10-38 辛辣な科学者
研究区画内に設置された、隔離実験室。
広いホールフロアに、特殊ガラスで囲まれたプレハブ小屋サイズのケージがある。クリーンルーム構造になっている室内には、実験機材やPCモニタ。薬品を保存する冷凍保管棚などが置かれている。シースルーの室内には、1人の少女の姿があった。
妻川ミズキ。
ツーサイドにまとめていた髪を下ろし、タイトスカートとシャツを着ていた。研究所の職員用の服を貸してもらっていることもあり、見た目の幼いOLのような姿になっていた。フロアにトウゴと篠川が姿を見せると、ミズキはパッと顔を輝かせる。
実験室前の準備更衣室で、篠川は待つことにした。カードキーを使い、実験室へ入ったのはトウゴだけだ。入室するなり、ミズキは尻尾を振って喜ぶ子犬のように、トウゴへ近寄ってきた。
「おかえりなさい、トウゴさん!」
微笑み返して、トウゴは応える。
「よお。元気そうだな、ミズキ。今日は具合が良さそうだ」
「えへへ。元気だけが取り柄の、私ですから。あ、配膳係の今村さんから聞きました。今日は研究所の外へ、食糧調達に行ったそうですね」
1ヶ月前、衝突した車から投げ出されて、血まみれになっていた姿がウソのように無傷だ。ミズキの傷は完治しており、何事もなかったように、はにかみ、照れ笑っている。一見して愛らしい少女にしか見えないが、ズタズタになった満身創痍だった姿を憶えている、世話係の職員たちから見れば、そのことは不気味に思われているらしい。
「トウゴさんは、本当にすごいですね。町が、こんなおかしなことになっていても、外に出て行こうっていう勇気があるんですから。霊感が強いだけじゃなくて、お化けと戦うこともできるし……」
「異常存在を駆除するのは、普段から仕事でやってることだからな。慣れてんだよ。こんなことに慣れる必要がない人生の方が、良いに決まってる」
「……それって。トウゴさんも、本当のことは何も知らないまま、真王が見せる、偽物の世界で生きていたかった、ってことですか?」
ミズキは、鋭いことを聞いてくる。
だがトウゴは肩をすくめ、迷うことなく答えた。
「俺は仕方ねえし、もう手遅れさ。けど、お前はそうだろ?」
「……」
ミズキは黙り込んだ。トウゴの言葉を認めているというよりも、何と答えれば良いのか、困っている様子だった。自分の気持ちを表現する、適切な言葉が思い浮かばず、ミズキが次句を躊躇っていると、トウゴが続けて言った。
「……悪い、ミズキ。全部、俺のせいだ」
申し訳なさそうに視線を伏して、トウゴは項垂れる。
「俺の仕事に、お前を巻き込んじまった。そのせいで、お前は知らなくて良いことを知り、見なくてもいいものを見ている。こんな町に連れてきちまって、しかも挙げ句に……お前の身体が、妙なことになってんだ。謝っても、許してもらえるとは思っちゃいないが、それでも言わせてくれ」
「そんな……。トウゴさんのせいじゃありませんよ。カールさんの喫茶店に立ち寄って、偶然、お化けに襲われて。私の運が悪かっただけですから。そんな私を、一生懸命に守ってくれようとしてくれてるじゃないですか。謝られるどころか、私の方がお礼を言わなきゃいけないくらいですよ」
「……」
これを守れているとは言えない。
状況に翻弄され、追撃者たちから逃げ回り、ミズキを危険へ導いているだけだ。そのことが、トウゴの胸中を苦しめている1番の原因なのである。だがそれを、ミズキには言いたくない。ミズキは、トウゴのことを信頼してくれているのだ。その信頼を否定するようなことを、口にしたくなかった。
険しい顔で黙るトウゴ。
沈黙が続くと、やがてミズキは悲しそうな表情で尋ねてきた。
「ねえ、トウゴさん……。私はまだ“病気”なんですか?」
「……」
「もう良くなったと思いませんか? いつまでも、ここに閉じ込めておかなくても……」
ミズキは、実験室を出たがっていた。
無理もないだろう。研究所へ避難してきてからずっと、ミズキはこの部屋へ押し込められたまま、外出することを許可されていない。それはミズキのためと言うより、この研究所へ避難している他の人たちの、身の安全のためである。ミズキが暴走し、人を襲って“食べない”よう、獣も同然に隔離しているのだ。
