北部領外の病院”なら、問題ないんだろう?」
仕切り扉越しに、アイゼンの声が聞こえた。
扉を開けると、赤毛の男の背中が見える。
エリーは怪訝な顔で応えた。
「その通りですが……。私たちは少々、派手に暴れてしまいました。おそらくですが、今頃はすでに、鉄道にも、都市間転移門にも、検問が設置されていることでしょう。そこを簡単に突破することはできません。何日かは……準備が必要です」
「いいや。1つだけ、当てはあるぞ」
「……?」
「俺の言うことを信用してくれるなら、このまま俺の家まで向かうが、構わんか?」
アイゼンは振り向かず、車両前方を見つめながら提案してくる。
「家に戻れば、ケインが使っていた服も、少しばかりなら残ってる。そのまま、クラーク妹と、ケインのそっくり小僧を、素っ裸のままにしておかなくて済むだろう。どうする?」
提案の内容は魅力的だった。
だが、ジェシカたちはアイゼンのことを、詳しく知っているわけではない。
窮地を助けてくれたことは確かだが……どこまで信用して良いのか。
「頼むわ」
それでもジェシカは言う。
アイゼンは「よし」と、一言だけ呟いてハンドルを切り始めていた。迷わずアイゼンを信じる判断をしたジェシカとは異なり、一方で、慎重なエリーとリンネは複雑そうな表情をしている。だが2人の態度などジェシカの目には入っていなかった。エマの寝台の横に腰掛け、エマの髪を優しく撫でた。
「アタシにだって、少しくらい貯金はあるんだから。高額な再生治療だって、何だって、全財産叩いてでも、必ず受けさせてあげる。臓器移植が必要なら、お姉ちゃんが何だって上げるわ。だからそれまで、絶対に死なないで頑張るのよ」
静かに涙し、ジェシカは俯いた。
「そうよ。アタシたちの友達には、大金持ちのイリアや、お姫様のアデルだっているじゃない。アンタを助けられないはずがないの。相談すれば、きっとアタシたちの力になってくれる。全部、必ず元に戻してあげるから。だからどうかお願いよ……! お姉ちゃんを、置いていかないでよ……!」
祈りが届くように、ジェシカは起きない妹の額に、自身の額を押し当てる。妹のことで胸を痛めているジェシカの背に、エリーとリンネは、かける言葉を持たなかった。
◇◇◇
悪異自然体を抜けると、天候は急激に回復していった。夜のように暗かった空が、幻であったかのように青空が見える。アイゼンの知る近道を使うことで、北方の山中を、雪上車で進むこと1日。グノーア村の傍にまで、戻ってくることができた。
村外れには、アイゼンの一軒家が建っている。
雪深い山林の中に潜む、日本家屋に似た和建築だ。
当然のように施錠されていない引き戸を開けると、アイゼンは屋内を案内してくれた。そうして、ケインが使っていた部屋から着替えの服を持ってくる。雨宮ケイにはサイズぴったりな様子だが、エマには大きいぶかぶかのシャツを着せる。ひとまずはそれで、衣服の体裁だけは整った。
次に案内されて、ジェシカたちが通されたのは地下室である。ハシゴを使って下りたそこには、環状の大型機械設備が設置されていた。一般家庭では見かけないような、巨大で異形の装置である。
「これは……」
驚いている様子のエリー。
その横で、同様に口を呆けさせていたリンネが、目を白黒させて言った。
「フヒ! 自宅の地下に、秘密の“転移門”!?」
山中の一軒家の地下室に、普通ならありえない代物が設置されているのだ。リンネが言う通り、それはまさしく転移門である。本来なら、帝国騎士団や、都市管理をしている大貴族でなければ所持していないような、超高額な設備だ。設置のためには企業国の許可が必要になる。それがなぜ、こんな田舎の地中に存在しているのか。説明がつかない。
ジェシカは冷や汗を滲ませて、アイゼンを横目で見やった。
「さすがにこれには驚きよ。アンタ……いったい何者なわけ、オッサン?」
「だから言ってんだろ。ただの田舎の飲んだくれだって」
「……」
エリーは複雑な心境で、アイゼンの顔を見つめていた。その視線に気が付き、かったるそうに頭をボリボリと掻きながら、気が進まなさそうにアイゼンは補足説明した。
「まあ、なんだ。そもそも、この家はもらいモンでな。この転移門も、家と一緒にもらったもんなんだよ。別に俺が欲しくておいたもんじゃない。最初から置いてあったから、そのままにしておいただけだってんだ」
「そんなんじゃ、ぜんぜん説明になってないじゃない! 普通の家に転移門なんてセットでついてこないでしょ!?」
