10-36 百鬼夜行
全ての部屋の明かりを消して、自分の気配も消す。
窓のカーテンも閉じて、家の中には誰もいないように見せかける。
そうして気配を殺して、娘と共に潜伏していた。
「……」
真っ暗なリビングルームで、2人きり。LEDカンテラを焚き火に見立て、その明かりが外に漏れてはいないかと、不安に思いながら身を寄せ合う。
「パパ。もう食べる物がないよ……」
幼い娘が、虚ろな目で空腹を訴えていた。
「……水を飲んで、我慢しよう」
「……うん」
言われた娘はキッチンへ向かい、水道の蛇口を捻る。勢いよく出た水をコップですくい、それを飲み始めた。幸いにも、電気と水は止まっていないため、飲み水の確保だけはできている。
だが、もう食糧がないのだ。
偶然にも自宅には、震災の備えとして備蓄していた食糧が、十分にあった。しかし、それはせいぜい2週間分だけ。棚下のビスケットは、2日前になくなった。缶詰がなくなったのは、もう5日も前のことだ。乏しい食糧を節約しながら、なんとかこの“1ヵ月”を生き延びてきたが、ついに食糧は尽き、娘に与えられるものは何もなくなってしまった。備蓄だけで過ごすのは、もはや限界である。
「……いったい、この形咲町で何が起きているんだ?」
幾度となく繰り返した、答えのない問いを呟いてしまう。
ある日から、空に太陽が昇らなくなった。
それからずっと、この町は夜のような闇に閉ざされている。
朝になっても暗いという異様な状況を、最初、町内会は未知の自然現象と考えた。情報を集めようとしたが、テレビはどこの局も映らず、インターネットは遮断されているようで不通の状態だった。電話も繋がらず、スマートフォンの電波も圏外で、町は完全に、外部との接続を絶たれていることがわかった。その日は工場へ出社することはせず、娘にも学校を休ませて、自宅待機することにしたのだ。
結果として、その判断によって命拾いできたのである。
闇に閉ざされた町のあちこちに、得体の知れない“怪物”たちがうろつくようになった。大きさや姿形は様々だが、いずれの怪物も、どうやら“人喰い”である。普通に出勤した隣人や、役場の対策会議に呼ばれた町内会役員たちが帰ってこなくなり、おかしいと思っているうちに、捕食にきた連中が、近隣になだれこんで、見る見る間に町人を襲って食い散らかしたのだ。
近隣の家々から聞こえる悲鳴や、骨ごと噛み砕かれている咀嚼音。それらが耳にこびりつく、悪夢のような夜が過ぎた。その後ずっと、町はこの異様な静寂に包まれている。おそらく自分たち父子以外の近隣住民は、みんな食い殺されたのだと考えていた。窓を閉め切っているためわかりづらいが、近所から微かに、肉が腐ったイヤなにおいが漂っているのだから。
怪物たちは人間と同様、音や光に反応する様子であるため、明かりを消して、長らくこの家に籠城してきた。時折、外から聞こえる足音や、獣のような息づかいを聞くだけで、外出しようという勇気は挫かれてしまう。自衛隊や国が、救援を送ってくれることを期待していたが……これだけの時間を放置されてしまうと、もはやその可能性はないのだと、諦めつつある。この形咲町は、田舎町ではあるが、1ヵ月にもわたって連絡が取れないのだから、隣の市などで騒ぎになっていないのだろうか。
この事態を、国が把握していない可能性。
あるいはもう……日本全土にこの異変が起き、この国は滅びている可能性。
様々な憶測が、脳裏をよぎってしまう。
「……」
外に出るのは恐ろしい。だが……いつも元気に走り回っていた娘が、こうして力なくヘタリ込んでいる姿を見ていると、いたたまれない気持ちになる。
このままでは、自分も娘も、餓死してしまうのは時間の問題だ。
生き残るためには――――食べ物を得る必要がある。
「……3丁目のコンビニは遠すぎるから、車がなきゃ行けない距離だ。車なんて運転してたら、目立って仕方ない。でもスーパーなら、ここから徒歩で200メートルくらいか……?」