もう大丈夫なのではないかと言う意見に、トウゴは賛同しない。
まだその時ではないのだと察し、ミズキは寂しげに微笑んだ。
「そうですか……。まだ、なんですね」
「ごめんな、ミズキ。ここの管理者のアズサ先生から、まだ許可が下りてねえんだ」
「気にしないでください。私は平気ですから。トウゴさんなら、きっとこの状況を解決してくれると信じてます。私や、この町の人たちを、お化けたちから助け出してくれる。今はその方法がわからなくても、必ずです」
確信に満ちているミズキの眼差し。
トウゴを少しも疑っていないのだと、目を見ればわかった。
元気づけるように、励ましてくる。
「そんな暗い顔しないでください、トウゴさん。この町から抜け出して、そうして……また私と一緒に、元の生活に戻りましょうよ。きっと、できますから」
暗黒に閉ざされた町から出られず、怪物たちに取り囲まれている。世界の終わりのような状況であるというのに、ミズキは日常に戻れることを疑っていないのだ。まだ現実の厳しさを知らない子供であるからか。その楽天的な意見に、トウゴは苦笑する。思わず、ミズキの頭を撫でたくなった。
「ひゃあっ! な、なんですかいきなり!」
いきなり頭を撫でられたミズキは、真っ赤になって困惑している。驚きはしているものの、イヤそうな顔ではなかった。
「年下相手に、心配かけさせちまってるんだなと思ってさ。みっともねえ。ワリィな」
「う、うぅ~~……!」
トウゴはポンポンとミズキの肩を叩き、暗い顔をするのをやめた。
「そうだな。必ず俺が、元の日常に、お前を帰してみせる。今は俺を信じて、もうしばらくここにいてくれ。長くは待たせねえからさ」
「……はい!」
ミズキの期待の眼差しを背に、トウゴは実験室を後にした。2人でゆっくり話をさせたかったのであろう、気を遣って、準備室で待っていてくれた篠川と合流する。そうしてトウゴたちは、実験室の近くにある、主任研究員室へ向かった。
◇◇◇
アズサ・コールマン。
イギリス人の母親と、日本人の父親をもつハーフであり、帰国子女。29歳にして、月埜化成研究所の主任研究員に抜擢された才女である。日本人らしい顔つきで、茶色の瞳をしてはいるが、彼女の金髪は異人を思わせる。長い髪をポニーテールにまとめ、白衣を羽織っていた。歩けばヒールの音がする、OL然とした雰囲気の女性だ。
1ヶ月前、他の所員や研究員たちは、寮へ帰宅した夜に異常存在の襲撃を受けて全滅した。室長や副室長も死に、生き残ったのは、篠川の依頼に応じるべく所内に宿泊していた、アズサを含めた数名だけ。今は彼女が、暫定的にこの研究区画の長である。
研究室の戸がノックされる。
「どうぞ」
応えると、入室してきたのはトウゴと篠川である。
2人の顔を見るなり、アズサは席を立った。
「待っていました。かけてください」
デスクの近くに並べた、接客用のテーブル席を示す。そうして自身は食器棚からマグカップを取り出し、自分と来客分のコーヒーを淹れ始める。愛想笑いもない、サバサバとした態度。アズサのその応対には慣れたもので、トウゴたちは黙って、ソファへ腰を下ろした。
盆にコーヒー入りのカップを並べる。
それを持って、やって来たアズサへ、トウゴは言った。
「ここへ来る前……さっき、ミズキのところへ軽く寄ってきたよ」
「そうでしたか」
「普通の様子に見えたけど。実際のところ、ミズキの容態はどうなんだい、アズサ先生?」
先生呼びされていることを気にした様子もなく、アズサはトウゴたちの向かいのソファへ腰掛ける。そしてコーヒーを勧めながら、淡々と答えた。
「投与する鎮静剤と、安定剤を変えてみました。効果があったようで、“暴力性”と“食人衝動”はこの1週間、ずっと抑えられているようです」
「ああ。常に興奮してて、会話もできなかった時とは大違いだったぜ。この様子なら、元の人間に戻れるかもしれないよな? もしかしたら、このままミズキは治るのか?」
トウゴの質問に、少し苛立った口調でアズサは答え始めた。
