10-32 悪異自然帯
放課後。
生徒たちが帰宅し、無人になった廊下に、すすり泣く声が聞こえていた。
かすかに聞こえる、その声の出所を探ろうと、赤髪の少女は懸命だった。
クルステル魔導学院島、小等部校舎。2階の女子トイレ。
声が聞こえるそこへ入り、1つだけ使用中になっている個室のドアを、ノックする。
「……エマ、いるの?」
「…………」
すすり泣く声が止んだ。
しばらくの間を置いてから、ロックされていたドアが開く。中から出てきたのは、目の周りを赤く腫らしながら、無理に笑顔を浮かべているメガネの少女だ。なぜか頭髪に泥がかかっており、制服も泥水で汚れている。何事もなかったように誤魔化したいのだろうが、それが無理なことなど、わかっているだろう。それでも、妹は微笑んだ。
「……お姉ちゃん。どうしたの、小等部に来て。お姉ちゃんの校舎は、中等部でしょ?」
妹の悲惨な姿を見て、姉であるジェシカは、心が痛んだ。
「アタシが進級して、この校舎に来なくなってから、連中のいじめのターゲットが、妹のアンタに集中してるって聞いたわ。……心配になって様子を見に来たら……」
「……」
エマは、悲しそうな表情で俯いてしまった。もはや否定はしなかった。ポロポロと涙をこぼし、顔を歪めて、姉に抱きついた。傷ついている妹を、ジェシカは受け止める。そうして悔しそうに言った。
「どうして人間たちは、いつもこうなのよ。魔人が、人間よりも良い成績を取ったら、そのことで憎まれなきゃいけないの? 飛び級で進学したらいけないの? 少なくともエマは、何も悪いことなんかしてないじゃない……!」
エマの髪についた泥を、ジェシカは払ってやった。
そうして抱きしめ、泣き止むまで頭を撫でてやった。
「……そうだ!」
ジェシカは思いついた。
集中し、自身の意識をEDENの中へ意識を委ねる。
万物に存在する、見えない繋がり。黒い電線のようなマナのケーブルが、縦横無尽に世界を這い回っている。その光景が、ジェシカの視界に広がった。モノクロな世界の中に、ジェシカは1本の青い糸を造り出す。その線を使って、自分の額と、エマの額とを繋いで見せた。
「……お姉ちゃん、この経路は?」
「名付けて“姉妹通信”」
ジェシカは得意気に胸を張って説明した。
「他の経路を一切経由しないから秘匿性があるし、お互いを直接、結んでいるから。どんな悪環境化でも、必ず連絡が取れるはずよ。まあ、マナの乱れが酷い場所だったりすると、多少は、やり取りに時間がかかるかもだけど。それでもいつかは、必ず繋がるわ」
「お姉ちゃんと、必ずお話できるってこと……?」
「そう! 離れている時でも、いつも一緒にいるのと同じ。またエマがいじめられたら、私を呼びなさい。必ず助けに来るんだから」
「お姉ちゃん……!」
エマはもう一度、ジェシカに抱きついた。
「ありがとう、お姉ちゃん。大好きだよ」
「アタシだって、アンタが大好きよ。アタシの、たった1人の妹なんだから」
姉妹は互いを抱きしめ合った。
たとえ周りに理解者がおらず、酷い扱いを受けようとも。
2人で力を合わせれば、生きていける。
これまでずっと、そうしてきたのだから。
◇◇◇
ジェシカとリンネは、麓の街でレンタルした雪上車に乗り込んでいた。キャタピラの上にプレハブ小屋を載せたような、厳つい車体で、道無き積雪の森を進んでいく。
グノーアの村から北東へ40キロ。
針葉樹の森の風景は、いつしか歪なものに変わっていった。本来なら真っ直ぐに育つはずの木々は湾曲しており、まるで渦を巻くように、グネグネと不規則に伸びている。おかしな形状の木々に囲まれた雪道は、まだ昼間であるのに、異様に暗い。まるで黒い霧がかかったようだ。禍々しいものが潜んでいそうな、不吉な気配が漂っている。
晴天だった空からは、いつしか豪雪が降りしきる。
昼なのか、夜なのか。時間の感覚さえなくなる異常気候の山。
ジェシカは懸命に運転しながら、その渦中を抜けようとしていた。
助手席に座ったリンネが、固い唾を飲みながら、緊張した面持ちで呟く。
「さ、さすが悪異自然帯。すごい悪天候、ひぃぃ……」
雪上車のフロントガラスの前で、ワイパーが全力で動き回っている。少しでも止まれば、瞬く間に窓が雪で埋まり、目の前の視界はゼロになるだろう。本来なら運転することさえ危険な気象状況だ。それをわかった上で、ジェシカは必死にハンドルを切る。