行って帰ってこられない距離ではないように思えた。しばらく思い悩んだ挙げ句、玄関先に置いてあった、草野球用の金属バットを手にしていた。娘を守るためには、もうそれしかないのだ。
◇◇◇
扉の覗き穴から外の様子を見て、異変がないことを確認する。音を立てないよう、玄関の戸をゆっくりと開いた。空のバックパックを背負い、バットを構え、そうして背後の娘に声をかける。
「サトコ。パパの後を離れないように、しっかりついて、走ってこられるかい?」
「……うん。頑張る」
「偉い子だ。2人で協力して、なるべくたくさんのご飯を持ち帰ろうな」
「うん」
父親は、娘の頭を撫でる。幼いながら、死を覚悟しているつぶらな目を見ると、心が痛んだ。どうしてこんなことになっているのかと、運命を呪わずにはいられない。
本当なら自分1人で食糧調達に行き、娘には、安全な家で待機していてもらいたいところである。だが、敢えて娘を同行させるのは、理由があってのことだ。
「スーパーの先に、末松さんのお屋敷があるのを知ってるだろ?」
「あの、ヤクザ屋さんのおうちでしょ?」
お店か何かのように言う娘に、苦笑してしまう。
「ああ。これから、ご飯を手に入れて、そのまま末松さんの家へ避難しようと思う」
東刃会、末松組。
関東最大の暴力団組織であり、その系列のヤクザである。
組長の邸宅が、これから目指すスーパーの向こう側へ、300メートルほど行ったところに建っている。以前から物騒な雰囲気の子分たちが出入りしているのを見かける、良くない噂が絶えない家だ。だが家主の末松栄吉は、正月や盆に、餅つきや花火などのイベントを行い、近隣住民たちを招いて良くしてくれている。そのため町人からは、「相談すれば力になってくれる兄貴分」のような存在と思われていた。
怪物たちの襲撃の夜。
末松邸の方角から、銃の発砲音が聞こえたのだ。
おそらく銃火器を持っていて、怪物たちと交戦したに違いない。その戦いの結果はわからないが、もしも末松組の人々が生きていて、自分たちと同じように籠城しているとしたら……それに合流した方が安全に思えたのだ。最悪、やられた後だったとしても、今の自宅よりも安全な末松邸に籠城できる。あわよくば銃も手に入る可能性があるのだ。
食糧を調達し、そのまま娘と一緒に、末松邸へ向かうつもりだ。もう、今の自宅には戻らない。
「行くぞ、サトコ」
足音を殺し。
息を殺し。
姿勢を低くしながら進む。
暗黒に閉ざされた、星1つ見えない空。見慣れた自宅前の道路は、まばらに立った街灯によって、細々と照らし出されている。見えない暗がりや、道路脇の用水路の陰に、人喰いの怪物たちが潜んでいるように思えて、恐ろしくて仕方なかった。骨ごとかじられて喰われた、隣人の悲鳴を思い出してしまう。足を止めてしまいそうな恐怖の感情を振り払うべく、娘のことだけを考えて歩いた。本当はイヤだが、なるべく街灯の下を通らないよう、暗がりの中を進んでいく。
慎重に歩を進めるうちに、やがて親子は、無事に目的のスーパーマーケットの前まで辿り着いた。店内には煌々と明かりが灯っており、まるで通常営業しているようにさえ見える。だが店内に店員の姿や、客の姿などない。無人である。
「すごく明るいね、パパ。お店、やってるみたいだよ……」
「いや。営業はしていないはずだよ、こんな状況なんだから……。それにしても、まいったな。明るすぎる」
店内は明るすぎて、中に入れば、外から姿が丸見えになってしまいそうだ。運悪く怪物たちに発見されてしまうリスクが、高いということである。だが、せっかく思い切ってここまで来て、手ぶらという選択肢はない。
「……長居しないで、5分で済まそう。日持ちするスナックや缶詰を、バックパックに入れられるだけ入れて、すぐに出るんだ」
「わかった」
親子は小走りでスーパーの入口から入店し、商品棚へ一目散に向かった。
