10-26 少女変異
僅かな間、意識を失っていた。
「…………痛っ……」
目覚めて最初に感じたのは、痛み。
気が付いた途端に、それは全身に広がっていき、思わず呻いてしまう。首から下を見下ろせば、大小、様々なガラス片が突き刺さっている、痛々しい自分の姿が見えた。頭部は生暖かいベールのようなものに覆われている感触があり、おそらくは大量の血が流れている。
少し離れた場所には、ガードレールに突き刺さったバンが見えていた。前照灯の明かりが、暗い森の方を虚しく照らし出していて、その明かりの外側に、自分は仰向けで転がっているようだ。車のフロントガラスは破れている。どうやら自分は、そこを突き破って車外へ投げ出されたらしい。シートベルトをし忘れていたことを、今さらになって後悔した。
全身を切り刻まれているような、鋭いガラスの痛み。
それに耐え、身体を動かそうとする。
だが、腹部から下の感触がないことに気が付く。
痛みを感じるのは、上半身だけだ。
「やだ……私の足……動かないの…………?」
なぜ動かないのか。
自分の身体に、致命的な故障が起きてしまったのか。
このまま、もう2度と歩くことはできないのか。
恐怖と不安がこみ上げ、全身から血の気が失せてしまう。短時間で、ショッキングな現実が、立て続けに発覚しる。動揺した心臓は動悸し、目眩と吐き気が襲ってくる。果たして今、自分の姿を鏡で見たなら、どのような惨状になってしまっているのか。想像するだけでも恐ろしい。
動きたい。
歩きたい。
痛くても、苦しくても。自分は大丈夫なのだと、確かめたかった。それなのに、足は動いてくれない。まるで四肢の動かし方を忘れてしまったようだ。あまりにも残酷な現実に、涙が溢れてきた。
「うぅ……うううぅ……」
痛みが激しくて、言葉を発する余裕がない。
暗い森の中に横たわり、いつ終わるともわからない、痛覚の地獄にあえぐ。
なぜこんなことになってしまったのか、後悔ばかりが募った。
「……………あれは?」
自分の動かない足。右脚の腿に、ガラス片や木の枝以外に、何かが突き刺さっているのが見えた。見覚えのあるそれは、たしかトウゴが、篠川に渡したものだ。
「…………トウゴさんの持ってた、アンプル……?」
篠川が上着のポケットに入れていたはずのそれ。自分と一緒に、車の外へ投げ出され、偶然にもそれが刺さったのだろうか。アンプルの中身は空になっていて、封入されていた赤黒い液体は、全てが注入された後の様子だった。
◇◇◇
道路標識を、野球バットのように軽々と振り回す、ダイキの膂力。非常識な力で繰り出される一撃は、アスファルトを叩くたびに、地を揺らす。その1つ1つが、たやすくトウゴに致命傷を与えるだろう。一撃の被弾も許すわけにはいかず、トウゴは跳躍やダッシュで避けて、ダイキから距離を取り続ける。
「どうしたよお、峰御! 逃げるばっかりかあ?」
敵は複数いるのだ。
ダイキに気を取られすぎて、焼けた顔の男に不意打ちされてはたまらない。
今のところは様子見を続け、逃げ回るしかない状況だ。
この状況で唯一、幸いなことがあるとすれば。焼けた顔の男の方は、トウゴへの攻撃を仕掛けてこないことだ。大きな鎌を持っているのだ。戦えないわけではないのだろう。ただじっと、ダイキとの攻防を観察し、トウゴの実力を品定めしているような態度である。
それでもトウゴは、毒づきたくなる。
「馬鹿力め……! その力、異能だな。なら、テメエもクラス4ってことかよ!」
「クラス4だあ?」
その呼ばれ方に、ダイキは不服そうな声を上げる。
「そりゃあよお、帝国騎士団から操り人形も同然の扱いをされてる、木偶野郎どもを階級呼びする言い方だよなあ。無粋な呼び方してくれてんじゃねえ。俺様たちみたいによお。特殊能力持ちの異常存在ってのはなあ、帝国の魔導兵とだってやり合える、エリートなんだぜえ? しかも自我と知恵を有した“新世代”なんだっつの」