「エマたちの調査隊キャンプのすぐ近くまで、もう来てるはずよ。あと少しなの」
「それにしても、この天候の中をこれ以上進むのは無茶だよ、ジェシカちゃん。1度止まって、天気が良くなるのを待った方が良いよ。2メートル先も見えない視界の中だよ? いきなり崖下へ滑落とかしたらどうするの」
「大丈夫。周囲へ経路を張り巡らせてるから、周りの地形は、ある程度ならマナの流れを読んで把握できてる。マナ動力車じゃなくて、ディーゼルエンジン車を借りてきたんだから、燃料さえ切れなければ動けるはず。もう少しだから……我慢して!」
「ひ、ひぃぃぃ……!」
岩を踏んだのであろう車体が、上下に激しく揺れる。
ほとんど視界がゼロに等しい雪の中を、車は無理に突き進んだ。
揺れが少し収まったところで、リンネが怯えた顔で言った。
「こんな極地の自然環境調査に来るなんて、ジェシカちゃんの妹ちゃんは豪胆だね。たしか、衛生画像が取得できない、マナ異常地帯の地図を作成するのが、調査隊の目的なんだっけ。専門家協会の仕事って、ハードすぎるぅぅ……」
「本当、何だってこんな危険な仕事に就いたのよ、エマ……!」
エマは自然が好きだ。
鳥や草花。ジェシカが苦手な虫にいたるまで。
人の手が加わってない、ありのままの世界を好んでいた。
学院で魔術を究める道はジェシカに任せ、自らの能力を、自然調査や保護活動に活かしたいのだと、進路を相談された。妹が学院を離れれば、自分の目の届かぬところで、いじめられることもなくなるかもしれない。何より、好きなことをやって欲しいと願って、賛同したのだ。
その結果、エマは、こんな危険地帯に派遣されている。それだけエマが、優秀な調査員であると、専門家協会から認められている証だろう。ジェシカは舌打ちする。
不機嫌そうなジェシカに気を遣っている余裕がなく、リンネは、ぼやいてしまう。
「悪異自然帯……。マナ対流の異常地帯で、マナ動力の機器は正常に動作しない、非文明エリア。自然環境も狂っていて、超常的な現象も数多く確認されてる。しかも光学的、電磁的な異常も多くて、衛星から映像を取得することもできない場合がある。人が立ち入らない土地だから、大概は、異常存在の生息地になっていたり、ならず者たちの根城になっていたり……」
持ち前の知識を、確認するように呟くリンネ。
やがて涙目で、運転席のジェシカへ言った。
「こんな危険地帯の調査に、妹ちゃんが来てるんだから、心配なのはわかるけど……。そもそもの調査予定期間は、2ヵ月。さっき立ち寄った村での目撃情報からすると、まだ現地入りしてから、半分の1ヵ月くらいしか経ってないし。ここはマナ通信も乱れるから、連絡が取れなくてもおかしくないと思う。専門家協会の、凄腕の怪物狩りたちも同行してるみたいだし……妹ちゃんは無事なんじゃないの?」
「心配しすぎだって、言いたいんでしょ?」
「フヒッ! そ、そういうつもりじゃ……」
「良いのよ。普通なら、リンネの考え通りだと思うわ。でもね、アタシが、エマの身に何か起きてると考える根拠はちゃんとあるの。だって“姉妹通信”が途切れているから」
「姉妹通信……?」
「アタシとエマの“姉妹通信”は、EDENを使った秘密の魔術回線よ。昔、子供の頃に作った、糸電話みたいなものなの。2人でしか話せないけれど、どんな場所にいても、必ず繋がる。たとえマナの異常地帯でもね」
「……」
「見えてきたわ! あそこよ!」
ジェシカは、ホワイトアウトした視界の向こう側を指さす。
たしかに、その方角に、微かな明かりのようなものが見える気がした。
雪上車で近づいてみると、そこには大きな投光器の柱が立っていた。とにかく視界が届く範囲が狭いため、いきなり目の前に現れたような登場の仕方である。リンネはそれに驚いた。
「投光器があるってことは……もしかして見えないだけで、このすぐ傍に調査隊の基地施設がある?」
「だと思うわ。視界が悪すぎて見えないけど、このすぐ近く。8メートルくらい先に、建物の入口みたいなものがあるのを感じるわ」
「ジェシカちゃん、空間解析が専門でもないのに、こんなにマナが乱れてる場所で、そんなに広範囲なマナ探知を?!」