店内は照明だけでなく、空調設備も、冷蔵・冷凍設備も正常に動作していた。冷やされていたとは言え、陳列された生鮮食品や惣菜は、さすがに腐っている。だが冷凍食品や干物などは問題なく食べられる状態で、来る前に想像していたよりも、収穫はかなり多かった。バックパックいっぱいに、日持ちしそうな食糧を詰め込み、親子は久方ぶりに微笑み合う。
――――バチン。
「!?」
店内の照明が一斉に落ちて、暗転する。
「パパ……!?」
「シッ! 静かに……!」
急に照明が落ちたのは偶然か。
それとも、誰かが意図的に消灯したのか。
判断はつかないが、その場に棒立ちしているのは危険だと思えた。
怯えた顔で、しがみついてくる娘。その手を引いて、アイスを陳列している冷凍ワゴンの陰に身を隠した。持ってきていた懐中電灯の明かりは点けず、物陰から顔を覗かせ、暗闇の中に目を凝らす。そうして周囲に危険がないか、観察を始める。ついさっきまで、明るい場所に目が慣れていたため、いきなりの暗転で視力を奪われた。だが幸いにも、店外の駐車場に灯っている街灯が明るいおかげで、暗いながらも、店内の様子は見てわかる。
……異形の姿は見当たらない。
近づいてくる足音や物音、息づかいのようなものも聞こえない。
明かりが消えたのは、怪物の仕業ではなかったのだろう。
偶然、ブレーカーが落ちたとか、おそらくはそうした理由だ。
安堵しかけた直後、店内のどこかから、奇妙な声が微かに聞こえた。
テン…………。
「……?」
最初は気のせいかとも思った。
改めて耳を澄ませてみると、聞き間違いではないことがわかる。
誰かが暗い店内で、何かを囁いている?
ソウ………………メツ…………。
「なんだ……?」
テン……ソウ……メツ…………テン……ソウ……
くぐもった男の声だ。
まるで呻いているような声色だ。
お経のように、聞こえないこともない。
姿のない男が、暗い店内のどこかでボソボソと囁いている。その姿を想像しただけで気味が悪い。一気に冷や汗が出る。
囁きは徐々に明朗に聞こえ始め、明らかな異常に感じた。
娘の手を握る。
いつでも駆け出して逃げられるように。
いつでも一撃を与えられるように。
バットを握る手に力を込め、全身の筋肉へ力を通わせる。
テン……ソウ……………………
………………
……
「……?」
唐突に、何も聞こえなくなる。
囁く声が消え、店内は元の静寂に戻った。
耳に痛いまでの静けさと、暗闇の中にいる不安だけが残る。
「なんだったのかわからないが……そろそろ出たが方が良さそうだ。行けるか、サトコ?」
「……」
「……サトコ?」
ずっと手を握っていた娘。その手はいつしか、異常なまでに冷たくなっている。引っ張ってみても、娘はその場を離れようとしない。俯いて視線を床に伏せたまま、まるで駄々をこねるように、その場に止まり続けた。
「……痛っ……!」
子供とは思えない握力で、手を握り返してくる。まるで小さな万力に挟まれているようだ。大人が苦悶の声を漏らすほどの力である。娘はいきなり顔を持ち上げた。
その両眼は白目を剥き、狂喜の笑みを浮かべている。
「はいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた」
「ひっ、ひぃぃぃいい!!」
娘がおかしくなっている。
表情筋を目一杯に歪ませたその笑みは、まるで下卑た男の表情にも見える。狐憑きと呼ばれる類いの現象か。まるで別人であるかのようだ。何かに取り憑かれたようにしか思えない。先程の囁き声の仕業だろうか。この町を蹂躙する怪物の魔の手に、娘が落ちたのだと思った。
しきりに、娘の中に「入れた」のだと呟き、歓喜している何者か。それは娘の身体を操る。手近な棚に陳列されていたテーブルナイフを掴み取り、父親の腕に思い切り突き刺してきた。
「があああああっ! やめろ、サトコ!」
「はいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた」