ダイキが語る間にも、トウゴは思考を巡らせていた。
相手は人の姿をしているとは言え、異常存在。前回、タワーマンションで戦った時にも判明していることだが、一般的な人間の急所が、イコールでダイキの急所にはなっていない様子だった。目玉を抉っても、頭を撃っても、まるでダメージを受けた様子がなかった。普通の殺し方では、ダイキは殺せないだろう。
「ならやっぱり、頭か……?」
以前に東京で相対した怪物紳士も、人型をした怪物だった。あの怪物は、頭部を切り落とすことで、絶命させることができた。だとすればダイキも、頭部を切り落とすことができれば、あるいは殺せるのかもしれない。しかし、トウゴが今持っている得物は、銃とナイフだ。首を刎ねるために、接近戦に持ち込むには、危険すぎる相手である。
ダイキの繰り出す攻撃の合間に、トウゴは自動拳銃を発砲し続けていた。その狙いは正確で、全てがダイキの胸部へ突き刺さる。それにダイキは感心した。
「弾道からして、心臓狙いってかあ?」
小馬鹿にしたニヤけ顔で、ダイキは道路標識を、大きく頭上へ振りかぶった。
「心臓を撃たれたくらいで死ぬかよ! そんじょそこらのザコと一緒にしてくれんなあ!?」
言うなり、地面を蹴って、高く飛び上がる。トウゴの身の丈ほどの距離を跳躍し、そのまま重量塊を思い切り振り下ろしてくる。大振りで大味な攻撃。隙が大きいため、トウゴがそれを避けることは難しくなかった。だが、アスファルトに叩きつけられた道路標識の先端部が砕け、爆散するように周囲へ破片を撒き散らした。その大小の破片が、トウゴの手足に突き刺さる。
「ぐあっ!」
「どうしたあ?! この前、俺を殺しに来た時の方が、動きにキレがあったぞお? 車で事故ったばかりじゃあ、本調子じゃねえってかあ!」
ダイキが言う通り、本調子ではなかった。
「さっきまでの脳振盪の影響が抜け切ってねえ……!」
まるで関節に鉛を流し込まれたように、俊敏に動くことができずにいた。思っているタイミングよりも、ワンテンポ遅れて身体がついてくる。よろけるトウゴへ、ダイキが追撃を仕掛けてきた。砕けた道路標識は、先端が尖った筒状の槍と化していた。それを何度も突き出し、トウゴを串刺しにしようとしてくる。その全てを完全に避けきることができず、かすり傷を無数に作ってしまう。
「おっせえ! おせえおせえおせえおせえ! なんだあ?! この前、テメエが使ってた力! ありゃあ、超加速能力じゃなかったのかよお? それを使わねえのは、もったいぶってんのかあ?!」
トウゴの左眼に隠された聖遺物。
その力を使わないのかと、ダイキは挑発してきている。
「宇治川では、まんまと逃げられたし。しかもテメエは上級魔導兵クラスの使い手である可能性があるってんで、ボスもえらく警戒しててよお。後から記憶統制してやるから、このど田舎の町ごとでも、テメエ等を始末して、一刻も早くアンプルを回収しろだとさ。だからこっちはよお、せっかくこうして兵隊を揃えてきたってのに。なーんだ、ずいぶんと呆気ねえなあ。俺様1人だけでも十分だったかあ? このまま何もせずに、やられちまうかあ?!」
ダイキは攻撃の手を止め、皮肉する。
「こりゃあ、巻き添えくらって死んだ町人たちが浮かばれねえなあ。お前がアンプルを盗んだせいで、とんだとばっちりの無駄死にじゃねえの。ギャハハハハハ!」
トウゴは舌打ちし、相手に聞こえない小声で答えた。
「こちとら、気軽に乱発できる力じゃねえんだよ……!」
発動には重たい“代償”を支払わなければならないのだ。本当に、ここぞというタイミングでしか、使うべきではない力である。今この場は、たしかに使い時ではある。だがダイキはともかく、まだ手の内を見せていない、焼けた顔の男が控えているのだ。どちらかと言えば、トウゴはそちらを警戒していた。