「彼女が“異常存在化”している状態では、凄まじい肉体の再生能力と、筋力の強化現象が確認できましたが、沈静化すると、そうした特性も弱まるようです。今は普通の人間同様で、会話も普通にできますし、理性もあるようです。最近は、世話をしている職員を襲うこともありません。……ですがそれは、決して常人に戻ったからではありません。今も、ヒグマを眠らせるのに使うほどの薬量を与え続けることで、なんとか安定状態を保てています。薬効が切れれば……ここへ連れてきた時と同じように、動物の生肉しか食べない、獣同然の状態に戻ってしまうでしょう」
「アズサ……その言い方は、少しキツいな」
「ごめんなさい、スグル。けれど、それが事実なんです」
アズサは辛辣に捲し立てる。
「トウゴくん。ここでやっていることは、ミズキさんの治療ではありません。“分析”なんです。しかも私は生物学の専門家ではなく、化学の専門家。元々、スグルから頼まれていたのは、あなた方が持ち込む予定だったアンプルの成分分析でした。それが手違いによってミズキさんへ投与され、今はミズキさんの臨床試験と世話をさせられています。残念ながら私の力では、ミズキさんを元には戻せません。もしも私が、ミズキさんを治そうとしているのだと勘違いしているのなら、誤解しないでもらいたいものです」
「アズサ……。相変わらず、ズケズケものを言っちゃうなあ……」
頭を抱えている篠川のことを、気にした様子もない。
だが嘆息を吐いてから、アズサは付け足した。
「ですが、ミズキさんの身に何が起きているのか、それを解き明かすために全力を尽くすことは、約束しました。私は、約束を守ります。そこのところを間違えないで、私の話を聞いていただけますか?」
アズサの鋭い眼差しに凄まれ、トウゴは言葉を失っていた。
最初に出会った時から、キツい性格であるとは感じていた。今も、少し聞き方が悪かっただけで、ここまでの言われようである。軽い気持ちで、ミズキの寛解の可能性を聞いただけなのだが、治療しているわけではないという前提と少しでも食い違っている質問をすれば、この通りボロクソに言われてしまう。言説の正しさを重んじる科学者というだけあって、少し浮世離れした偏屈な人物である。だが篠川の話では、これでも怒っているわけではないらしい。
トウゴはやり込められ、頬を引き攣らせながら、愛想笑んで答えた。
「えーっと、その……。はい、わかりました。すいません」
「わかっていただければ良いのです」
足を組み、アズサは満足げに頷いて見せた。そんなキツい態度のアズサに、引いている様子のトウゴを見て、篠川はフォローを入れる。
「まあ、獰猛な野獣も同然だったミズキちゃんが、ああして普通に会話ができるようになったんだ。前進はしているよ。諦めるには、まだ早いさ」
「篠川さん……ありがとう」
そうしてから篠川は、アズサへ尋ねた。
「そ、それで、アズサ? 何か報告したいことがあったんだろ? それを教えてくれるかい」
「そうでしたね」
アズサは腕組みをする。
「自己紹介した時にもお話しましたが、私の家、コールマン家は“魔女”の家系です」
実直な性格のアズサが、真顔でそれを言う。
聞かされるたびに、トウゴたちは反応に困ってしまう。
そんなことは気にせず、アズサは語った。
「13代前の先祖が、アークの貴族に見初められ、子を成したのです。そのため代々の子孫たちは、私を含め、生まれつき知覚制限がかけられていません。それだけでなく、子孫たちは魔術の才能を持ち、私について言えば解析魔術を使うことができます。私の専門は化学ですので、生物学の知見はそれほどないのですが……魔術を使うことで、多少のことがわかってきました」
アズサは咳払いをしてから続ける。
「ミズキさんに投与された“救済兵器”というものですが。この1ヵ月ほど、アンプル容器の底に残っていた僅かなサンプルと、ミズキさんの身体を調べて、わかってきたことがあります。最初は仮説でしかありませんでしたが、ある程度、確証を持ってお話できるくらいには、情報がまとまりましたので、お呼びだてしました。細かい話をしても、知見の乏しいあなたたちには、理解できないでしょうから、簡易的な説明をしましょう」
悪気なく嫌味を言うアズサ。
そこには触れないで、トウゴと篠川は耳を傾ける。
「結論から言います。ミズキさんに投与されたものは――――“ウイルス兵器”です」