リンネは思わず舌を巻いてしまう。
人間であれば、基本的に1人につき1つしか扱えない魔術を、EDENに親和性の高い文化を持つ魔人族であれば、複数扱える。魔人は希少種であるため、彼等が1人あたりで扱える魔術の種類が、平均でどの程度なのかは定かになっていない。
だがジェシカは、そんな魔人族の中でもさらに、天才的な存在ではないかと、リンネは考えていた。一緒に行動して見てきた限りでも、ジェシカは10種以上の魔術を使って見せている。そのことだけでも驚異的ではあるが、今は周囲のマナの流れを読むという、探索魔術の真似事までやって見せているような口ぶりだ。懸命に学院で勉強して、卒業するまでに何とか探索魔術を1つ極めるので必死な、そんな人間の使い手がいたとすれば、それはたしかに嫉妬されてもおかしくない有能ぶりである。
「ジェシカちゃんは、本当にすごいよね……憧れちゃうなあ」
眩しいくらいに輝いて見える、学院で唯一の友人。うっとりしているリンネの呟きなど聞いておらず、ジェシカは手際よくシートベルトを外して告げる。
「ここで降りるわよ」
凍結しないように、雪上車のエンジンをかけたままにしておく。ジェシカは手袋やマフラーを身につけ、後部座席に寝かせて置いてあった、自分の杖を手に取る。外の猛吹雪の中へ、出て行く準備を始めていた。
リンネは慌てて呼び止める。
「ちょっ、降りるって……待って!」
「なによ」
「たとえ建物が数メートル先でも、この視界の悪さじゃ遭難しちゃう!」
「大丈夫、アタシには周囲の様子が何となく感じ取れてるから! アタシの手を握って、ついてきて!」
「フヒ! ジェシカちゃんの手、握って良いの……?」
「早く、行くわよ!」
「フフヒイ!」
頬を赤らめながら、嬉しそうにジェシカの小さな手を握るリンネ。そうして2人は、車の外へと飛び降りた。強烈な冷気に頬がヒリつく。巻いていたマフラーへ顔を埋めながら、吹き付ける雪が目に入らぬよう、視線を細めた。強風に煽られながら、2人は手を繋いで、白い世界を歩いて行く。程なくして、目の前に突然、近代的な建物の金属扉が現れる。
「フヒ、本当に辿り着けたね」
「ここがおそらく、エマたち調査隊の拠点基地で間違いないと思う。ほら。扉に、専門家協会のエンブレムが付いてるわ」
ここは悪異自然帯。
好き好んで、滞在している人間がいるとは思えない。
今このときに、この場に拠点を構えている専門家協会の施設。
妹の調査隊が設営した仮説基地で、間違いないだろう。
扉は施錠されていない。
それを確認し、ジェシカは告げた。
「このまま外にいたら凍え死ぬわ。とにかく、入るわよ」
扉を開け、2人はその中へ歩み入った。
「……?」
入ってすぐに違和感を感じる。
「……暗いね」
「明かりが点いてないし。それに寒いわね。息が白いわ」
ジェシカの唇から、白煙がこぼれる。
不思議そうに、リンネは首を傾げた。
「外よりはマシな気温だけど……暖房がついてない? この寒さで? どうしてかな。事前に専門家協会の人から聞いてる話だと、この調査隊基地ってたしか、いくつか仮設のプレハブ小屋みたいな建物を並べてる、ちょっとした集落みたいになった場所だよね。なら、この棟は今、ちょうど留守ってことなのかな……?」
ジェシカは険しい顔をする。
「たしかに、この吹雪が始まったのって、急だったわね。たぶん止むまで、この棟に帰ってこれなくなった帰宅難民がいるのかも。だとしたら、調査隊の人たちは他の棟に集まってるのかもしれないわ。エマもそうかしら」
リンネは、腰に提げていたカンテラに火を灯す。それを前方の闇へ向かって掲げながら、後ろ手で扉を閉める。金属の擦れる音がして、扉が閉まると、屋内へ吹き込んでくる吹雪が止んだ。外の悪天候がウソのように、仮設基地の建物内は静まり返る。予想外に、遮音性が高いようだ。
「……!?」
リンネは異常に気付き、青ざめた。
「ジェシカちゃん、これ……!」
壁の一角を指さし、リンネは後退った。
同様にジェシカも気付き、絶句してしまう。
「これって……」
「…………血の痕ね……!」
カンテラの光が照らす、僅かな空間。その光の下にさらけ出されたのは、ジェシカの最悪な予想を裏付けるような、おびただしい量の血痕だった。