だが、いつまでもこの膠着状態を続けていれば、トウゴが不利になるのは間違いないだろう。できれば、車の中で気絶しているであろう篠川やヒナが目を覚まし、車から投げ出されたミズキを助けられる算段が見えてから、仕掛けたいところだったが。
「なりふり構ってられねえか!」
眼帯を退かし、瞳の力を発動しようとする。
だが――――その瞬間を狙っていた女が、暗がりからいきなり飛び出してくる。
そのままトウゴを背後から羽交い締めにし、動きを制限する。
「なっ! ミホシ!?」
予期せぬ伏兵。現れたのは、赤いジャケットを羽織った長髪の女。ダイキの妹である、ミホシである。今まで完全に気配を消して、闇の中に潜んでいたのだ。トウゴが能力を使おうとして生まれる、隙を窺って。
「やべえっ!」
トウゴへ縋り付くようにしているミホシ。足止めされたトウゴの頭上に一撃を食らわせようと、ダイキがパイプ槍を手に突撃してくる。
「でかしたぞお、ミホシぃぃ!」
避けられない。
絶体絶命の危機を前に、トウゴは冷や汗をかいた。
――――暗がりの向こうから、さらに“何か”が飛び出してくる。
トウゴへ槍を突き出そうとしていたダイキの横っ面を、飛び出してきた少女が思い切り殴りつけた。肉を叩く鈍い音が、大気を震わせる。ダイキはトラックに衝突されたような勢いで、全身を投げ出すようにして頭から吹き飛ばされた。そのまま近くの民家の壁を突き破り、粉塵を巻き上げながら着弾する。
トウゴは目を疑った。
「ミズキ……なのか……?!」
ダイキを殴り飛ばし、窮地を助けてくれた少女は、ミズキだった。全身にガラス片が刺さり、流血した痛々しい姿の少女。獣のような鋭い眼光をたたえ、荒い吐息を吐き出している。本当に野獣さながらの唸り声を上げていた。
ミズキは、トウゴを羽交い締めにしている、ミホシをギロリと睨んだ。即座、目にも止まらぬ速度で、トウゴの背後にいたミホシの顔面を殴りつけた。その一撃で、ミホシの頭部は爆発したように砕け散る。脳漿と頭蓋の欠片を撒き散らし、ミホシは力なく、その場に膝を折って倒れた。
電光石火のミズキの一撃が、トウゴの頬を掠っていた。まるでマッチを擦ったように、頬から煙りが上がった。それを横目にして、トウゴは引き攣った笑みを浮かべていた。
容易くミホシを殺害して見せた、ミズキ。
獣のように咆吼を上げる。
血濡れた怪力の少女を見るなり、焼けた顔の男が驚愕していた。
「バカな! 使ったのか、あの“ウイルス”を!」
「ウイルス……?」
「ろくに組成も知らぬクスリを、まさか使うなど。愚かな。これで、状況はさらに悪くなったぞ」
「なに言ってんだ、テメエ……!」
状況の不利を察したのか、焼けた顔の男は、暗がりの中に撤退していった。余程、都合の悪いことが起きたと見たのか、その判断は迅速だった。一方、上司がいなくなったというのに、ダイキは首を鳴らしながら、民家の中からよろけた足取りで歩み出てくる。
「おーおー。俺様の妹をぶち殺してくれたわけかよ、“新入り異常存在”のクソ女」
「何だと! ミズキが異常存在だと!?」
耳を疑うようなことを、ダイキが口にした。
ミズキの一撃は重たかったようで、ダイキの顔面の骨格は歪んでいた。それを整えながら、ダイキはニヤニヤと笑って言った。
「見りゃわかんだろ? その女は、もう人間じゃねえ――――」
民家に駐まっていた車が急に動き出し、ダイキを背後から弾き飛ばす。車に轢かれたダイキは路上を転げ、倒れ伏した。前照灯を灯したセダン車。その運転席に座っていたのは、篠川だった。
「今のうちに乗って、トウゴくん!」
「篠川さん!?」
「君が注意を惹いてくれていた間に、車を盗んだ。早く乗って!」
ミホシは死に、焼けた顔の男は姿を消した。今この場で唯一の脅威であるダイキは、路上に転げて腰をさすっているところである。逃げるなら、千載一遇のチャンスだ。
「ミズキ、行くぞ!」