「緊急脱出用ってヤツだよ。あんまり自慢できたことじゃないが、俺は過去に色々とやらかしててな。色んなヤツから恨みを買ってる。万が一、追い詰められちまったなら、これを使えって、家をくれたヤツが言っていたんだよ」
「誰よ、そのただ者じゃない、家をくれたって人!?」
「めんどくせえガキどもだ。細かいことは良いだろう。せっかく便利なモンがあるんだから、使えば良いだけだ。文句あんのか?」
ギロリと睨んでくるアイゼンに、ジェシカとリンネは怯む。
アイゼンは、あまり過去を掘り下げられたくない様子だった。
今度はエリーが尋ねてきた。
「この転移門の行き先は、どこですか?」
「今まで1度も使ったことがないんだ。行き先がどこだったか、自信があるわけじゃあないんだが……聞いてる話じゃあ、たしかグレイン企業国が管理している白石塔のどれかに繋がってるらしい。つまりは」
「内世界の“北米”ですね」
「ああ、そこだ。片道切符だから、行ったら戻ってこれんそうだ」
「悪くありません。むしろ好都合です」
死中に活を見つけたエリーは、微笑んだ。
ジェシカとリンネの口元も、思わず緩んでしまう。
アイゼンからもたらされた、予期せぬ脱出口。この転移門を使えば、誰にも気付かれず、北方の領地を抜けることができるだろう。逃げた先でなら、エマを病院に運び込んだとしても、敵の追跡の目に止まる可能性は低いはずである。行き先が内世界であるため、医療技術の程度は知れているが、容態を安定させることくらいは可能なはずである。その間に、イリアへ助けを求めることもできるはずだ。
ジェシカはエリーとリンネへ言った。
「内世界へ行きましょう。今ある選択肢の中じゃ、1番マシだと思うわ」
「ちなみに。邪魔にならん程度に、俺も同行するつもりだが、構わんか?」
「……?」
同行を希望してくるアイゼン。
それは予想外の出来事である。
ジェシカは怪訝な顔をして尋ねた。
「アンタくらい強いヤツが同行してくれるのは、むしろ助かるくらいだけど……何だってアタシたちについてくる必要があるのよ。オッサンなら、トラヴァース機関の連中がやって来ても、返り討ちにできるでしょう?」
「俺1人なら、な。お前たち姉妹を助けた成り行きとは言え、面倒な奴等に目をつけられちまったんだ。俺がこの家に残れば、とばっちりが村の連中に降りかかるかもしれんだろうが」
アイゼンは顎を掻いて、少し不貞腐れたような態度で続けた。
「大概は、いけ好かない、ご近所ばかりなんだがな。酒場にだけはずいぶんと世話になってる。ほとぼりが冷めるまで、この村を離れているつもりだ。その間、どこで時間を潰すか……別に行く当てもないしな。なら、お前たちについていった方が、何かと懐かしい顔に会える可能性が高い。久しく会ってなかったヤツと、話したい気分にもなってんだよ、こっちは」
「久しく会ってないヤツに会うって?」
「気にするな。個人的な話だ。まあ、とにかくお前さんたちについていった方が、こっちとしては都合が良いんだよ」
「構わないわ。むしろ用心棒みたいで助かるくらいよ」
アイゼンとジェシカの話がまとまったところで、エリーが口を開いた。
「ジェシカ、私は…………ここに残ります」
「え?」
今度は、エリーから予想していなかった発言を聞かされ、ジェシカは戸惑う。
決意を秘めた眼差しで、エリーはじっとジェシカを見つめてきていた。
「ど……どうしてなの、エリー先生!? ここまで来て、何で!」
「理由はいくつかあります。たとえば、アイゼン様がネロさんを倒した件。おそらくトラヴァース機関は、アイゼンさんのことを警戒し、追いかけ、この家に辿り着く可能性が高い。しかし私が1人残って、こちらで敵へ陽動をかければ、この転移門が見つかるまでの時間稼ぎができるでしょう。そうすることで、あなたたちの逃亡は、より確実なものになるはずです」
そこまで言って、苦しげに眼差しを細めて歪めた。
「それに……今からする話を聞けば、より納得がいきます」
「何のことよ」
「2年前。アルトローゼ王国から、雨宮ケイを誘拐したのは私なのです」
「…………え?」
「それだけではありません。私たちが脱出してきた、あの秘密の研究所。ネロさんが管理者となったのは、つい最近のことです。ネロさんの“前任者”とは、私だったんですよ」
衝撃的な独白。
表情を固くするジェシカに、エリーは冷ややかな眼差しで告げた。
「――――“新世計画”。それが、グレイン企業国と、シエルバーン企業国が、共同で推し進めている極秘計画の名です。全てが動き始めたのは2年前、淫乱卿が開いた晩餐会の夜です」
エリーゼ・シュバルツの独白は、続いた。