血を滴らせる父親の腕に、娘はむしゃぶりつくように噛みついた。そのまま肉を噛みちぎろうと、歯を突き立ててくる。おそらく、親を食い殺そうとしているのである。
「やめろ! やめてくれ、サトコ!」
涙を流して懇願する。
愛する者に傷つけられる痛み、悲しみ。
自分が生き延びるために、娘を殺さなくてはならないかもしれない絶望。
父親の胸中は、悲鳴を上げている。
だが娘に取り憑いた何かは、狂ったように歓喜の言葉を繰り返すだけだ。
「はいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれたはいれた」
「――――さっさと出ていけや、ザコ異常存在」
「!?」
いつの間にか、見知らぬ男が、狂った娘の背後に立っていた。左眼に海賊のような眼帯をした、黒髪の男だ。肩には、大振りなショットガンを担いでいる。
知覚制限がかかっている父親の目には、見えていなかった。
だが男――――峰御トウゴの目には見えている。
娘の頭にへばりつくように付着している、アメーバ状の黒い怪物の姿が。
トウゴが、少女の頭を掴んだかと思った次の瞬間。そこから一気に、アメーバ状の怪物を引き剥がす。トウゴはそいつを、頭上へ放り投げた。
「ウゼえんだよ」
片手持ちのショットガンで、宙に浮いたアメーバを撃ち砕く。銀の散弾を浴びせられた小型異常存在は、木っ端微塵に吹き飛ばされて霧散した。
怪物を頭部から引き剥がしてもらった娘は、途端に正気に戻り、泣きながら父親の胸に飛び込んだ。
呆気にとられた顔で見てくる父親に、トウゴは肩をすくめて言った。
「俺たち以外に、この町で、まだサバイバルしてた親子がいるなんて思ってなかった」
「君は……この町の住人か? 俺たちって、私たち家族以外にも、生き残りがいるのかい?!」
「まあな。こうして食糧調達のために、まだ手を付けてないスーパーマーケットまで足を伸ばしてみたんだが、正解だったな。偶然、俺が立ち寄ってなかったら、あんたたちが危ないところだった」
「た、助けてくれたんだよね……? ありがとう」
「良いって。それよか、安全で、食い物の備蓄がある場所を知ってる。あんたら見たところ、腹を空かせてここへ来たんだろ。行く当てがないなら、俺についてきたら良い。他の生き残りと合流できるぜ」
「本当かい! それは助かるよ!」
「ただ、その前に少し待っててくれるか?」
「……?」
トウゴはタバコを取り出して火を点けた。それを咥えたまま、ポンプアクションで、ショットガンから排莢してみせる。そうして店の入口の方へ向かって歩き出した。
「!」
親子は気が付いた。トウゴと話していた間に、スーパーの周りには、異形の怪物たちが集まってきていたのだ。異様に背が高い人型の怪物。巨大蜘蛛のような姿の怪物。頭から無数の花を咲かせている怪物など、見るからにおぞましい化け物の集団だ。数えただけでも7体は見受けられる。
「そんな! なんてことだ! 怪物たちが集まってきてしまったのか!」
「今の銃声で、近くをウロついてた奴等が気付いて、集まってきたんだろうな」
怯え竦んで抱き合う親子と裏腹に、トウゴは飄々とした態度である。ショットガンを肩に担ぎながら、親子を尻目に告げた。
「あのゴミどもを、すぐに片付けるからよ。そこで待っててくれるか」
「片付けるって……君、まさかアイツ等と戦うつもりなのか! 無茶だ!」
「安心しろって。仕事だから慣れてんだよ、ああいうのを“殺す”のには」
咥えていたタバコを一気に吸い終え、それを吹き捨て、踏み潰す。そして、トウゴはウンザリしながら言った。
「クソッタレ。アイツはガキの頃から、アデルと一緒に、こんな化け物との殺し合いをやってたんだよな。まったくイカれてる。どうかしてるとしか思えねえよ」
店の外で、異常存在たちが威嚇するような咆吼を上げる。
それに怯むでもなく、トウゴは皮肉に笑んだ。
「今じゃ俺も、同じイカれ野郎だがな」