鼻にシワを寄せ、目を血走らせているミズキ。獣のような唸り声を上げている。まさに怪物のような気配を漂わせていた。ミズキの身に何が起きたのかわからない。トウゴの言葉が通じているのかも、わからない。だがトウゴは――――ミズキを抱きしめた。
「!?」
「……ごめんな、ミズキ」
「……」
「こんなことに巻き込んじまって、しかもそんな姿になって……。でも、必ず俺が助けてやるから……。だから今は、一緒に逃げてくれ」
トウゴに抱きしめられると、ミズキは唸り声を潜める。
大人しくなり、トウゴの言うことに従順になった。
トウゴに手を引かれて、篠川の車の後部座席に乗り込む。
「早く、出して!」
2人が乗り込んだのを確認して、助手席のヒナが篠川を急かした。「言われなくても!」と、篠川は目一杯にアクセルを踏み抜いた。車は急発進し、もう一度だけダイキを轢いて道路を駆け抜ける。背後の暗がりにダイキの姿が消えたのを見送ってから、ヒナは泣き顔で言った。
「いったいどういう状況なのよ、これ!」
「混乱するよね。なのに協力してくれて、助かるよ、ヒナちゃん」
ポロポロと涙を流すヒナを、篠川はフォローする。そうしながら、ルームミラー越しに、後部座席のトウゴと、野獣のような雰囲気になったミズキを、篠川は冷や汗交じりに見やった。
「ごめん、トウゴくん。僕に預けてくれた、あのアンプルだけど……どうやら事故で、ミズキちゃんに投与されたみたいだ」
トウゴは驚いた顔で、篠川を見る。
「事故で投与されたって、どうしてそんなことに……!?」
「偶然だったんだけどね。ガードレールへ衝突した時、僕が持っていたアンプルごと、ミズキちゃんは車の外へ投げ出された。運悪く、それが足に刺さってたよ。気付いて、僕が引き抜いた時には、すでに中身は空になってた……。今のミズキちゃんに何が起きてるのか、正確なことはわからないけど……さっきの暴れっぷりと、敵さんたちの口ぶりから察するに、おそらく“異常存在に変異してる”んじゃないかな」
トウゴはミズキの手を握ってやりながら、困惑した。
「そんな……! あのアンプルは、人間を異常存在にするクスリだったってのか!?」
「おそらくね」
「聞いたことがねえぞ! そもそも異常存在ってのは、脊椎回路が本体の化け物で、人型のヤツは、帝国の手でわざわざ“人に似せて製造されたモノ”だ! 人間の身体に取り付いて、化け物に変えちまう寄生生物みたいな奴等じゃねえ!」
「わかってるよ。けど、周囲の物質を取り込んで自身の身体を構築する。異常存在のその特性を考えれば、理論上は人間の身体を材料にして、あたかも寄生したような振る舞いができてもおかしくないんじゃないかい?」
「なら、今のミズキは肉体を乗っ取られて、中身が異常存在になったってのか!? 俺の言うことに従って、こうして大人しくしてんだぞ!? なら、まだミズキの意思があるってことだろ!」
「落ち着いて。現時点で、これらは推測でしかないよ」
「……!」
篠川は提案した。
「予定通り、このまま月埜化成研究所へ向かおう。あそこは建物も頑丈だし、セキュリティも厳重だ。敵側も簡単には手を出せないだろう」
「研究所か……」
「ああ。アンプルの解析を依頼する予定だったけど、状況が変わった。解析対象は、それを投与されたミズキちゃんになった。ミズキちゃんの身に何が起きているのか、わかるまでの間、食糧の備蓄があれば良いけど」
「……食糧の備蓄?」
奇妙なことを口にする篠川に、トウゴは疑問を感じる。
「覚悟した方が良いよ、トウゴくん。ブラッドベノムは、僕たちをこの町から逃がさないために、包囲を解くことはしないだろう。町人諸共に殺すつもりだってことは、もうわかっただろ。もしも僕が敵側なら……この町を“知覚不可領域”にして、外界の社会から隔離するだろう」
「……!」
篠川は、引き攣った笑みで断言した。
「僕たちは、この町の人たちと一緒に閉じ込められた。ここから先は、籠城戦になる。この田舎町の全てが、怪物軍との戦場だ」